天使様の願いごと

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ワッサワッサ……ズル、ズル……
何かを引きずるような音が、中庭から聞こえている。
通用口のドアを開けると、むっとした熱気。
今年は猛暑が訪れるのがかなり早く、梅雨明け前だというのに、もう何日も真夏日が続いている。

「すごいですねえ。今年は随分と、大きな笹を選んで来たんですね。」
外に出て来た永泉が、笹を担いでいる詩紋とイノリを見て言った。
「やっぱ、こういうのはでっかいヤツにいっぱい飾り付けした方が、迫力あるってもんじゃん!」
「これだけじゃないんですよ。実は、あと残り4本もあるんです。」
そう、既に彼らはここを二往復をしている。
気温も上昇し続けているというのに、この肉体労働。頭が下がる。

7月の始めになると、毎年こんな風に笹竹を仕入れる。
理由はもちろん、七夕の飾り付けのためだ。
正面玄関にひときわ大きなものを飾り、他には小児科病棟やイノリが担当する医療保育の部屋など。
従来、どんよりした気分になりがちの院内。
そんな中で、年にいくつかのイベントは重要な意味を持っている。
七夕の飾りつけや、クリスマスのツリー。
子どもたちや患者や職員たちも含めて、盛大にたくさんの飾りや趣向をこらす。
せめてほんの少しでも、患者の気を紛らわすことになれたら…。
想いを込めながら始めたこのイベントも、かれこれ10年以上続いている。

「それにしても、こんなにいっぱいの笹に飾り付け、足りるんですか?」
「心配ご無用ー!飾りだったら、既にダンボール4個くらいになってるし!」
「イノリくんが、入院してる子たちに教えてたんだもんね。」
その他にも小児科病棟や、婦人科、リハビリ科にも手先の訓練として頼みまくった成果だ。
もちろん看護師を始めとするスタッフも、協力に携わっている。
「じゃあ、あとはお願いごとを書く短冊ですね。」
短冊は毎年、病院に訪れる者すべてに一枚ずつ配られる。
通院している者、見舞い客、付き添いや看護に来る者。
そして医師やスタッフにも配られ、好きなところに自由に飾ることが出来る。

「お二人は、もう書いたんですか?」
「俺は、既に書いて用意してある!」
イノリの願いごとは-----みんなが元気になって、野球とかサッカーの試合を出来ますように。
詩紋の願いごとは--------早く一人前の漢方医になれますように。
「永泉さんは書いたんですか?」
「実はまだなんです。でも、やっぱり願うのは…みなさんの病状が完治すること、ですね」
彼はそう言って、優しい笑顔を浮かべた。

病院に勤務し、医療という世界に生きる者。
病に苦しむ人々の治療にあたる者の願いは、誰しも共通。患者の全快、だ。
短冊に書かずとも、それらは全員が常に思う永遠の願い。
だからこそ------こういう場合、敢えて個人的な願いごとで、雰囲気を和らげようとする者も、少なからずいる。




「なあに、森村くん、それー」
玄関に立てかけられた笹の飾り付けは、若い研修医たちがやらされる。
森村を含めた5人ほどが、脚立に登りながら飾り付けをしていると、一枚の短冊を見て看護師たちが大笑いした。
「これぞ、青年の本音の主張ってもんでしょーが」
一番目立つところに、森村は自分の短冊を飾った。
オレンジの短冊が、ひらひらと笹の葉の間で揺れる。

"彼女いない歴が、3年でストップしますように"
彼の性格そのままの、ちょっと無鉄砲な書き殴り文字で、そう書かれている。

これでも大学の頃には、2年ほど良い関係の女性がいたのだ。
しかし臨床実習やら何やらで忙しく、卒業が近付くたびに互いの時間が少なくなってゆき……
「しまいにゃ誘っても行かないとか言うしー。したらばいつのまにか、オレの後輩とデートなんかしてるしー。」
ま、早い話が振られたわけで。
そんな彼の悲恋の昔話は、飲み会などで度々語られているため(泣き上戸)、皆少し耳にタコが出来ている。
だが、あれから3年……さすがにそろそろ潤いが恋しい、と最近になって本気で言い出した。

「あの二人に振り回されてちゃ、オレだってフリーはキツイっしょ〜っ?」
溜息をこぼし、情けなさそうに泣き付くようにぼやく。
あの二人というのは、"あの二人"のこと。
「まあ…確かにねえ」
顔を見合わせ、苦笑いをする看護師たち。
森村の言い分は、心の底からよーく分かる。
彼女の幼なじみとして親しい彼には、この環境は少し刺激が多すぎる。
「…フリーだと、いろいろと気まずいわよねえ〜」
そう言われた森村は、こくこくと大きくうなづいた。


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さて、そんな森村を悩ませている張本人は--------社食兼用のカフェテラスにいる。
しかし目の前のコーヒーも手つかずで、ぼーっとして気が抜けた状態。
「橘先生?出張のお疲れがあるのは分かりますけれど、もっとしゃきっとして頂かないと。」
目の前に座っていた藤原が呆れたように言ったが、友雅の気怠さは変化無し。
「はあ…」
もう何度目だろうか、彼のこの溜息。
食事に来て30分も立っているのに、頼んだのはコーヒー一杯のみ。
それさえも、半分程度しか口にしていない。

…重症ですねえ。
眼鏡を外し、今度は藤原の方が溜息をつくが、友雅は全く無反応だ。
まったく、元宮さんのご機嫌ひとつで、こうも変わってしまうとは。
そんな変貌に少々困りもするのだが、その反面でまたおかしくもある。
国内だけではなく世界でも、それなりに名の知れた名医である彼。
その彼が生気を失っている原因が、愛妻にそっぽ向かれたことだなんて、どう考えても笑い話だ。

「ですが、今回はどう考えても、先生の強引さが問題だったと思いますよ?」
ようやくコーヒーカップに手を伸ばしたとき、藤原が窘めるように言った。
済んだ食器を集めて、トレイの中にきちんとひとつに重ねる。
カトラリーも横に揃えて、彼の几帳面な真面目さは仕草からも伺える。
「ご夫婦だからと言っても、相手のお気持ちも考えなくては。そんな強引なことでは、元宮さんも怒りますよ。」
「そうなのかねえ……ふう」
口を付けようとしたカップを、友雅は再びソーサーへ戻した。
代わりに口から吐き出したのは、またためいき。

一体いつになったら、普段の橘先生に戻るんでしょうかねえ?
その方法と治療薬はひとつ。
分かってはいるのだけれど、その治療薬である彼女は現在かなりのご機嫌斜め。
だから、彼がこんな状態なのであるが。



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Megumi,Ka

suga