天使の指先

 002
まさに今日は、春らしいと言える気候だった。
空は雲一つない晴天。頬を撫でて行く風は暖かく、それでいて清々しい。
屋上に上がってみると、更にそんな春の気配を全身で受け止められる。
四方を遮るものがない場所。休憩するには最適と言えるだろう。

「おや、橘先生も休憩ですか?」
煙草をくわえてフェンスに寄りかかっていたのは、内科の担当医だ。
彼が県外の大学病院から移って来たとき、丁度友雅は1年間のドイツ研修から帰国したばかりだった。
そのせいか、年齢は彼の方が10歳ほど上であるにも関わらず、気分だけはお互いに同期という感じがして、それ以来親しく付き合っている。
「ようやく診察が終わりましてね…。今日は患者が多かったので、少し時間をオーバーしてしまって。」
「そりゃ大変だ。でも、それだけ先生にお願いしたいという患者さんが、多いということでしょう。さすがだな。」
火曜日の往診は午前中のみ。しかし、午後からは手術の予定が2名入っている。
どちらも、およそ1時間程度の簡単な手術ではあるけれど、神経を使うことには変わりない。
本当に落ち着けるのは、それらが済んでからになるだろう。

「昼食は摂られましたか?まだでしたら、これから下で一緒にどうです?」
ポケットの中の吸い殻入れに、もみ消した煙草をしまい入れながら、彼は尋ねた。
正直、それほど食欲というものは旺盛じゃない。特に、これから手術を控えている時は、神経が鈍りそうで尚更食欲が減退する。
……でも、何も食べていないなんて言ったら、おそらくあかねに怒られてしまうだろうな、と思う。

『手術は何より集中力が必要な作業です!だからこそ、しっかり栄養を摂らないと駄目じゃないですか!』とか言って。
彼女がくどくどと小言を言う姿を、思い浮かべると自然に笑いが込み上げてくる。

「元宮さんの代役には及びませんけれど、私でも食事の話し相手なら出来ますよ」
友雅の様子を眺めていた彼が、そう言って笑った。

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とは言えど、やはりそれほど食が進まないのは変わりない。
ボリュームのある定食を注文した彼とは反対に、友雅が頼んだのはコーヒーとBLTサンドのみ。
だが、これだけでもちゃんと食事は摂ったことになるだろうから、少しはあかねの小言も少なくなるだろう。

ランチタイムから少しずれたおかげで、カフェはそれほど混雑していなかった。
中庭に面しているため、テラス席もいくつかある。
友雅たちは、その席に腰を下ろした。
今日みたいな日は外の方が気持ちも良いし、喫煙者である同僚には屋外の方が都合がいいこともある。
芝生や木々の若葉と同じように、鮮やかな緑のレタスが、白いプレートに添えられている。赤いトマトとのビビッドな色合いが、視覚的にも良い。

そんなことをぼんやり考えていると、席の横を通り過ぎようとした姿が、ふと彼らの前で足を止めた。
「こんにちは、橘さん。お昼にはちょっと遅いんじゃありませんか?」
「ちょっと診察が立て込んでいて、時間がずれてしまったんですよ」
立ち止まって声を掛けたのは、管理栄養士の青年。物腰が柔らかで人当たりも良いので、患者や調理師達に人気がある。
看護師の中にも、彼のファンは多いとあかねから聞いたことがあるが、それも何となくうなずける。
「そういう永泉さんも、これから昼休みのように見えますが?」
友雅は、彼が手にしているプレートを見て言った。そして、その片方にはバインダーとノートが数冊抱えられている。
「まあそうなんですけれど…。実はちょっと頼まれごとがありまして。」
永泉は彼らに席を勧められ、空いている椅子に腰を下ろした。

「来月、結婚される看護師さんがいらっしゃるでしょう。元宮さんの、先輩の方でしたよね。」
柔らかいフレンチトーストを、ナイフとフォークで切りながら永泉が友雅に言う。
あかねが新入りの時から、何かと一緒に仕事をする機会が多く、おそらく一番仲の良さそうな先輩看護師。
彼女が結婚すると聞いたのは、3月の半ば。自分たちの仲が公になって、半月ほど過ぎた頃だっただろうか。
後輩の婚約に感化されたとか…というのは噂として聞いただけだが、結婚式は6月とトントン拍子に決まってしまったらしい。
すでに招待状は、あかねは勿論だが、友雅のところへも既に届いている。
人前結婚式らしく、それほど大人数を集めるわけではないらしいが、職場の人間は結構呼ばれているようだ。

