本日のスープ

 002
「いってらっしゃいませっ!お気を付けてねっ!」
やっと支度を終えたあかねは、子どもたちの見送りを背中で受けながら、天真と共に出掛けて行った。
「ねえ父様、今日はどうしておうちの車でお出かけしないの?」
「ん…?まあ何て言うかな…。そう、天真の車が新しいから、乗せてもらいたかったんだそうだよ」
「あ、そういえば綺麗な車だった。スチールみたいな色で、カッコ良かったな」

天真が新車を購入した、というのは嘘じゃない。
跡継ぎ息子とはいえ、職場では全く甘やかされていないらしい彼が、毎月コツコツ貯金を続けて早数年。
やっと手に入れたVANGUARDは、文紀が言ったとおりに傷ひとつなくワックスで磨かれていた。
そんな車に誰かを乗せたくて、ウズウズしていたのは天真の方。
あかねにはあかねなりの、自宅の車で出掛けなかった理由がある。
専属ドライバーがハンドルを握る、黒塗りLEXUS-GSで送り迎えされる女性。
想像したら、あまりにも世間ズレしているように見えないだろうか。
会場に集まっているのは、学生時代の友達ばかり。
あかねと同じ中流家庭の子どもたちが通う、一般的な普通の高校のクラスメートの前に、そんな現れ方をしたら…。

"だから、今日は天真くんに送り迎えをお願いしようと思って"
友雅と結婚して、所謂セレブ妻と称される立場になったことは、既に周知の友達もたくさんいるけれど、やっぱり学生時代の友達とは学生時代のままで気楽に接したいものだ。
まあ、天真が一緒なら心配ない。
同窓会と聞くと色々気がかりなこともあるが、彼が付き添ってくれるなら、そんな不安もないだろうし。
きちんとした奥様の仕事は今日一日休んで、せっかくの同窓会で羽を伸ばして来るのも良い。
その間は、代理人がしっかりと役目を努めよう。


「さて」
気を取り直して、友雅は千歳の手を握り返した。
「本日は母上の代わりに、父上が王子と姫君たちのお供を仰せつかったわけだけれど…今日はどうするおつもりですか?」
「んー、そうね…どうしましょう兄様」
「特に僕は用事はないけど…」
「私も。まゆきと遊んであげるくらいしか、特にないわ」
せっかくの休みだし、どこか遊びに連れて行ってやろうか。
あかねが使わなかったおかげで、家の車も空いていることだし。
「ですが、今日はあまりお天気もよろしくないようですし、お出掛けには不向きかもしれませんよ」
祥穂が言うので、空をもう一度見上げてみた。
雲は薄いが、青空が見える様子は全くない。
確か朝の天気予報では、午後から小雨が降るとか言っていた気もする。
となると、やはり外出は控えておいた方が良いかもしれない…が、それならば何をして一日を過ごそうか。

「では文紀様、千歳様、お部屋のお片づけとお掃除などは如何です?」
提案を立てたのは、祥穂だった。
「机や窓を拭いたり、本棚を整理したり…。簡単なお掃除をすると、お部屋も気持ち良くなりますよ」
小学校に上がるまでは同室だった二人も、今は間仕切りで個室を与えてある。
勉強するために取り付けた机、本棚。
クローゼットの中もワードローブが増えて来て、これからどんどん物が増えて行くだろう。
「ああ、それは良い。そろそろ二人とも、自分の身の回りは自分で片付けるようにしないとね」
少しずつ大人に向かう道を歩き出した二人に、嫁せられる問題は大小様々。
それらをひとつずつこなしながら、彼らは成長していくのである。
「…うん。いつも母上や祥穂にお掃除してもらってるんだから、自分のことは自分でやらなきゃ」
「そうね。まゆきの周りも綺麗にしてあげましょう。それも、姉様の役目よね」
個室になったとは言っても、まゆきは相変わらず千歳と同じ部屋。
彼女のベッドのそばにベビーベッドを置いて、今でも一緒に眠っている。
まあ、何かあった時のためにと、彼女の部屋の隣は祥穂の部屋があるのだが。

