天使の指先

 003
「…あれだけ院内で大騒ぎになったのに、彼女にフィアンセがいることも知らないのかい?彼らは。」
出来るだけ平常心を装って、友雅はさらりと言ってみる。
だからと言って、乱れ始めた重苦しい鼓動は治まる気配をみせない。
困ったものだ。
つまらないジェラシーと焦りで、こんなに動揺してしまうとは。

「まあ…あの騒ぎは、例えその後入院された患者さんでも、耳に入らないことはないと思いますが。でも、中にはそういうことを気にしない人もいますからね。」
「そうそう。だから"略奪愛"なんて言葉があるわけでねえ」
永泉のグラスから聞こえる、氷がかすれる涼し気な音。
ドクターの手元からは、サラダボウルに触れるフォークの金属音。
どちらも軽やかなはずの音なのに、友雅は頭を抱えて溜息をつく。
「二人とも…分かってるかい?午後から私はオペが入っているんだよ?あまり惑わせるような話をしないでくれないかな…」
苦笑いで冗談めいた雰囲気を作るけれど、本心は結構本気で困惑しているのだ。
何度も彼女の意志は確かめたし、だからこそ将来を見越して一緒に暮らし始めた。
簡単に崩れるような関係ではない。
そう信じてはいるけれども……正直やっぱり気にかかる。

「どこまでが本気かは知らないけども、暢気に構えていない方が良いよ、ってことですよ。最近の若いヤツは、積極的ですから。」
もう一言、容赦のないドクターの追い打ち。
「…せっかくの昼休みだというのに、余計疲れてしまったよ。オペでミスなんかしたら、責任取ってもらうからね?」
言った友雅も、言われたドクターたちも笑い声を上げた。
友雅が医療ミスをするような、柔な腕を持っているドクターではない事は、誰もが確信しているからだ。


まだ昼休み中の永泉たちと別れて、友雅は医局へと向かうために、昇降口をゆっくりと歩いていた。
天井に近い窓から差し込む木漏れ日は、真っ白な踊り場を眩しく輝かせている。
時々、看護師とすれ違っては、挨拶を一言二言。
『今日は元宮さん、お休みですから心細いんじゃないですか?』……なんて。
そんなひやかしの言葉もあったりするが、こういう事に関しては素直にYESと言えば受け流せる。
だが、今日は少し違うようだ。

院内にいる誰もが、自分の顔を見ては口を揃えて同じ事を言う。自分にも、そして彼女にも、正式な相手がいると承知の上だ。
毎日の回診の時にも、世話好きな年配の患者から最近よく声を掛けられる。
たまたまあかねと一緒に回診の時などは、とんでもない話題にまで飛躍して、病室がとたんに賑やかになる。

『二人とも、早く子供を作った方がいいわよ?』
『あのー…私たち、まだ式も挙げてないんですけど…』
『何言ってんの!今どき順番なんてどうでもいいのよ。先生、ちゃんと頑張りなさいよ!』
-----とまあ、そんな感じで。
病室とは思えないほど、高らかな笑い声と話し声に包まれることもしばしば。
言葉も態度も遠慮などせずに、背中を叩いては押し出す彼女たちの応援(?)に、戸惑いながらの回診はなかなか楽しい。
その度に赤面しながら、後を着いてくる彼女と、二人きりになったときの話題の種は尽きない。
しかし、まさかそんな患者の中に、あかねに近付こうとしている者がいたとは…。

「…全く。やっとのことで手に入れた私の天使に、横からちょっかいを出さないでもらいたいよ…」
頭を掻きながら、昼下がりの廊下を歩く。
とりあえず、この続きを考えるのは、オペが終わってからにしよう。

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「つい先日、業者から新しいドレスが入荷致しましてね。それと併せて、フォーマルドレスなども夏用が多数入っているんですよ。」
ショップの店員は、あかねを新作の並ぶフロアへ案内してくれた。
結婚式に招待される時、ドレスはいつもここの店で選んでいる。
元々先輩からの紹介で知った店。つまり、看護師御用達の店というわけだ。

