天使の指先

 005
マンションに辿り着いたのは、6時前。
病院を出たのが5時を過ぎていただろうから、それでも1時間かからなかったのは上出来だ。
8時半の始業時間に間に合うようにと、毎朝7時に家を出なければ厳しい交通事情。帰りもまた、6時前後は混雑することが多いというのに。
一刻も早く帰りたい、という気持ちが通じたのかな…などと考えながら、地下のパーキングエリアに向かった。

『6-3』という表示は、6階の3号室…つまり603号室という意味である。
そこが友雅の駐車スペースだが、その隣に『6+1』というスペースがある。
彼の名義で借りられている、もうひとつのエリアだ。
だが、名義は彼の名前でも、使用しているのは別の人物。
シルバーのBMWの隣に、真っ赤なPASSOがいつも停まっている。
今日は久しぶりに休みなので、買い物に出掛ける予定だと言っていたが、さすがにこんな時間であるから、帰宅しているようだ。

……と、思ったら。
「あ、おかえりなさい、友雅さん」
一旦ブレーキを踏み込み、ウインドウを開けると、あかねがそこに立っていた。
「どうしたんだい?買い物に出掛けていたんだろう?」
「うん、そうなんですけど…ちょっといろいろあって遅くなっちゃって。今、帰って来たところなんです。」
取り敢えず自分の車を停めてから、外へ降りた。そして、あかねの車の方へ回ると、後部座席には荷物が積み重なっている。
スーパーの買い物袋だけでも、大きいものが3つ。その他、友雅には馴染みの薄い店名が入った荷物。

「貸してごらん。重いものは引き受けるよ。」
缶詰と瓶詰と…1リットルサイズの100%ジュースが2箱。カートで運ぶときも、かなり重労働だった。
いくらエレベーターがあると言っても、これを6階の部屋まで持っていくのは大変だろうと思っていたから、ここで友雅に遭遇出来て良かった、とあかねは思った。

重い荷物を友雅に任せると、あかねはもう一度車内を探った。
そして、黒いサテンのドレスバッグと、ホルダーの中にあったドリンクを手にして、ドアをロックした。


「帰り、結構早かったんじゃないですか?今日、オペでしたよね?」
エレベーターが降りて来るのを待ちながら、あかねが尋ねる。
「ああ…簡単なものだったし。順調に済んだから意外に早く終わってね。定時で帰れたのは久しぶりだな。」
「そうですよね。でも、定時にしても早いかも…」
「渋滞がなかったからじゃないかな。平日なのに、道が透いていてね。」
「そうなんですか?私と逆じゃないですか。駅からの道路は混雑してましたよ?」
こちらはスムーズに流れて、この時間。彼女は混雑に巻き込まれて、遅くなってこの時間。
おそらくあかねにはストレスがあるだろうけれど、丁度ここで鉢合わせになれたのだから、良しとしてもいいかなと思う。

部屋の鍵を開けて、照明のボタンをONにする。
真っ暗な部屋が、ぱっと明るくなった。
「ってことで…ごめんなさい。遅くなっちゃったから、これから夕飯の支度しなくちゃいけないんですよ。」
買い物袋をキッチンに運び入れ、冷蔵庫に品物をしまい込みながら、あかねが顔を上げる。
「構わないよ。さすがに今日は少し疲れてるし、それまでゆっくりバスタブに浸かってみるよ。」
「うん、その方が良いですね。でも、出来るだけ早く用意しておきますね。」
ぱたん、と冷蔵庫のドアを閉めて、あかねが笑顔で答えた。

意外に単純な性格をしているんだな、と我ながら思う。
あれだけモヤモヤしていたのに、今はそんな面影などかけらもない。
つまらないことで苛ついていたことが、嘘みたいにすっきりとしている。
駐車場であかねの顔を見た瞬間から、いつも通りに穏やかな気分に戻っていて…。
こんなに自分が嫉妬深いと知られたら、逆に呆れられてしまうんじゃないか、と苦笑いが浮かぶ。

彼女は買って来たものをキッチンに並べて、何を作ろうか考えている。いつもそうやって、今日の献立を悩みながら調理している。
時々雑誌やメモを覗きながら、あれこれと試行錯誤している姿は和やかな光景だ。
その手から生まれる料理は、少なからず自分に食べてもらうためにと作られるもので、そのために彼女はいろいろなことを考える。
栄養価とかバランスとか、難しいことから始まって、好みのことも頭に置いて。
それだけこちらを知っているから、出来ることがある。毎日のメニューを考えることも、そのひとつ。
……それほどに、深いつながりがあるじゃないか。自分と彼女の間には。

