My Sweet Home

 001
元を辿れば、橘家は古い由緒を持つ家系である。
明確な祖は不明ではあるが、彼が橘家22代目当主ということを考えれば、国内でも有数の名家と言えるだろう。
そんな彼が日々携わっている仕事の内容といえば、代々伝えられた所有物の管理が中心である。
古くから宮家との懇意もある橘家には、多くの名品・逸品が伝えられている。
それらを展示・管理するミュージアムや、付随するレストランやショップの経営の他、各地への展示貸出や目録の調査や作成など。
勿論一人で執り行っているわけではないが、彼以外に出来ない仕事も多数ある。
例えば今回のように、諸外国からやって来た来客のもてなし。
海外からの客は観光も兼ねているので、会食も含めてあちこちの名所をガイドしながら話を進める。
だが、今日の予定は思いがけなく、途中で白紙に変わってしまった。

「仕方ないね。奥方のお身体の方が最優先だ」
「はい。ではすべてキャンセルということで、手配致します」
秘書が携帯を手にして、慌ただしくエントランスの外へと向かう。
友雅は一人ロビーのソファに腰を下ろし、少し身体を伸ばしてリラックス姿勢を作った。
北欧の某国にある、文化財団の責任者夫妻との会合。
国内で日本の古美術展示会があるため、今回橘家が協賛することになった。
そのため、責任者夫妻がわざわざ訪日を申し出てくれ、今日は接待を兼ねた食事と観光の予定だった。
しかし、奥方は二ヶ月前に第一子を出産したばかり。
久しぶりの長旅だったせいか、到着後に倦怠感が酷くなったようで、大事を取ってホテルで休んでもらう事にした。
「社長、予約先をすべてキャンセルしてまいりました」
「ご苦労様。さて、これからどうしようか?」
予定のキャンセル手配を終えて、秘書が戻って来た。
…さて、本当にこれからどうするべきか。
元から一日掛けて予定を入れていたから、今から新しい仕事に手を出すことも出来ない。
時計の針は、12時半を過ぎた時刻。
滅多にない午後のフリータイムを、どう有効に使うべきか?これはなかなか、難題である。



平日午後の橘家は、のんびりと落ち着いている。
……わけもなく、やはり賑やかな空気は途絶えることはない。
「きゃーん!きゃっふふっ!」
「ほらまゆきー、そろそろおネムでしょ?ベッドに行きましょ?」
「んふー、まーま、ぱんだ!」
ぱっと手元のぬいぐるみを握り、彼女は母親に満面の笑みで差し出す。
「もう…パンダさんもお昼寝したいって、そう言ってるわよ?」
ぬいぐるみを受け取り、はあ…とあかねは少し困ったようにため息をつく。
二人の子どもたちは学校だが、もうひとり元気いっぱいの姫君がここにはいる。
生まれたての頃とは違い、二歳になったまゆきは更に好奇も倍増で、じっとしていることがないほどだ。
本来ならお昼寝の時間だと言うのに、今日もまだまだ遊びたい気持ちが覚めやらない状態で、大きな目を輝かせてぬいぐるみと戯れている。
「しょうがないなあ、もう…」
あまりにも屈託なく笑うものだから、叱りつけることも気が引けてしまう。
いつも彼に"甘やかし過ぎ"と言っているのに、これじゃ自分も大きなことは言えないな、と自覚する。

トゥルルルルル…。
軽やかな電子音の呼び出しが、部屋中に響き渡った。
足早に祥穂が電話口に向かうと、一言二言だけ応対し、子機を持ったままこちらに戻って来た。
「旦那様から、お電話が入っておりますよ」
「えっ?友雅さんからですか?」
条件反射的に壁の時計を見たが、まだ1時にもなっていない。
間違いなくこの時間は勤務中。家に電話する余裕なんてありそうもないのに。