「ええと、日中の人前でしたら…こちらのようなドレスは如何でしょう?」
サーモンピンクのスリップドレスに、白いレースのショール付き。裾に繊細なレースをあしらった、光沢があるワンピース。
迷ってしまいそうなほどの品揃えを前に、いくつか鏡に映しているあかねに店員が話しかけた。
「ウェディングドレスは、もうお選びですか?」
「えっ…?」
びっくりして振り返ると、店員の女性はにっこりと微笑む。そして、彼女の手には、ウェディングドレスのカタログが数冊。
「近々、後輩の看護師さんがご結婚されると、先日お聞き致しましたので。」
そういえば、今回結婚する先輩看護師のドレスは、ここでオーダーしたと聞いていたから…多分その時、雑談として話題に上がったのかもしれない。

「もしも、まだでしたら…どうぞカタログをお持ち下さいね。男性用のスーツも、各種取り揃えておりますし。」
3冊しかないのに、単品が結構な厚さなのでずっしりと重い。
しかし、それ以上にあかねの気持ちも重さを感じる。

「よろしければ、試着してみません?」
「えっ!?い、良いですよっ!まだ…決まってないんです!何も!」
式の日取りも、ドレスも、披露宴の会場も、マリッジリングどころかエンゲージリングさえも。
言葉で交わした約束のみ。それは…とても儚く見える。
そんなあかねに構うことなく、店員は彼女の手を引いてドレスコーナーへと連れて行く。
「だったら尚更、早いうちからお気に召したものを試着してみて、後日お二人でお選びになられた方が良いですよ?」
雪に覆われたような、真っ白なドレスが並ぶ。
雲の中に浮かんでいる気分にさせる、ふわりと広がる白いフリル。
小さい頃に憧れていたお姫様に、一度だけなれるチャンス。
それは、手を差し伸べてくれる王子様が、現れてくれたときだけ。

『……それなのに、何でこうして一人で出歩いてるんだろ…私』
長く垂らしたシルクのベールと、ホワイトリリーのブーケを持つ花嫁のマネキンさえも、隣にタキシードの王子様が寄り添っているのに。
なのに自分の隣には、優しい微笑みの女性店員が一人。

…違うでしょ!こういうところで、隣にいてくれるのは…彼氏だっていうのが相場ってもんでしょ!
鏡に映る自分に突っ込みを入れたあと、余計に気分が重苦しくなる。

「どうぞどうぞ!ご満足頂けるまで、ごゆっくり遠慮なく試着して下さって結構ですよ!」
いつのまにか、店の奥から2人ほど女性店員がやって来て、あかねは三人に取り囲まれた。
これじゃ、フォーマルドレスどころか…ウェディングドレス選びの方に、思い切り力が入りそうな気配。
かと言って、試着とはいえ…ちょっと着てみたい気持ちは拭えない。
…何せ、本当にドレスを着られるのは、いつになるか分からないのだし。

「如何なさいます?マーメイドラインとクラシカルデザインと、どちらがよろしいですか!?」
すっかり店員たちはその気で、ドレスやハイヒール、ブーケのサンプルまで用意している。

もー…いいや!考えても仕方ないことだし!
こうなったら、めいっぱい着飾って、あれこれ試着してやるー!
そうでもしなきゃ、一人でこんなところにいるのが空しくって仕方ないじゃない!
「じゃ、えーと…これと、これと…あと、あっちに飾ってるドレスも試着させて下さい!」
目に止まったドレスを、片っ端から選んで。
白は着慣れた色だけれど、白衣とドレスは全く違うものだから。

友雅さんよりも先に、ドレス選びを頑張っちゃうもんね!
でもって…いつか一緒に出掛けられたら、一番似合うドレスを見せつけちゃうんだから!そのときまで、あっちこっち歩き回って、試着しまくって……一人でも、それくらい出来るし!
エンゲージリングだって、マリッジリングだって、選ぶ事は出来なくても品定めだけなら、いくらでも出来るし。

一人でも出来ることは、いっぱいある。
だけど……。

「良くお似合いですよー。肩が細身でいらっしゃるからノースリーブが映えて、シルエットがとてもお綺麗ですよ。」
そういう言葉は、やっぱり彼に言ってもらいたい…と思ってしまう。

初めて身に付けたウエディングドレス姿で、鏡に映る自分を見る。
そして、本来なら隣にいるはずの彼の姿を思い描いて、あかねは一つ小さな溜息を付いた。



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Megumi,Ka

suga