天使の指先

 004
オペが終了したのは、午後4時30分だった。
ほぼ予定通りに作業は進み、何らミスもなかった。
完璧なオペだったと口を揃えるスタッフも、これでホッと一安心というところだ。

「橘先生、今日はお仕事はおしまいでしょう?珍しく定時で終わったってことで、久しぶりにちょっと付き合いませんか?」
着替えを済ませ、医局に戻る途中で友雅に声をかけて来たのは、さっきまでオペチームにいた麻酔科医師だった。
そしてその後ろには、若い男性看護師が2名続いている。
「誘ってくれるのは有り難いけれど、私は遠慮するよ。色々と今日は疲れることがあったからね…。」
医局に到着して、取り敢えず休憩しようと紙コップにコーヒーを注ぐ。
ソファに腰を下ろして、窓の外に目をやってみると、まだ日差しは明るい。
だが、少しずつその光も傾き始めている。

まったく、今日は余計なストレスを抱えてしまった。手術には全く影響がなかったが、だからと言って未だに平穏な心理状態ではない。
今頃、あかねはどうしているだろう。自分の帰りを待ちながら、夕食の支度でもしているだろうか。
マンションを出たのは、7時。あれから10時間も経っていないのに、無性に彼女の顔が見たい。
これまでも、どちらかが休みだったりして、24時間顔を合わせないこともあったのに、半日にも満たない時間でも限界が近付いている。
顔を見るだけで良い。自分の視野の中に、彼女の姿があればいい。
そうでもしないと、もやもやした何かが渦を巻いてしまいそうで。

「------------ですよねえ、橘先生?」
ぼんやりと、ここにいない彼女のことを考える友雅に、笑いながら話しかける数人のドクター。
そんな声も耳に入らずに、手に持ったコーヒーは減りもせず、ただ冷めていく。
「ほら。すっかりもう帰宅モードのようですよ。既に、気持ちだけはマンションに向かっているんじゃないですか?」
数人の笑い声が、やっと友雅の意識に反応する。
「…何か、言ったかい?」
口に含んだコーヒーは、すっかり冷めて味も不味い。これなら、最初からアイスコーヒーにすれば良かった、と後悔してカップをテーブルに置く。

すると、こちらを見ていた数人のドクターが、友雅を見て笑いながら言う。
「やっぱ、奥さんが部屋でお待ちかねじゃ、むさい男の酒飲みに付き合う気にはなれませんよねえ?」
決してそれは嫌味というわけではなく、ただひやかし気分で言っているだけだ。
「奥さんは今日はお休みだから、先生の帰りを待っているんじゃないですか?」
「手料理なんか揃えてね。いやー、羨ましいなあ…新婚さんは!」
「気が早いな…。まだ式も挙げていないのに、"新婚"はちょっと早いだろう?」
オペ患者のカルテに目を通し、はやし立てる彼らの言葉を軽く受け流した。



着替えを済ませ、ジャケットとよく似た色のブリーフケースを片手に、再び友雅が医局に戻って来た。
相変わらずドクターたちは、リラックスムードで雑談中だ。
「それじゃ、私はお先に上がらせてもらうよ」
彼らに挨拶をして、家路に向かうとした友雅にドクターの声が掛かった。
「可愛い奥さんによろしくー!」
珍しくもない一言のはずだった。
それなのに、急に友雅の足が止まる。そして、声の主の方を振り返る。

一瞬、ドクターがぎくりと硬直した。
妙に友雅の視線が、鋭く感じられたからだった。
しかし、何故そんなに尖った目を向けられたのか、さっぱり思い当たらない。
彼の逆鱗に触れるような発言をしたか?そんな覚えはないし、だったらさっきの会話中に反応しそうなものだ。
今だって、単に別れの挨拶を投げかけただけだったのに。
普段、感情的にならない相手だからこそ、こういうときの緊張が高まる。

ドクターたちが困惑している間に、友雅の表情はいつも通り柔和な笑顔に戻った。
「ああ、よろしく言っておくよ。奥様修行中の彼女にね。」
軽く手をかざしてそう一言答えると、再び彼は背を向ける。
そして、そのまま振り向かずに部屋を出て行った。

