白雲の果て、春の雪

 第16話(3)
「あっ、母様!」
厨房に顔を出すと、その姿を見つけたとたん、即座に千歳が駆け寄って来た。
あかねに飛びつく千歳の後ろで、鍋を見ていた詩紋がこちらを見る。
「あかねちゃん!ゆっくりしてて良いって、祥穂さんから聞いてなかった?」
「うん、ありがと。でも、すっきり目が覚めちゃったしね。」
彼女はそう答えると、千歳の手を引いて竈の方へやって来た。

沸き上がる湯気と、ほんのり甘い野菜を茹でる香り。鍋には、とろとろと粥が煮込まれている。
「あのねっ、詩紋殿が昨夜の蟹のお出汁で粥を作って下さったのっ」
嬉しそうに指を差す鍋に顔を寄せると、良い香りが漂う。
「うわ、美味しそうな匂い!」
「昨日のお吸い物が余ってたから、残しちゃ勿体ないでしょ?」
料理には香りというものも、調味料になるのだな、と思わせる。朝から食欲をそそられる匂いだ。


「あかねちゃんが、元気そうで良かった。」
「えっ?」
ひとりひとりの碗に粥を注ぎながら、隣で煮物を盛りつけている詩紋を見る。
彼はあかねの顔を見ると、出会った頃のようなきらきらした笑顔を浮かべ、それ以上何も言わなかった。
祥穂や千歳がちょこちょこと歩き回り、時々詩紋に話しかけたりしている。
高杯に碗を並べ、匙や箸を添えたり……いつも通りの、いつもの光景。
それがとても優しい色に見えて、ホッとする。

「こっちこそ…ありがとうね。」
ぽつりとあかねがつぶやくように言うと、それまで千歳と話していた詩紋が顔を上げた。
「もう、大丈夫だから。元に戻ったから…ありがと。」
真正面から向き合うのが、何となく照れくさい気がして、そのまま盛りつけをしている振りをする。
そんな彼女を見ながら、詩紋は嬉しそうに微笑んだ。



「おや…二人とも、どうしたんだい?」
着替えを済ませて広間に向かう途中、渡殿の真ん中で立ち止まった友雅は、庭先に見慣れない組み合わせの二人がいることに気付いた。
「あ、父上。おはようございます」
友雅の声に気付いた文紀は、すぐに身体の向きを変えてこちらにやって来る。
そして、そのあとを着いてきた天真の手には、革の鞠が抱えられていた。
「蹴鞠のコツをな、ちょっと教えてやってたんだ。」
天真たちが以前話していたことだが、どうやら彼らの世界でも蹴鞠と同じような球技があるのだそうだ。
ルールや試合運びは違いがあると言えど、足で鞠を蹴り続けるという行為はそれほど違わない。
「これでもフットサルクラブで、かなり良い線行ってたんだぜ?」
彼らの世界では、蹴鞠は"サッカー"と言い、"フットサル"とは、そのサッカーを少人数で行う競技だと言う。
「天真殿が、とても鞠を蹴るのがお上手なんです。だから、いろいろと教えてもらってて。」
「そうか。では天真がこちらにいる間は、蹴鞠の師をお願いしたいね。」
「おう、構わないぜ。コイツ覚えが早いし、教え甲斐があるってもんだ。」
そう言われて頭を撫でられている文紀も、嬉しそうに笑みを浮かべている。

「でも、そろそろ朝餉の支度も済んでいる頃だよ。二人とも、一旦そこら辺で小休止したらどうだい?」
友雅が言ったすぐあとで、広間の方から声が聞こえてきた。
「文紀ー!天真くーん!朝ごはんの用意が出来たから、早く上がってきてー!」
あかねの声が庭に響いて、くすっと笑い声が込み上げてきた。
「さ、早く上がっておいで。母上を待たせてはいけないからね。」
文紀はうなづいて、南庭の方へと足早に駆けていった。


「……どうだ?今朝の目覚めの気分は。」
手の上で鞠を弄びながら、天真は渡殿の上にいる友雅を見上げる。
「良いね。ここ最近で、一番良い気分で目覚められたような気がするよ。」
「フッ…良かったじゃん」
短い言葉ではあるが、何もかも分かっているから、それだけの言葉で済む。
よく眠れたから目覚めが良い、というだけではない。
もっと内面的な結果のことだ。
決して長くない夜が終わったあと、そして迎えたこの朝に、彼は和やかな眼差しで朝日を見上げている。
その表情で、これまでの澱みや弛みが消えたことが、天真には分かった。

