天使の居場所

 002
はっきり言って、自宅待機は暇だ。
特に趣味も持たない自分にとって、自宅というものは眠るためにある、という程度の価値しかない。
論文やらを執筆するための机と、書類を閉じたファイル。そして医学書の並んでいる書棚と、何かと必要不可欠なノートパソコンが1台。
そこだけが乱雑に散らかっていて、他の空間とは正反対だ。

家具らしい家具なんてものはなく、リビングで過ごすことなど滅多にない。
ワンルームでも充分なのだが、そうなると本やら何やらが収まらないというわけで、仕方なく広い部屋を持て余している。

こんなことなら無理してでも出勤して、病院で治療でもしてもらった方がマシじゃないか、とまで感じる。
久々に睡眠時間も充分に取ってしまったし、『ゆっくり休め』と言われても、どうしていいか分からないのが辛いところだ。
外は最近にしては珍しく天気が良いみたいで、カーテンの間から漏れて来る光も眩しい。
滅多に睡眠なんて取れる仕事じゃないから、何とかもう一眠りしてみようか。
そう思いながら、ミルクをコップ一杯だけ飲み干して、寝室に向かおうとしたとき、思いがけずにインターホンが鳴った。

自宅待機の時に限って、来客なんて面倒くさい。このまま居留守を使って、無視した方がいいだろうか。
などと考えつつ、取り敢えずモニタを覗いてみる。
とたんに、スピーカーから声がした。

『……寒いから、早く開けて下さい!』

そこにいる人物の姿を確認すると、友雅は返事をするよりも先に、オートロックのキーを解除した。


「ちょっと!何でそんなカッコしてるんですかっ!?」
ドアを開けて玄関に入ったとたん、そこで待ちかまえていた部屋の主を見て、あかねの第一声が響いた。
自宅療養という名目で休んでいるにも関わらず、肌の色が透けるほど薄いパジャマ一枚。
無造作にボタンを留めた襟ははだけていて、中には何も着ていないことが分かる。
「風邪ひいているのに、そんな薄着で!ベッドから出る時くらいは、ガウン一枚でも良いから羽織ってくださいよ!」
彼女の両手に、大きな買い物袋が二つ。半透明の袋を通して、栄養がぎっしり凝縮されたような、鮮やかな色合いの野菜が詰め込まれている。
それらを玄関ホールに置き去りにしたまま、即座に部屋に上がり込んだあかねは、友雅の背中をぐいぐいと押してリビングに向かわせた。

「確か、夕べは夜勤じゃなかったかい?」
そう行って、一昨日別れたはずだった。
「そうですよ。今朝終わったばかりですよ。そのまま市場に寄ってここに直行しました。」

リビングは、ほのかに暖かかった。窓ガラスを通じて差し込む太陽の光か、または部屋のエアコンが効いているせいかもしれない。
かと言っても、風邪をひいている病人のいる場所で、乾燥した空気は御法度だ。だが、加湿器なんてものがここにあるわけもなく。
「とにかく、大人しく病人はベッドで寝てて下さい!せっかく容態落ち着いて来たんでしょう?またぶり返したら出勤出来なくなりますよ!」
キッチンに置いてあるケトルの中に、たっぷりの水を汲んでコンロにかける。その隣のコンロで、大きめのココット・ロンドで水を沸騰させる。
二つのコンロを使って湯を沸かせば、蒸気が上がって少しは乾燥を凌げるだろう。何もしないでいるよりは、マシだと思う。

友雅は日当りの良い窓際にある、イタリア製のソファに腰を下ろした。
その前を慌ただしく歩き回るあかねは、こちらに目を向ける余裕さえないようで、リビングとベッドルームを行き来している。
しばらくして、ケトルから沸き上がる蒸気が目に見えて分かる頃、やっとあかねの足が止まった。
「これ、羽織ってて下さい。」
さっきからベッドルームのクローゼットを引っ掻き回していたと思ったら、どうやらガウンを探していたらしい。
確か、何かのパーティーでもらったもので、そのまま開封もせずにしまい込んでいたものを、よく見つけ出したものだ。

