天使の指先

 001
久しぶりの休日に、ふらりと町へ買い物に出掛けた。
平日の昼間はどこも透いていて、カフェもゆったりくつろげるし、映画館も混雑を気にせず楽しめる。
とは言え、たまにカップルなんかと鉢合わせすると、一人で歩いているのが心細くなるのも事実で。
ショウウインドウに映る、ひとりぼっちの自分の姿を見ては、ふと思う。

……やっぱり、お休みを合わせれば良かったな…。

彼は整形外科医。
まだ30代前半だが学会専門医で、海外での医療経験もあるし、困難な治療実績も多々ある名医の一人だ。
だから、彼の診療を希望する患者は増える一方。常に多忙を極めている。
例え休日が取れたとしても、やることは山積みで。
学会とかの論文も作ったり…。次から次へと仕事は入ってくる。

あかねは、そんな彼と同じ病院の看護師。幼い頃から憧れた看護師となって、二年半が過ぎたが、まだまだ修行中という感じだ。
彼とは、学生時代の臨床実習からの付き合いで、いわば"恩師"と呼べる相手。
だが、それだけではなくて-------実はこれでもれっきとした恋人であり、最近やっとフィアンセに格上げしたばかり。
長い間、こっそりと付き合ってきたけれど、彼からの再三のアプローチを受理した事により、二人の関係は院内でオープンとなった。

数少ない独身男性ドクターで、しかも非の打ち所のないキャリアとルックス。
若い女性看護師だけに留まらず、通院患者や入院患者の羨望の的であった彼が、あかねと結婚を決めたという話が流れた時は、院内がパニックに陥ったものだ。
更に…実は学生の頃から付き合っていたのだ、と暴露したときは、そりゃあ大変な騒ぎとなった。
あかねの居場所であるナースステーション、友雅のフィールドエリアである整形外科だけでは留まらなかった。
気付いたら、院長、薬剤師、薬品会社の営業、売店や食堂の従業員まで引き込んでの大騒動。
今では…顔を合わせれば、誰もが"式の日取りは?"とか尋ねる始末。

だけど、まだ何も決まっていない。
決まっているのは、彼といずれ結婚するのだ、という約束だけで…あとはいつも通り。今まで通り。
既に公認とは言えど、院内ではあくまで医師と看護師の立場。ビジネスの場所では、上司と部下のような関係のまま。
ただ、時々二人きりになれるチャンスがある時は……周囲の目を逃れて恋人同士に戻ることもあるけれど。

『せっかく公認になったんだから、お休みを合わせてもらえるように頼めば、何とかなったかもしれないなあ…』
二人一緒に休みが取れれば、映画に行ったり食事に行ったり、ちょっとしたデートだって出来るのに…と思う。
この春にあかねはアパートを引き払い、彼のマンションで一緒に暮らし始めた。
家でも仕事場でも、毎日顔を合わせているけれども…時にはこうして普通の恋人同士の日常を楽しみたくもなる。

ずっと長い間、ひた隠しにして付き合って来た事は、結構なストレス。
バレたら困ると外出も控え、大概デートの場所と言ったら彼の部屋ばかり。まるで引きこもりカップルみたいな、よく言えば同棲生活みたいな日々の連続。
レストランとかの個室を予約して、食事に出掛けることがたまにあった程度。それも、大体は夜の外出ばかり。
今日みたいに、見上げると青空が広がる爽快な日に、二人で出掛けた記憶なんて殆どない。

背後を通り過ぎる男女の姿が、ショウウインドウに反射する。
黒と紺色のスーツスタイルの二人は、もしかしたら仕事仲間同士かもしれない。
でも、自分がこうして一人でいるのを思うと、そんな姿も自然に恋人同士に見えてしまうのは、やっぱりツーショットが羨ましく思うせいなんだろう。
『今度は先に友雅さんのお休みを聞いて、それから調節してもらお…』
はあ、と溜息をひとつ付いて、あかねはその場を立ち去ろうとした。

そしてふと顔を上げると、ガラスケースの向こうに飾られている、眩しいほどの白いドレスが目に飛び込んで来た。
「あ…このお店って…」
シルクの刺繍を精密に織り込んだ、パールホワイトのマーメイドライン。
その隣には、真っ白なバラが花開いたようにフリルとレースが広がる、夢のようなお姫様仕様のドレス。
淡いブルーやクリーム色、ピンク色のイブニングドレスと、色とりどりのコサージュやブーケ。
「ああ、そっか。ここって確か…ウエディングドレスの専門店だったっけ」
実はあかねも過去に、何度か世話になったことがある店だった。
もちろん、友達の結婚式に参列するための、フォーマルドレスを購入するためだったが。