「ガーデンパーティースタイルなのですが、せっかくなのでメニューのアイデアを出してもらいたいとのお願いをされまして。」
そう言いながら、永泉はぱらぱらとノートを開く。ラフなイラストと共に、栄養素と材料などが明記されていた。
予算内で、それなりにゴージャス、でもヘルシーでバランス良く。そしてもちろん彩りも綺麗に。
女性ならではの、ちょっとしたこだわりというところか。
「お祝いの席ですから。お断りする理由もありませんし、少しでもお力になれればと思いまして。」
「永泉さん、ウェディングプランナーの仕事も出来るんじゃないですか?」
感心しながらノートを覗くドクターが言うと、永泉は穏やか、かつ控えめに笑顔を見せた。

「橘さんも、お式の際に何かお手伝い出来ることがありましたら、どうぞお声をかけて下さいね。」
くるりと永泉の顔が、今度は隣の友雅に向けられた。
メープルシロップとバターの甘い香りが、フォークから漂う。やっと一切れサンドウィッチを食べ終えた友雅は、コーヒーだけを先に飲み干した。
「そうそう。婚約の話で院内をパニックに陥れたのは、橘さんたちが先なんだからさ。本当だったら、もう結婚してても良いんじゃないの?」
「まあ、確かにそう言われれば、そうなんだけれどもねえ…」
こればっかりは、1人で決めるわけにもいかない。

プロポーズを受け取ってもらうまでのアプローチは、いくらでも自分一人で動けたけれど、結婚式となったら単独行動は出来ない。
二人で話し合える時間。二人で行動できる時間が必要だ。
しかし、そんな余裕が今はなかなか取れない。
その証拠に、今日はあかねは休日。自分はきっちりフルタイムでの勤務。
明日は、あかねが夜勤。友雅は通常勤務。その反対も、もちろんある。
こんな生活の繰り返し。
一緒に暮らすようになって、帰宅すれば大概彼女が待っていて。
それだけでも、以前よりは二人で過ごす時間が増えてはいるが…都合の付かないことは相変わらず多い。

「でもねえ、いくら正式に婚約したからと言っても、油断は大敵ですよ橘先生?」
急にドクターが、妙な事を言い出した。
友雅が顔を上げると、彼はにっと意味深な笑顔を浮かべる。
「知りませんか?結構元宮さんて、看護師の中でも人気あるんですよ?」
自覚はなかったが、向かいに座っている彼と、そして隣にいる永泉の様子から推測してみる限り、どうやら無意識のうちに動揺が顔に浮かんでいたみたいだ。

ドクターは、話を続ける。
「元宮さんて、患者さんにはとにかく親切でしょう。それに、すぐ声をかけてくれるから親しみ易いって、内科の患者にもファンがいるんです」
そんなこと、初めて聞いた。
贔屓目と言われればそれまでだが、明るくて患者には親身になって対応していることは、医者の立場から見ても立派だと思う。
だから、患者に慕われるのは当然だと思うが…ファンがいるとなると、どうも複雑な心境だ。
しかも"ファン"というのは、どういう類いのものなのだ?さっぱり分からない。

するとドクターが、友雅の神経をつつくような事を口にした。
「何よりも、元宮さんて若くて可愛いしねえ?」
確かに、あかねは高校の看護科卒で看護師となったから、高校卒業=看護学校=看護師というルートを辿った、大半の看護師たちよりも若い。
それに…まあ、またこれは欲目だと言われるのを覚悟で言うが……性格も外見も可愛いとは思う…が。
「元宮さん目当てで、診察に来ている若い男性もちらほらいるとか。あと、入院患者の中でも何人か…目を付けてるという噂も聞きますしね。」
「そういえば、こないだまで医学部から来ていた研修生も、可愛い看護師さんだと言っていた人がいたらしいですよ。」
永泉までもがドクターに続いて、追い討ちをかけるような話を投げかけてくる。
そんなにあかねの評判が高かったなんて。
------無性に……棟の奥がそわそわするのは何故だろう?。

「単に年が近い看護師だから、余計に親近感を覚えるんじゃないですかね…彼らにとっては。」
一度席から立ち上がって、二杯目のコーヒーを注いで来た友雅は、半分残っているサンドウィッチには手をつけず、そのまま熱いコーヒーを喉の奥へと流した。
熱さと苦さが、胃の中に刺激を与えるけれど、少し戸惑い気味の自分にとっては、良い刺激だと思った。

だが、そんな刺激でやり過ごそうとしても、耳に入ってくる言葉は後を絶たない。
「東棟の整外病棟の3階に、若い男性患者が何人かいるでしょう。」
「ああ…確か先月に現場の事故で複雑骨折して運ばれた3人だね。」
年齢は全員とも二十代前半。異性への関心が著しい年頃ではあるけれど…。
「"看護師の元宮さん、可愛いよなあ"って。"退院するまでに告っちゃおうかなー"とか言ってたりね。」

ドクターたちの、興味深そうな顔色など目に入らなかった。
友雅の胸に響いた刺激は、さっきのコーヒーよりも強すぎて。



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Megumi,Ka

suga