本日のスープ

 003
このままじっとしているわけにも行かず、友雅は書斎に移動することにした。
仕事は家に持ち込まない主義なので、滅多に使うことのない部屋なのだが、たまには片付けも必要だろう。
すると、勝手口の外から聞こえてくる水音に気付き、足を止めてドアを開いた。
そこにいたのは、バケツで雑巾を綺麗に洗っている文紀だった。
「ん?バケツの水を換えに来たのかい?」
「あ、ううん…。僕の方はもう済んだから、片付けようと思って」
「そうか。早く済んだのは偉いね」
普段から割と几帳面で、整理整頓もしている文紀だから、それほど掃除も必要なかったか。
だが、千歳は違う。
「千歳たちは…まだやってるみたい。まゆきの物もいろいろあるし」
「ふふ、女性は物持ちだからね、あの子の事だから、人形や花をどこに飾ろうかとか、悩んでいるんじゃないのかな」
新しいカーテンはこんな色が良いとか、ピローケースはこっちの模様が良いとか。
そういうことにこだわるのは、女の子だから仕方ない。

「そうだ。文紀、時間があるのなら、私の掃除の手伝いをお願い出来ないかな?」
「え、父上の?」
寝室は必要ないけれど、書斎はあちこち誇りをかぶっているかもしれない。
それに、彼にはそろそろ出入りを許しても良いだろう。
いずれきっと、文紀に必要な知識がそこにあるはずだから。



「父上…入っても良いの?」
「ん?構わないよ、お入り」
ドアの鍵を開けた友雅は、先に書斎の中へ入った。
しかし文紀はといえば、ドアの外からそうっと中を伺っている。
「妙にかしこまって、どうかしたかい」
「あの…書斎には入らないようにって、母上たちから言われてたから…」
"父様の大切な書類や本が揃っているから、勝手に入っちゃいけないのよ"
小さい頃からそう言われて、いつしか書斎は鍵を掛けられた。
一度も中を見ることなく、閉ざされていたドアの向こうが、今文紀の目に映し出されている。
そこは、至って普通の部屋に過ぎないのだけれど、彼にとっては異空間のように思えた。

「大丈夫だよ、別にたいしたものがあるわけじゃないし。それほど使われてない部屋だしね」
友雅に言われて、そろりそろりと文紀は足を踏み入れた。
およそ8畳ほどの書斎。
棚いっぱいに作り付けられた、大きな本棚にはぎっりしと本が並ぶ。
窓に面して置かれている、オーク材のアンティークデスクに古びた大きい椅子。
目立つ家具といえばそれくらいだ。
「わあ…たくさんの本がある」
「文紀にはちょっと難しいかもしれないな。でも、いずれはちゃんと読んで欲しいものばかりだよ」
百科事典のように分厚いシリーズの背表紙には、難しい漢字が使われていて、さすがの文紀にもまだ読み解けない。
その他にも、画集や写真集のようなものや、皮の背表紙のファイルケースが棚を占拠している。
「まだ文紀には難しいだろうけど、もうしばらく経ったら、ここの鍵を文紀に作ってあげるよ」
「えっ?僕…出入りしても良いの?」
「構わないよ。時間を掛けてゆっくりと、好きな本を読むと良いよ」
ただし、丁寧に扱うこと。
橘家の所蔵する工芸品や絵画、書などにまつわる、重要な鑑定書の写しもファイルに閉じられている。
画集は代々橘家が監修したものも多く、つまり家の歴史に関わるものも多い。
だから貴重であると同時に、文紀には興味を持って欲しい。
もちろん無理強いではなくて、自然に彼の気持ちが傾いてくれるのが条件だ。


「じゃあ、空いた棚を拭いてくれるかい?」
「うん」
少しずつ棚のものを移動させ、埃を払ってさっと棚を磨いてもらう、簡単な作業。
重い本は文紀に任せられないので、力仕事は友雅が引き受ける。
いつのまにか外は薄暗くなっていて、庭の芝生がしっとりと水を含んでいた。
ガラス窓には、小さな雨粒。
「雨降って来てたんだ」
「やっぱり、出掛けないで正解だったね」
時折、そんな言葉を少しだけ交わしながら、静かな書斎で片付けに専念する二人。
本棚の整理も、早めに済んだ。
「さてと。あとは…机の中でも片付けようか」
友雅は引き出しを開けて、中に目を向ける。
だが、片付けるほどのものは詰まっていなくて、ここはわざわざ整理しなくても良さそうだ。

「あれ…父上、これ」
引き出しを閉じて振り返ると、文紀が一冊の小さな本を手にしていた。
それほど厚みはないけれど、革張りの重厚感溢れる表紙には、刻印で"MEMORIAL"の文字。
写真らしきものが挟んでいるらしく、端っこの角が覗いている。
「開いて、中を見てごらん」
友雅に承諾を得た文紀は、静かにそのページをめくった。
中から出て来たのは…懐かしい写真たち。
「これ…もしかして、僕ら?」
「そう。生まれたばかりの頃に、写真を撮ってもらったんだよ」
柔らかいコットンケットに包まれて、ベビーベッドの中で眠る二人。
少年らしさ、少女らしさが自覚出来るようになった今では、互いの違いがはっきりと分かるけれども、この頃は二人ともそっくりだった。
「性格はねえ、今も変わらないね。文紀は割と大人しかったし、千歳はけろっとして屈託がなくて」
でも、朗らかなところは生まれたままだ。
誰にでも笑いかける、素直さと愛らしさだけは今も失われていない。

「このアルバムはね、父様の宝物だよ」
更にページをめくってゆくと、これまでの二人の写真に加えて、まゆきの写真も赤ん坊の時から貼られている。
「父様の大切な大切な宝物の写真だ。だから、これと同じものがあちこちに置いてあるんだよ」
会社にある友雅の仕事部屋、自宅の寝室。
滅多に使わないこの書斎にも、アルバムは複製されて置かれている。
「いつでも、父様のそばに文紀たちがいてくれるみたいで、仕事で疲れていても頑張ろうって気持ちになれるんだ」
写真一枚でも、子どもたちの顔を眺めているだけで、声が蘇って来る。
慕ってくる二人の声と、小さな手のひらのぬくもりと。
笑顔で寄り添ってくれる、いつもの子どもたちのことが、鮮やかに思い出される。

「文紀はまだ小さいけれど、それでも父様は頼りにしているよ」
大きな手が、文紀の頭を優しく撫でる。
母に良く似ている、さらりとした髪をすくうように。
「千歳やまゆきのことも、文紀がしっかりして優しくしてくれているから、父様は結構安心しているんだ」
「…僕、そんなしっかりしてないと思うけど…」
「謙遜しなくて良いんだよ。でも…そういうところが、文紀の優しいところなんだろうね」
過小評価しすぎるのも困るが、控えめなのはそれなりに好感が持てる。
自信家になって他人を見下すようなことだけは、絶対にしないで欲しいと思う。

が、母似の彼ならば…そんな心配は無用かもしれない。



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Megumi,Ka

suga