「旦那様、どのようなご用件でしたか?」
会話を終え、子機の通話ボタンをOFFにしたあかねに、祥穂が話しかけて来た。
あかねが電話をしている間、彼女はまゆきの相手をしてくれていたらしい。
「何だか、今日の予定がキャンセルになったので、これから帰宅するらしいです」
「まあ、そうでございますか。急なことですわね」
詳しいことは家に帰ったら、と言っていたので分からないのだが、これから帰ってくるならお茶の用意くらいしておかねば。
いくら仕事が早く終わったにせよ、帰宅して疲れを癒す茶の一杯くらいは用意しておきたい。
「まーま?」
くいっとスカートの裾を掴む、小さな手。
「もう…まゆきはー…。父様が帰ったら、寝かせてもらいますからね?」
そんな風に言われようが、彼女の笑顔はいっこうに変わらなかった。



こんなに日が明るい時間に、帰宅することなど滅多にない。
夏場でさえ、もっと黄昏が深くなった頃であるのに、今は太陽が頭の上にある。
明るい白木の格子戸を開けると、それと同時に小さな足音が聞こえて来た。
いつもより少し緩やかで、それでいて元気で、だけどちょっとぎこちない足音。
「ぱーぱ!」
「ただいま姫君。お迎えの笑顔は、一段と愛らしいね」
小さな手足をいっぱいに動かしながら、まゆきがあかねに背中を押されながらやって来る。
ふわっと彼女を片手で抱き上げ、彼は妻の方へ一歩踏み出した。
「おかえりなさい、友雅さん。お仕事大変でしたね」
「まあね。でも、先方に無理をさせるわけにはいかないからね」
まゆきの前でも遠慮せず、ちゅっとただいまの口づけだけは欠かさない。
片手に愛娘と、もう片手で愛妻の肩を抱いてリビングへ。
ドアがゆっくり内側から開かれ、中で祥穂が彼らを出迎えた。


「というわけでね。奥方が随分お疲れのようだったから、ホテルで休んで頂いたんだよ」
「そうだったんですか。無理はいけませんよね」
香り高いベルガモットの紅茶で、少しずつ喉を潤す。
オフィスでもリラックスしたい時には、この茶葉を入れるように頼むことがあるのだが、やはりこうして家で飲む味わいは格別だ。
「早急の用事とまでは、いかないからね。少し先伸ばしても問題はないさ」
不測の事態に備え、予定の前後に余裕を持ってスケジュールを調整してある。
こまめに先方の容態を伺いつつ、これからのことを考えていくことになるだろう。
「出産して二ヶ月じゃ、奥様の体調もお子さんも落ち着かないから、きっと大変なんですよ」
「だろうね。何だか私も、あの子たちが生まれる時のことが、思わずシンクロしてしまってね」
今では元気に初等部へ通う千歳と文紀も、生まれるときはそりゃ大騒ぎだった。
あかねも二十歳前で、しかも初産で双子という大仕事で。
本人はもちろん、女中の祥穂や彼女の両親、橘家の主治医まで巻き込んで。
「あのことを思い出したら、とても奥方に無茶はさせられないと思ったよ」
女性が命を生み出すということが、どれほど過酷で重い仕事であるのかを、あの日友雅は初めて知った。
それと同時に、我が身の血を分けて生まれ出た命が、計り知れない喜びと至福を与えてくれることも。

「おや、いつのまにか私の腕の中に、眠り姫がいらっしゃるよ」
友雅が吐息のように声を潜め、抱いていたまゆきの顔を指差した。
「あ、まゆきったら…やっと寝てくれた…」
はあ…と、ホッと一安心なため息。
昼寝の時間は随分と過ぎているが、ようやく寝付いてくれたようだ。
「お父様に抱っこして頂いて、さぞかし気持ちが良かったのではありません?」
「ふふ…成る程。そういうところまで、まゆきは母上似だね」
意味ありげにあかねを見ると、彼女の頬が少しだけ紅色に染まる。
さあ、そっとこのまま眠り姫を抱いて、ベッドへと御連れしよう。
心地良さそうに見る夢を、邪魔しないように。



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Megumi,Ka

suga