数分経って、緊張の糸がやっと緩んだ頃。
「お、俺、今…何か不味いこと言ったっ!? 」
慌てるドクターに、戸惑う他の同僚達。
だが、誰一人として友雅の一瞬の変化の理由を、答えられる者はいなかった。

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夕暮れの景色の中を、シルバーのBMWが走り続ける。
この時間にしては珍しく渋滞に巻き込まれず、湾岸線の流れはスムーズに郊外へと流れている。
カーステレオからは、普段ならケニー・Gあたりのサックスが聞こえてくるはずだが、今日は無音。
オレンジ色に染まる海岸線沿いを走るには、そんなBGMがぴったりなのに、どうもそんな気分になれない。
時折すれ違う車のエンジン音が、聞こえるだけ。
助手席には、彼のジャケットとブリーフケースのみ。
そこにいつも座っている、彼女の姿はない。

信号で一旦停止。
意識が少しほぐれて、友雅はさっきの自分の行動を思い出しては、呆れるような溜息をついた。
「……馬鹿だな。たかだか、あんな一言に過敏に反応するなんて。」
いつもみたいに、冷やかし半分で言っただけだ。
そんなこと分かっているのに、他人が彼女を"可愛い"と言っただけで、ぴくりとこめかみ辺りの神経が硬直する。

もしかして、彼も心の底ではあかねの事を気に入っているのかも?。
"可愛い"と形容詞をつけたくらいで、好意があると思われるとしたら、世界中の人間すべてが恋人同士になってしまいかねない。
それくらい、つまらない邪推だと分かっているにも関わらず、どうも面白くない。

さっきの言葉は良いとしても…院内にあかねに好意を持っている者が、何人かいることは、永泉たちからの情報で確認出来ている。
院内に関わらず、薬品会社や系列病院の医師が出入りするのは当たり前。
それに加えて、医学部や薬学部の生徒はもちろんだが、体育学部の生徒たちも、怪我の治療やリハビリに来たりすることも多い。
とにかく大学病院には、外部の人間の出入りが激しい。
…ということは、若い男性が闊歩する率も高いということ。

看護師は女性が多いけれど、全体的に見れば男性の比率が元から多い職場だ。
そこに男性患者まで加われば、若い女性看護師が注目されるのは当然。
客観的な第三者の目で見渡して、看護師の女性達はみんな見映えが良いと思う。
まだまだ若いシングルナースもいることだし、同じくらいの若い男性看護師や、研修医たちには目に眩しいだろう。

だからこそ、どうにも納得出来ない。
「他にも看護師は大勢いるのに…何であかねに目をつけるんだ?」
そりゃあ自分は、どんなに多くの看護師がいたとしても、あかねが一番だと思っている。それは看護師としても、個人的にもだ。
彼女が好きで付き合って来たわけだし。好きだからこそ、一緒になりたいと根気強くアプローチを掛けた。
答えを渋られ、先延ばしされながらも諦められなかったのは、それだけ彼女が好きだったからだ。
でも、それは自分が彼女と付き合っている仲だからであって…!
そういう背景があるからであって…、決してふらりとした気持ちなんかじゃない。
"ちょっと可愛い"とか、そんな生半可な気持ちであるものか。
確かに、出会った時に遡れば、そういう感情もあったかもしれないけれど、今と昔は違う。

通りすがり程度の、他の輩と一緒にされてたまるか。
こっちは-------何年もかけて、天使を独占する許可を得ることが出来た、唯一の人間なのだ。

背後から、クラクションの音がする。
見上げると、信号がすでに青に変わっていた。
「…何やってるんだろうな…。いい年して、嫉妬なんてみっともないか…」
アクセルをゆっくりと踏み込み、再び車は走り出す。何事もなかったかのように、スピードは加速する。
「まったく…馬鹿みたいだ。本当、我ながら呆れるよ」
つまらないことほど、気になるもの。どうでもいいものほど、深読みしがちだ。
だが、それ故に気付くことがある。
こんなになるまで、彼女の存在に依存していた自分。

天女に惑わされた男の気持ちが、少しだけ分かる。
とは言っても、相手は"天女"ではなく"天使"だけれど。



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Megumi,Ka

suga