「それでは、今日のスケジュールは整理整頓ということで、良いね」
ようやく一日の予定も、これである程度は決まった。
子どもたちと遊ぶことに集中するのも良いが、こういう休日の過ごし方も悪くはないか。
年末年始はいつも別荘で過ごすが、大掃除は年の瀬に欠かせない家庭内行事。
しかし、無闇に広い屋敷の掃除は大変な作業で、一家&使用人総出でも手に負えるわけがなく、一部は業者に任せているのが現状だ。
それでも、日々少しずつ簡単な掃除や片付けをしていれば、大掃除当日は若干楽な作業になるかもしれない。
今日はつまり、大掃除リハーサルという感じか。

「あっ!父様も、ちゃんとお部屋のお片付けしてね?」
掃除用具を取りに納戸へ向かおうとした千歳が、くるっと振り返ってこちらに戻って来た。
「寝室を綺麗に片付けたら、母様きっと喜んでくれますわよ」
「なるほど。母上が喜んでくれるのなら、手を抜く訳にはいかないな」
「そうよ。だから、父様も頑張って!」
そう言い残し、千歳はまた文紀のあとを追いかけて行く。
賑やかな足音が、どんどん小さく遠くなりつつあるのを確かめながら、友雅は祥穂と揃って笑みを浮かべる。
「なかなか言うようになったねえ、千歳は」
「やはりお嬢様ですもの。そういう身の回りのことや、家庭的なことをどんどん吸収される時期なのでしょう」
毎日一緒にいると、小さな成長には気付かないけれど、たまにはっとさせられる。
育てられているだけの子どもが、自立の気配を少しずつ漂わせる。
「いつも奥様のお姿を、お近くで見ておりますから」
祥穂が言う。
あかねが毎日忙しく働く姿を、千歳は同性としてしっかりと見ている。
そうして、生まれつき備わっている女性らしさが、母の面影を通して自らの中に芽生え始めているのだ。
「奥様の姿を見ながら、しっかりしたお嬢様に成長しておられますわ」
家柄や環境に捕われることなく、自分から行動することを惜しまない。
自分のことは自分で、出来ることはやる。
他人に物事を押し付けないこと。
彼女は、充分に母の遺伝子を受け継いで育っている。
「あかねの良いところを、ちゃんと分かってくれているようで、嬉しいよ」



やがて掃除用具を揃えた子どもたちは、自分の部屋に向かった。
祥穂はまゆきを連れて、千歳の部屋を掃除中。
そして、友雅は……
「私が手を出すところは、全然ないんだがねえ…」
取り敢えず寝室に戻ってみたが、散らかってもいないし片付けるところもない。
シーツとピローケースは、ランドリーケースに放り込んだし、ゴミは朝起きると同時にあかねがまとめて出した。
「うーん…ここも完璧だな」
クローゼットを開けてみる。
引き出しにはきっちりシャツが折り畳まれ、クリーニングの済んだコートやジャケットは綺麗に吊るされ、冬の出番を待っているようだ。
改めて目の当たりにする、あかねの毎日。
朝昼晩の食事の支度に、簡単な掃除や洗濯。
千歳たちが学校に通うようになって、少しは手が離れたのだろうが、まゆきはまだまだ目を離せない時期。
気が抜けない24時間の中で、こうして家事を毎日こなしているなんて、一体どれほどの重労働に相当するだろうか。

「たまには、息抜きがなくてはね」
ヘビロテの主婦業だけじゃ、煮詰まってしまう。
だから、こんな風に外出の機会があるのならば、気兼ねなく出掛けられるようにしてやらなくては、と思う。
妻が楽しく毎日を過ごせるように。
「そんな風に考慮してあげるのも、夫の仕事のひとつだよね」
独り言をつぶやいたあと、友雅はパタンとクローゼットのドアを閉めた。



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Megumi,Ka

suga