「全くもう…医者の不養生ですよ。治療するお医者さんが、風邪なんかひいてどうするんですか!」
自分よりも10近く年下の娘に、見下ろされながら友雅は小言を言われている。
その状況を客観的に考えてみると、滑稽すぎて笑いがこみ上げて来た。
「医者として、常に患者さんにとって見本にならなくちゃダメです!常に健康管理には十分気を配うことです!」
目の前に仁王立ちして、遠慮なくあかねは小言を続けた。
普段、患者に接しているときには和やかで、決して怒ったりしない白衣の天使も、自分の前では遠慮がない。
それだけ、お互いの存在が同一線上にあるということか。
病院で会うときには、そんなそぶりも見せないくせに。
「聞いてますかぁ!?」
「はいはい。看護師殿のお話、ありがたく拝聴させて頂きました。」
ぺこりと素直に頭を下げて、お許しを請う。うつむいて、笑いがにじむその表情をごまかすために。


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「せっかく作り置きしてたスープ、全然使ってないじゃないですか」
いつもこの部屋で過ごす時は、必ず煮込んでいるストックスープ。野菜と鶏肉で作ったスープは、どんなものにも応用出来るから、と作り置きして冷蔵庫に入れてあるのに、殆ど手をつけていない。
「色々応用出来るんですよ?このスープ」
「そうなのかい。そのまま暖めるしか思いつかなかったよ」
キッチンに立つあかねの後ろで、彼女の手際を眺めながら友雅が言う。
コトコトと沸騰し始める鍋。そして、新しく煮込んでいるもう一つの鍋。それぞれから湯気が立ち上る。
「ご飯入れてリゾットにしてみるとか、カレー粉入れてカレースープにしてみるとか」
「なるほどね、そういう手もあったのか」
フリージングされているライスを、その中に入れて弱火で煮込む。買って来たばかりの新しい野菜がいくつか刻まれて、鍋の中に彩りを与えていた。
「食生活も健康には大切なんですからね。プライベートもちゃんと管理しなきゃダメですよ」
くるりと大きめのスプーンでかきまぜて、丁度いい感じに全体が柔らかくなってきた。
野菜と、少しの肉と、栄養がぎっしり詰まったリゾットの出来上がり。

「だったら、そろそろ返事を聞かせてくれてもいいのに」
眺めていた友雅の手が、後ろからあかねの手に触れた。
「こうして、ここで毎日健康管理をしてくれないかな、看護師殿?」
杓子を持つ小さな手を、包み込んでしまうほど大きな手がそっと握る。熱はなさそうだ、手はあまり熱くない。
「看護師はー、患者さんのためにいるんですけど。」
「それじゃ、このまま不摂生続けて、看病してもらおうかな」
右手はその手を、片手はいつのまにか腰へ。まるで後ろから抱きしめられているかのような姿勢で。
それほど広くはないキッチンは、結構二人でギリギリの状態だ。
だから、必要以上に密着度が高まる。耳に、吐息が触れるほどに。

「ひゃっ!……ドクターが、そーいうこと言って良いと思ってるんですかっ!?」
びくっと身体を震わせて、即座にコンロの火を止める。よろめいて、火傷する寸前だったというのに、振り返った背後にある表情は、病人とは言えないほどにこやかで拍子抜けしてしまう。
「大丈夫。患者さんにはきちんと対応するから。こういうことは、二人きりのときじゃないと言わないよ」
はあ、と呆れたように溜め息をつくと、それまでよりも強い力があかねの身体を締め付けた。
両腕で逃げられないくらいにしっかりと、その胸で、逃げ場を塞いでここから塞き止めて。
「いつまで待たせるつもりだい?かれこれ、何年になるか覚えている?」

出会ったのは、高校時代の臨床実習。
この病院で、彼に出会って……どうしてか、気付いたら看護師になる前に、違う展開になってて。
5年かけて看護科を卒業し、ようやく一年目がもうすぐ終わるというのに、その看護師生活よりも、友雅との付き合いが長いなんて…誰も知らないだろう。
どれだけ長く勤務している先輩よりも、この医師のことはよく分かってると自負する。
いくら技術が長けていても、どんなに診療実績が高くても、二人になったらワガママし放題言い放題。
自分の健康には無頓着、身の回りにも無関心……それなのに、離れられない何かをあかねに植え付ける。

「まったく…名医と学会でも名を馳せる橘先生とあろうものが、看護師を目指す女子高生に手をつけたなんて、知られたらどーなると思います?」
「だから、知られる前に先手を打とうって、何度も言っているんだけどねえ」
そう言って友雅の手が、あかねの頬に添えられる。緩やかな力が入ると、唇が近付いてくる合図。
いつもならゆっくり目を閉じて、それを受け止めることが出来るけれど……。
「ダメです!風邪を移されたら困るので、今日はお預けです!」
指先でくいっと唇を押し戻されて、『つれないね』と言って友雅は苦笑した。


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Megumi,Ka

suga