「あ、それ、あたしのですよっ!」
飲みかけのまま起きっぱなしにしていた、抹茶フラペチーノを友雅が手に取っていたのを見て、思わずあかねが声を掛けた。
しかし、甘いものがそれほど得意ではない友雅が、それを飲み干すわけがない。
「こんなに甘いものを飲んでるのかい?」
「だって、好きなんですもん」
ドライブがてら出掛けたときに、よく彼女がこれをオーダーしているのは見かけていたが、自分で口にするのは初めてだ。
本来苦いはずの抹茶の味に、山のように絞ったホイップクリームは、ドリンクというよりもデザート。

「こういうのを飲んでいると知ったら、患者さんに怒られるかもしれないよ?"そんな、カロリーの高いものを飲んで!"とかね」
「良いじゃないですかー!たまに…たまにですってば!」
拗ねたように言い返すあかねを尻目に、もう一回だけストローを啜ってみるが、やはり自分には甘すぎる。
「返してくださいよっ。飲み終えなくちゃ勿体ないんですからー!」
あかねはそれを取り返そうと、横から手を伸ばした。

だが、次の瞬間、友雅の手があかねの顎を掴んだ。そして、彼女の顔をぐっと持ち上げる。
「……口紅、変えたの?」
「えっ?何でそんな…」
急に近付いた顔と、彼の親指が触れる唇が緊張で震える。
「ストローに、いつもと違う色が少し付いていたよ。こういう色、持っていなかった気がするけど。」
仕事が仕事だから、普段はいつも肌の色に近いものが多い。
薄いオレンジやピンクばかり。外出用も何本か持っているが、それも同じ系統の少し濃いめの色合い。
しかし、うっすらとストローに映されたその色は、鮮やかで少し華やかなローズピンクだ。今まで、彼女の唇がその色で染まっているのを見たことがない。

よく目を凝らしてみる。唇の輪郭を浮き上がらせるように、同じ色がいつもの色の下に残っているのが分かった。
「あの…ちょっとお店でメイクされちゃって…」
「コスメコーナーとかで?」
「ううん、そうじゃなくって、その…いつも行くフォーマルドレスのお店で…」
ウェディングドレスの試着をしていた時、店員に『メイクも本番っぽく合わせてみた方が良い』とか言われて、せめてルージュくらいは…と、華やかな色を塗られてしまった。
普段付けたことのないその色は、自分には不釣り合いなくらいに鮮やかで。
何だか気恥ずかしくてそのままでは帰る勇気がなくて、車に戻っていつものルージュに塗り直した。
多分、あの時の色が残っていたんだろう。

「来月、先輩の結婚式があるでしょう?その時に着ていくドレスを探してて、そこで試着してたときに、ちょっと色々と…」
友雅は、さっきあかねが抱えていたドレスバッグを思い出した。
そういえばバッグの表面に、そんな文字が書かれていた。
そしてクローゼットの中にも、同じ店のバッグが数個あったはずだ。

「だけど、たかだかフォーマルドレスを試着するくらいで、メイクを変えたりするものかい?」
確かに結婚式に参列することは、華やかな場所だとは思うけれど、あくまで来客はそれほど着飾る必要はないのでは。
主賓の…花嫁じゃあるまいし。
「うん、そうなんですけど……」
そう答えるあかねの表情が、どこかぎこちなさを醸し出している。

「今更、私に隠し事が出来ると思ってる?」
指先で顎を突くように持ち上げて、真っ直ぐに彼女の瞳を捕らえて。
嫌でも視界から逃れられなくさせる。
「隠し事ってわけじゃないですよ…そんなこと別に何も…」
「だったら、その特別なメイクの意味を言いなさい。少なくとも、何か隠しているように私には見えるよ?」
あかねは、華やかな色の残る唇を少し噛みしめて、視線だけを友雅から逸らした。

「ウェディングドレス…の試着をしたから…その時にちょっと…」
----Wedding and Formal Dress Shop----。
ドレスバッグに、小さく書かれていた文字を思い出す。
そこは結婚式用ドレスの専門店。参列者用のドレスは勿論だが、メインはあくまでも主賓者に向けられた店。
ウェディングドレスが並んでいるのは、当然のことだ。
「そこのお店、先輩が紹介してくれたお店なんです。そこで結婚式のドレスを選んだ時に、後輩が近く結婚するとかってお店の人に話したらしくて…。"じゃあ、ドレスの試着してみませんか?"って誘われて…」
「その時にメイクをされたってこと?」
「そう…です。完璧な本番メイクは無理だけど、ルージュの色だけでも雰囲気が変わるから、って言われて…。」

結局、試着したドレスは6着。手当たり次第、良いなと思ったものを全部身に着けてみた。
ブーケやベールなどの小物まで含め、あまりの品揃えの多さに目移りするほど迷いに迷って。
結局、帰りがこんなに遅くなってしまった原因は、これが最大の理由だった。



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Megumi,Ka

suga