「ま、今後はあんまり、面倒なこと考えんじゃねえぞ?」
「ふふ…わかってるよ。もう、そんな不安なんていらないんだって、散々念を押されてしまったからね。」
彼女が自分の心に刻んでくれた、その言葉を何度も確かめては反芻する。
ずっとここにいてくれる。だからこれからも、彼女を愛し続けて良いのだと。


「今朝、あかねが言っていたんだけれど…」
そろそろ広間に向かおうと思った天真を、友雅が呼び止めるように口を開いた。
「君らが例え"月の使者"であったとしても、まずは君らのことをよく考えてみなさい、って。」
「あ?俺らのことを考えるって…なんだソレ」
どういう意味で、あかねはそんな事を言ったんだろうかと、眉を潜めている天真に向かって、友雅は穏やかに微笑みながら答えた。
「君らの性格を考えれてみれば、絶対にあかねを問答無用に連れ帰るなんてことは、絶対にしないって言っていたよ。」
短い時間であっても、共に過ごした中で得た信頼は確かなもの。

天真は少しぶっきらぼうにも見えるし、詩紋は大人しくて内向的な感じもするけれど……彼らがどれほど優しい者たちであるのか、よくわかっているはずだ、と。
「そんな君らだったら、帰りたくないと泣くかぐや姫を連れ帰るなんて、酷いことはしないはずだってね。」
「は……あ、そーですかねえー」
照れくさいのか、天真はぽりぽりと顔を掻いた。
「でも、あかねの言ったとおりだ。君らが、あんな"月の使者"であるはずが、なかったね…。」
そうだ。こうして、自分たちのためにと、いろいろ手を尽くしてくれた。
引き離すどころか…連れ去るどころか、自分たちが幸せであるようにと、常に考えてくれていたじゃないか。

「感謝してるよ。本当に。」
その言葉しか浮かばなかった。月並みであるけれど、ストレートに表現出来るのは、こんな言葉しかなかった。
「そんじゃ、月の使者としては、かぐや姫の意志を全面的に尊重するってことで、このままここに置いていくからな。不幸にすんじゃねえぞ。」
「……ああ。どんなことがあろうと、今の幸せ程度で満足などさせないよ。今よりもっと、幸せにするつもりだからね。」
限度なんてものは、必要ない。
幸せの上には、もっとたくさんの幸せというものがあることを、これからも彼女に教えていこう。
それはきっと…彼女を愛している自分だけが、彼女に与えられることなのだと分かったから。


「あ、友雅さん…天真くんも!」
渡殿の向こうから、あかねがこちらに向かってやって来た。
「朝餉の用意が出来たから、呼びに行こうと思ってたんです。」
「わかってるわかってる。さっき、おまえの声が庭に響いてたから。」
「今、行こうと思っていたんだよ。でも、ちょっとその前に…少し御礼と雑談をしていてね。」
"御礼"という言葉を聞くと、あかねも気付いたようで、庭にいる天真を見た。
「……私からも、ホントにありがと…天真くん」
「あー、俺もなー。なんだか随分と賞賛してくれたようで、どーもありがとーございますー」
おどけたように言っているけれど、心の中では嬉しいに違いない。
少し頬が赤いのが、その証拠だ。

「まあ、その…幸せなのは結構だけどもさ、あんまり刺激の強いモノは見せつけんなよな」
「え、えっ!?」
ニヤリと笑うと、天真はあかねと友雅を交互に指さす。
「俺ら一応、フリーの健全な男なもんで。イチャイチャも度を超したようなものは……って、オイ!!」
まだ話の最中ではあったのだが、あかねの身体を引き寄せた友雅の唇は、目の前で彼女の唇にぴったりと重なっていて。

「言ってるそばから、ソレか!!」
赤くなっているあかねとは正反対に、唇を求める友雅の方は、伏せた瞼の奥で幸せだけを感じていた。


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Megumi,Ka

suga