天使の居場所

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日差しを暖かく感じる、そんな冬の日だった。
数日前にわずかながら降った雪は、裏庭の枯れた芝生をうっすらと白く隠していたが、それも今日で終わりになるだろう。
白銀の世界が溶けて流れたあとには、色を忘れた味気ない草。
周囲に佇む木々達は、常緑樹を数本の超して寂しそうな姿をさらけ出している。
---------午前8時。すでに院内は騒がしい。


「元宮さーん、302号の患者さん検温の時間だから、行って来てくれる?」
食事の済んだ食器を並べたカウンターを、所定の場所へ運んでいる最中に、ナースステーションから先輩看護師が声をかけて来た。
「はい!行って来ます!」
一つの仕事を終えたら、次の仕事へ…なんて、きちんと順序を踏まえていられない。仕事と仕事の間のバトンタッチのタイミングさえ、惜しくて仕方が無い午前中。
カルテを片手に食器を片付け、そのまま患者のいる部屋へ……。
いかにして時間を短縮し業務をこなすか、が問題だ。

中学卒業後に衛生看護科のある高校を、5年かけて卒業してから、試験を受けて何とか手にした看護師資格。
そうしてこの病院に就職してから、やっとう二年目。
だが、まだ二年目といった方が正しい。
看護師も医師も、経験があってこそのこと。
実務経験の中で得る物は多い。二年くらいでは半人前だ。
それでも、やりがいのある仕事。
辛い事も多いが良い事もたくさんある、充実したこの仕事に就けたことを、あかねは心底嬉しいと感じていた。
今日のような夜勤明けの朝は、確かに体力の限界ゲージを突破してしまうけれど。


+++++


「お疲れ様。じゃあ、元宮さん上がってくれていいわよ。」
午前9時半を回って、やっと師長から声がかかった。これで長い一日が終わったということだ。
明日はお休み。部屋の掃除、洗濯、買い出しと録りためていたドラマのビデオ鑑賞と……予定はすし詰め。
でも、まずは帰って一眠り。
エネルギーも底が尽きてしまったから、充電が最優先だ。
ロッカー室に戻り荷物をまとめながら、あれこれと考えるが、仕事が一段落したせいか身体は軽い。

そんな中、外を歩いていた看護師たちの話し声が聞こえて来た。
「じゃあ今日はお休みなんですか?」
「そう連絡があったって、さっき師長が言ってた。だから小児外科の藤原先生に出勤してもらったって。」
「人数足りるの?」
「まあ、今日は幸い午後は休診だから…何とかなるんじゃない?」
着替えを終えてナースステーションを覗いたあかねは、彼女たちの様子を伺ってみる。
「あのー、今日、誰かお休みなんですか?」
「ああ、整外の橘先生だって。何か、一昨日の夜に当直だったんだけれど、帰ったとたんに熱が出たらしくて。」
整形外科の専門医である橘医師は、この病院でも実績のある医師だ。
あかねにとっては学生時代、臨床実習で何かと世話になった恩師の一人でもある。
「…へえ…風邪でしょうか?具合悪いんですかね。」
「峠は越したみたいだけど、無理して出て来て患者さんに移ったら大変だし。今日は外来担当で午前中だけだから、大事とって休んだ方が良いって、部長が言ったみたいですよ。」
若い研修医が、さっき聞いて来たばかりの状況を、今度はもう一度あかねに対して簡潔に説明した。

「…そうなんですか。医者の不養生って感じですね」
ぽつりと言うと、『毒舌だなあ』と先輩看護師の笑い声が飛んだ。
というか、この橘医師はクセモノとしても名高いのである。
勿論、誤診とかドクハラなんていうものではないのだが。
とにかく診断も治療も正確だし、患者に対しても人当たりが良いので、評判が高いのは分かる。
しかし………。

「でも橘先生だったら、私、完全看護してあげてもいいなあ…」
もう一人の看護師から出た、この言葉が問題なのだ。
「え?先輩ってそういう好みだったんですか?」
驚いたように、あかねが横目で彼女を見る。
「だってキャリアは文句なしでしょ?学会専門医だし、海外での医療経験もあるし。それに、重要なのは独身ってことよ」
互いに顔を見合わせて、二人の看護師達はうなづきながら答える。研修医が苦笑いをしているのも、全く気に留めていない。
「……そんなものですか?」
気のない問いを返したあかねに、くるっと振り向いた二人の目は意気揚々としている。これから回診で忙しくなる、というのに、全くそんな雰囲気はなさそうだ。
「だって、そりゃそうでしょ!30代前半で、それだけの実績持ってるし、生活は安定してるし。ルックスだって申し分ないじゃない?非の打ち所ないでしょ!!」
「あ…そうなんですか……」
その勢いに少し尻込みしながらも、あかねは取り敢えずその場しのぎでうなづいてみた。やや、気を抜いた感じで。
「ねえ、元宮さんはそう思わないの?」
「私ですか……?」

確かに、先輩達が言うのも納得ではある。
この病院では若い医師も多いが、それに対して結構既婚率が高い。
その中で彼は独身だし、キャリアと見た目では箇所レベル以上のものを持っていると言って良いし、そうなれば周囲の女性の目が集まっても仕方が無い。
しかし………。

「もしかして、元宮さんて彼氏とかいるの?」
「ええっ?何でそっちの話に飛んでくんですか!?」
あかねは思わず持っていたミニボストンを落とし、声が少しひっくり返るほどの驚きを覚えた。
まさか、突然話題がそんな方向に行くとは思っても見なかったので。
「だって、何かこういう話にいつも乗り気じゃないから…。もしかして、ちゃんとお相手がいるから無関心なのかなーって。」
「そ、そ、そんなことないですよ!その証拠に、明日の休みも別に用事ないし!」
こういう時は、否定するほど疑われるものなのだけれど、動揺は一度揺らいだらなかなか落ち着かない。
「まあまあ、後で詳しく聞かせてもらうから。早く帰ってゆっくり休みなさいなー」
適当に茶化されたまま、先輩たちに背中を押されて通用口に出た。

外は寒い。
太陽は明るいけれど、冬の空気は天気とは無関係に冷たかった。
あかねは足早に駐車場へ行き、エアコンが暖まらないうちに郊外へ走り出した。


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Megumi,Ka

suga