My Sweet Home

 002
「あーもう、やれやれですよ。あの子、全然寝てくれないんですもん」
リビングに戻って、あかねは思い切り身体を伸ばした。
そして、ムートンマットの上に転がっているぬいぐるみを手にして、そっとそれをバスケットの中へと戻した。
「何もかもが楽しくて、じっとしていられない時期なんだよ。文紀たちもあれくらいの頃は、そうだったじゃないか」
「まあ、そうですけどね。そういうところは、やっぱり兄弟ですよねー」
それでも病気一つせず、元気にすくすくと育っているのは、何よりも幸い。
この世に溢れるものを何でも見て、聞いて、触れて楽しもうとする、底なしの飽くなき好奇心。
生き生きとした彼女たちの顔も、親としてはまた至福である。

改めてもう一杯お茶を入れようか、とキッチンに向かおうとしたあかねに、祥穂が声を掛けた。
「奥様、お買い物は如何なさいますか」
「あ…そうだ。今日って木曜日だ。買い物行かなきゃ」
千歳が毎朝日課にしている、日めくりカレンダーの更新。
確かに今日は、木曜日と書かれてあった。
「日曜日にみんなで買い出しに行ったばかりで、まだ買うものがあるのかい?」
「うん。毎週木曜日って、SCの中にあるお肉屋さんが特売日なんですよ」
そう答えながら、あかねはさっそく出掛ける用意を始める。
生活環境面だけではなく、金銭面でも何不自由ない生活をさせているつもりなのだが、これは彼女の個性というか性格というものだ。
目の前の現状に甘んじることはない。
更により良くあるためにと、努力することを決して厭わない。

「それならば奥様、せっかくですし旦那様とご一緒にお出掛けになられては?」
「えっ?」
思わずあかねが、祥穂に問い直した。
友雅と買い物に…?
子どもたちと一緒のショッピングではなくて、単なる日用品を買いに行くだけの"お買い物"に、彼を連れ出すと?
「ああ、それは良いね」
あかねのためらいなど気にも留めず、友雅の方は祥穂の意見に乗り気のようで。
「良いんですか?あちこち買い物で歩き回るし、疲れちゃうかもしれませんよ?」
そう尋ねると、彼はあかねの手をそっと取る。
「姫君の付き添いならば、どこへでも何時間でも喜んで」
忠誠を誓う騎士を真似るように、小さな指先に軽くキスを落として立ち上がる。
まだまだ、日が落ちるまでは時間が有る。
今日はいつもより少しだけ、時間がゆっくり過ぎて行く気がする。


+++++


「はい、合い挽き1kgね。いつもありがとうございます!」
きっちりと包装紙で包まれた肉を、あかねは店員から受け取った。
挽肉とは言ってもこの量では、ずっしりとした重さを感じる。
「すごいね、肉を1kgとは」
「そうでもないですよ?挽肉は毎日いろいろ応用が利くんで、あっというまに使っちゃうんです」
ハンバーグでしょ、肉団子でしょ。
そぼろを作り置きして、子どもたちのお弁当に詰めたりとか。
「あとは炒め物にも入れられるし、キーマカレーも出来るでしょ。そぼろをあんに混ぜたりもするし、ホントに重宝なんです」
だから、毎週特売日は要チェックなんですよ、と満足げにあかねは肉の包みをカートに入れた。

平日の午後だからか、客足は割と緩やかだ。
子ども連れの主婦の姿も多いが、夕飯の買い出し時間にも、まだ少し時間に余裕があるし。
週末の土日と比べたら、ガラガラと言っても良いほどの差がある。
スムーズに買い物を済ませ、ガーデンテラスに続くエスカレーターに向かおうとした時、あかねがベーカリーカフェの前で立ち止まった。
「あ、マドレーヌが焼きたてだって!」
ふわっと鼻の奥をくすぐるような、甘い匂いが店内から漂う。
窓に立てかけられたメッセージボードには、"ただいま焼き上がりました"と、白いチョークで書かれていた。
「美味しいんですよ、ここのマドレーヌ。たまにおやつで買って帰るんです」
買い物に出掛けている間、まゆきを世話してくれている祥穂のお土産に、ここのマドレーヌを買って行く。
自分が食べたいのも本心であるが、焼き菓子とお茶で一息つくのも、ささやかな日常の楽しみのひとつ。

「せっかくだし、寄って行こうか」
「えっ?中…ですか?」
ベーカリーカフェなので、店内には飲食出来るスペースがある。
喫茶店と比べると規模は小さいが、窓から外の明かりが射し込んで、とても明るい雰囲気の店内だ。
「持って帰ってたら、せっかくの焼きたてが冷めてしまうよ」
「でも、のんびりしてたら帰りが遅くなっちゃうし…」
「大丈夫。ここでゆっくりお茶をしていれば、丁度下校時間になる。そうしたら、あの子たちを迎えに行って一緒に帰ろう」
あっ、と思わずあかねが声を上げそうになった。
言わなかったのに、彼は分かっていたのだ。夕方になったら、千歳たちを学校まで迎えに行かなきゃいけないこと。
夕飯の買い物と夕飯の用意と、子どもたちのお迎えと…あかねの仕事はまだまだ終わらない。
それもちゃんと把握していた上で、お茶していこうと言ってくれたのだ。
「友雅さんが迎えに行ったら、あの子たちびっくりしますよ」
「いつもは私が驚かされているんだから、たまにはお返しをしないと」
お互いに、ふっと笑い声が出る。
友雅がドアを軽く奥へと押すと、店員の明るい声が二人を迎えた。


ほろりとこぼれ落ちるほどに柔らかなマドレーヌは、まだほのかに暖かい。
「やっぱり、焼きたてはホントに美味しいですねー!」
「ふふ、お茶して正解だったろう?」
ミルクとバターの風味が、暖かさのおかげで甘い匂いを漂わせる。
爽やかなアップルティーに、この味わいがとても似合う。
「たまには外で、こんな風にゆっくりお茶を飲むのも良いんじゃないかな」
確かに、こうしてのんびりと外の空気を味わいながら、自分の時間を過ごしたのはいつ以来か。
買い物も用件のみで早めに済ませて、どこかに寄り道することなんてなかった。
「まゆきは寝たばかりだし、祥穂が見てくれているしね。今日は羽根を伸ばしても平気だよ」
茶葉が開き、色濃く染まったティーポットに、差し湯を注ぎながら友雅が言う。

目の前に彼がいると、何となくホッとする。
もっとリラックスして動いても良いんだよ、と言ってくれているようで、いつのまにか張りつめていた肩の力がすうっと軽くなる。
テーブルの真ん中に置かれたプレートに、もうひとつのマドレーヌがある。
友雅はそれを取り上げると、隅を小さくちぎって、あかねの口元へ差し出した。
「ちょっ…友雅さんっ」
「はい、今日の姫君は君だ。さあ、どうぞ」
千歳やまゆきに食べさせる時のように、口を開くようにと目配せで合図。
ちょっとドキドキしながら、一旦周りをぐるりと見渡してみた。
幸い奥ばった席なので、通り過ぎる者も外からの人目もない。
きょろきょろと辺りを確認して、即座にぱくっと口にする。
「姫君、お味は?」
「ん…お、美味しいです…」
「そう。それは良かった」
同じマドレーヌだったはずなのに、彼の手からもらったそれは、さっきよりもずっと甘い。
甘くて、そして、とけてしまうほど優しくて。
まるで魔法を掛けたみたいに、ひと味違う美味しさがあかねの口の中に広がった。



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Megumi,Ka

suga