HEAVEN'S DOOR

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「じゃ、お夜食は1階のカフェに頼んでありますから、取りに行って下さいね」
夜食がないとなったら、絶対に適当に済ませるに決まってる。
空腹感を自覚しなければ、食事を摂るという習慣を持たないのは昔から。
だから、そこは先回りして用意しておかなくては。
ドクターは、神経も体力も必要な仕事なのだし。
「忘れずに行ってくださいね!」
「はいはい。天使様の有り難いお言葉だからね」

「ああ、そうだ」
帰ろうとするあかねを呼び止めた友雅は、ポケットの中から封筒を取り出し、あかねにそれを手渡した。
「何ですか、これ」
「さっき、部長からもらったんだよ。インポートブランドの、ブライダルフェアだそうだ」
じいっとそれを見ているのを思うと、あかねも馴染みの無いブランドのようだ。
ブライダルオンリーらしいので、一般的なネームバリューとはいささか違うということだ。
「丁度時期も良いし、次はここに行ってみるかい?これまでとはちょっと違ったドレスがあると思うよ」
招待状を見せれば、アドバイザー付きで試着が出来るという。
ドレスの他にも披露宴の演出に欠かせないディスプレイなどの、あらゆるブライダルグッズが勢揃いする。
まだ殆ど何も決まっていない挙式と披露宴だけれど、こういうのを見て歩けば参考になる。

しかし、あかねはカードを封筒の中に戻した。
「…うん、もう良いや…」
封筒はそのまま、友雅の手に返される。
「あかね?」
思わず、反応に困った。
こんな返事が彼女から戻ってくるなんて…微塵にも思っていなかったので。
「何か…気が乗らなくなっちゃった…」
「気が乗らないって、ドレス選びが?国産のドレスの方が良いかい?」
「ううん、そうじゃなくて…別にもう良いかなあって」
ごく薄い紅色の唇からこぼれる、ためいきのような口振り。
視線も顔もうつむき加減で、彼の顔を見上げることはない。

空気の静まった夕暮れの廊下に、二人の影が長く延びる。
その先に続く医局のドアが開くと、中から顔を出した医師が友雅の姿を見つけた。
「橘先生!待ってたんですよー!」
医局長が当直について打ち合わせをしたいとのことで、今日の当番である友雅が来るのを皆待っていたらしい。
「じゃ、お仕事頑張ってくださいね」
彼らから一歩退くようにして、あかねはその場を去って行く。
まだ戸惑いが消えていないのに、彼女の背中を追い掛けて行きたいのに、医局にいる同僚たちが呼ぶ声に引き止められる。
受け取ってもらえなかった、白い封筒に入った招待状がここにある。
彼女の手に渡るものだと信じていたのに、これをどうしたら良い?


あかねは帰宅し、友雅は医局に姿を消した。
病棟はそろそろ夕食の時間となるため、ナースステーションの周りはやや慌ただしくなる。
「…見た?」
「うん、見た。何かあったの、あの二人」
患者本人や付添たちが、徐々に廊下に集まって来る中で、ひそひそと話しているナースたち。
そんな彼女たちの前に、カートをガラガラと引きながら森村がやって来た。
「夕飯お届けでーす」
「あら森村くん、いつからそっちの仕事に転職したの」
今日は夜勤なのでさっき出勤したところ、調理場の前を通ったら手が空いてるなら運んでくれと、調理場のオバサマ方に頼まれただけだ。
若いんだからとか何だとか、適当な理由つけて押し付けられたとも言えるが。
一応研修医なので、あれこれ使いっ走りをさせられるのは仕方ない。
だが、上司であるドクターや看護師たちならいざしらず、パートの調理師オバサマにまで手を貸せと言われる自分の立場は一体。

「ところで、何だかこそこそ話してましたけど、何かあったんスか?」
ここまで手伝った手前、夕食を取りに来た患者たちにトレイを渡しながら、森村は背後にいるナースに問い掛けた。
すると彼女たちはチラリと横目で彼を見て、妙な笑みをふっと浮かべる。
「森村くんて、ホントにタイミング良く話題に入って来るよねえ」
「は?何のことっスか」
ぽかんとしている森村の腕を、ナースたちは引っぱり寄せた。
「実はさっきあかねがさ……」
その切り出しを聞いた瞬間、森村は己のタイミングの悪さに気付いた。
ああ、何でまたこういう場に、自分は首を突っ込んでしまったのか、と。


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お互いにアルコールは強くないので、その代わりデザートが豊富な店を選んだ。
そういう店はやはり大半が女性客ばかりで、尚更リラックス出来る気がする。
「なるほどねぇ…。まあ、あかねの言い分も分かるわ」
シーフードや生ハムを使ったエスニックなオードブルと、デキャンタたっぷりの烏龍茶で喉を潤しながら、延々と話は尽きない。
既婚者として先輩である彼女の話を合わせながら、あかねは胸の中に積もっていたモヤモヤを吐き出した。

「随分時間かけてるもんねえ、ドレス選び」
「友雅さんの考えは分かってますよ。たまにうるさいと思うけど…」
ドレスのデザインに色々注文をつけるのは、それだけ自分のことを気にしてくれているからだ。
肌の露出にこだわっているのも、自分を独占したいという彼の思惑故で。
「すごくやきもちやきなんですよ…他の人は気付かないかもしれないけど」
いや、ソレ全然知ってますし。
っていうか、彼のあかねフリークを知らない同僚なんて、皆無と言って良いし。
新人や研修生(主に女性)は、まず彼の外見にぽーっとする者も多いが、数日すればその熱は波のように引いて行く。
あかねの存在が、彼にとってはあまりに大きすぎるので。
「ま、あかねだってまんざらじゃないんでしょ」
「う…まあ…そうですけど」
本気で文句があるなら、とっくに喧嘩でもして強引にドレスを決めているだろう。

「でも……いつまでも決まらないものだから…」
「つい、もういいや、って言っちゃったと」
こくりと首を縦に振ったあかねは、烏龍茶のグラスを手に取った。
その指にきらりと輝く指輪は、彼とおそろいのプラチナリング。
仕事中は外しているけれど、それ以外は身につける。
「いろんなドレスがあるから、最初は試着するのも楽しかったんです。今でも楽しいことは楽しいですよ?でも…」
決まらなければ、試着の意味が見出せない。
ああしたい、こうしたいと希望はあるのに、決まらないまま数年の月日が過ぎて。
その時間の中で、何回知人の結婚式に参加しただろう。
他人のウェディングドレスを眺める立場ばかりで、いつになっても主役が回って来ない。
婚約したのも籍を入れたのも先なのに、追い抜かされて時間が流れて行く。
「友雅さんは男の人だし、着るものも大体決まってるでしょう?だからそんなに気にならないのかなぁ…」
「うん、女性みたいにパターンが多くないからねえ」
「ですよね。だから、結構簡単に考えているのかなーって…」
女性が考えるウェディングドレスへの思い入れは、男性の彼には伝わらないのかもしれない。
だから、いつまででも先延ばしが許されるとか、思っているんじゃないだろうか。
「可愛いドレスは早いうちに着たいけど、これじゃどんどん遅くなっちゃう…。それだったら、もうこだわっても意味ないかなあって思っちゃったんですよね」
これまでに山ほどのドレスを身につけられたし、披露宴や挙式をしなくても、着なかったわけじゃないのだから。

もう、それでいいかな…。
そろそろ自分も諦める時期なのかも、と感じてしまった。



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Megumi,Ka

suga