そういえば……あれは数ヶ月前の事。

「ねえねえ元宮さん!あのねえ、私一足お先に、今年の6月に結婚することにしちゃいましたんで!」
春の足音が聞こえてきた3月の半ば。ロッカールームであかねの肩を叩き、堂々と結婚宣言をしたのは1年先輩の看護士だった。
相手は大学の同級生らしく、元々結婚を前提として付き合っていたそうで。
どこかの医薬品研究所に勤めている、と飲み会の席で聞いたことがある。
「おめでとうございますー!念願のジューンブライドですね!」
あかねだけではなく、そこにいた数人の看護士たちも揃って祝福の声を上げた。
そして、彼女がポケットから取り出してみせた、ケースの中で輝くダイヤモンドリング。それを眺めては、皆一同に羨望の交じった溜息を吐く。
相手がいてもいなくても、女性にとってダイヤモンドのエンゲージリングは、永遠の憧れの対象だ。
「みんな、6月には予定明けといてね。それと、予算も節約しておいてね。ご祝儀、期待してるから!」
幸せそうな笑顔をして、彼女はそう言った。

そして、ふとあかねの方を振り返ったかと思うと、こちらを見てにやっと笑う。
「っていうか、元宮さんの婚約発表の方が早かったのに、どうして私が先に日取りを決めるのよねえ?」
「あ…ははは。そうですねえ…確かに。」
苦笑いを浮かべながら、あかねは頭をかいた。
確かに、彼女に相手がいるという話を聞いたのは、もう一年以上も前のこと。
あかねが婚約発表をしたのは、わずか一ヶ月ほど前。
それなのに、彼女は今この場で婚約発表をして、それと同時に結婚式の日取りまで決まってるなんてスピーディー過ぎる…って、こちらが暢気すぎるのか?。

「ねえ!どうなのー?元宮さんとこだって、そろそろなんじゃないの!?」
しばらくして皆の矛先は、こちらに飛び火して来た。婚約中なのは既に周知の事実であるから、こういう話題になれば突っ込まれるのは必須。
「あー、私のとこはですねえ…まだ何もないです。」
「誤摩化しても、ダ・メ!ちゃーんと耳に届いてるんだから。来月から、橘先生と一緒に暮らすんでしょ!?」
きゃー!っという黄色い声が、騒々しくロッカールームを包み込む。
しかもスチール製のロッカーだから、その声がビリビリ響いて、さらに大きな音に聞こえたりもする。
「どこから聞いたんですか…それ…」
「小児科の藤原先生と、橘先生がカフェで話してるのを、通りがかりの誰かが聞いちゃったんでしょー。もう、その話を知らない人は殆どいないんじゃないかな」
当の本人が、今初めてその事を他人が知っていると気付いたのに、周囲にはもうバレていたってことか。
何だか、順番がおかしくないか?

「ねえねえ、元宮さん!肝心の指輪は!?橘先生だったら、すっごいゴージャスなの買ってそうじゃない!?」
エンゲージリングを眺めていた同僚たちが、興味津々で今度はあかねに探りを入れている。
だが、そんな彼女たちに、期待されるような答えは出来るはずもない。
「っていうかー、まだ買ってませんって。」
「ええっ!?だって婚約したんでしょう!?なのに指輪もらってないのー!?」
がっかりしたような、驚いたような、一様にそんな顔をしてあかねに視線を集中させる。
「だって、休みとか合わないから、買いに行けないんですよ…。」
微妙にずれてしまう、互いの休日スケジュール。夜勤だったり出張だったり、二人の時間を引き裂くものは数知れず。
毎日仕事場では一緒なのに、プライベートは上手く行かない。
何て微妙な関係なんだろう。
「もー!のんびりしてると、どんどん先にみんな結婚しちゃうよ!?」
「そんなあ…ちょっと待ってて下さいよ!」
冗談めいた明るい笑い声と、賑やかな空気がロッカールームに漂っていた。


そして………こうしてまた、この店の前に立っている。
『はあ…。私、いつになったら、こんなドレスを着られるんだろうなあ…』
あの時はジョークに過ぎないと思っていたけれど、もしかしたら本当にみんなに先を越されるかも?という気になってくる。
指輪もない。式の日取りもない。一緒にデートする時間もない。代わり映えのない、一人の休日。

「考えてもしょうがないか…。」
あかねは、独り言でそう自分に言い聞かせると、店のドアを押して中に入った。
目的もまた、いつも通り。
結婚式に"参列"するためのドレス選びが目的で。



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Megumi,Ka

suga