白雲の果て、春の雪

 第16話(1)
夜は深まっても相変わらず静かで、時折池の上を撫でて行く風の音さえ、大きく聞こえるほどだった。
桜が満開の春たけなわだが、夜は少しまだ肌寒い時も少なくはない。
ましてや、汗と熱を含んでいる肌には、ぶるっと身体が震えることもある。

友雅は、脱ぎ捨てられているあかねの寝着を取った。
抱き合って横たわっていても、接していない背中までは暖められないから、せめてそれを掛けてやる。
だが、それでも互いに離れたくない気持ちは変わらない。
じっと同じ姿勢のままで、二人はそれぞれのぬくもりに触れていた。

「…桜が綺麗だね。」
彼の声が聞こえて、あかねはようやく顔を上げた。
無意識にその視線は、御簾の向こうに見える庭に向けられたが、その顔の向きを優しく友雅は変えさせる。
そして、彼が見せてくれた先にあったのは、格子戸から覗く年若い桜の木。
「あれは一年中、花を楽しませてくれる。季節を構わず、こうして桜を愛でられるなんて…何だか贅沢な気分だね。」
「そうですねえ…。あの花を見ると、冬でも何となく春みたいな、あったかい気持ちになりますもんね」
はらはらと花びらが舞い落ちれば、またすぐに新しい蕾が膨らむ。
そして再び、花が咲く。
夏も秋も冬も、繰り返しそれは咲き誇り続ける。
冬場の雪化粧を施した桜なんて、見たくても見られないものが、ここでは当然のようにそこにある。
「何だか、春の桜の絵が飾られてるみたい。」
「そうだね。ここだけ常春のようだ。」
肩を寄せ合いながら、二人はそんな桜をぼんやりと眺めている。

ふと、何かを思い出したように、友雅が口を開いた。
「詩紋がね、面白い話をしてくれたよ。あの桜は、あかねの心と繋がっているんじゃないか…ってね。」
「え?私の心と…って、どういうことですか?」
不思議そうな瞳を輝かせて、あかねは友雅の顔を覗き込む。
「あの桜は、君がここに来て初めて植えた桜だろう。だから、他の花や木よりもずっと、君の想いが染み付いているんじゃないかと言うんだよ。」
「私の想い……」
「それでね、もしかしたらあの桜は…私にずっと見ていてもらいたいから、こうしてずっと咲き続けているんじゃないか…と詩紋は言うのだけどね。」
自分では真実を判明できない。
でも、そうであるのならば、本当に嬉しいのだけれど…と友雅は言った。
あの桜が、彼女の心を投影しているのなら…自分のそばにいたいという意味でもあるから。

「そっか…。じゃあ、そうなのかもしれませんよ。思い当たる節が有り過ぎますもん、私。」
「本当に?」
「うん。それなら…枯れないで咲き続けてる意味、分かりますよ」
そう言ってあかねは、友雅の腕の中から起き上がると、彼が掛けてくれた寝着に袖を通し、ゆっくりと立ち上がった。
歩み進み、格子戸を左右に思い切り開く。
そこに広がった情景は、中央に桜、左右を挟むように白と紫の木蓮の花。

あかねは外に手を伸ばして、舞い落ちる桜の花びらを一枚受け止めた。
「ここに植えてもらったのが、きっと嬉しくて…咲いてるんですね…」
身体を伸ばして覗き込むと、根元は散った花びらで桜色に染まっている。
でも、見上げれば枝にはいくつもの蕾。
「このお屋敷じゃないと、駄目なんですよ、きっと。」
友雅がいる、この屋敷でなければ…きっとこんな事は無いだろう。
彼がいるから、彼が見つめてくれるこの場所だから、この花は咲き続けている。
その瞳で見つめてもらいたくて。
彼に一番近い、この場所で。

「嬉しくて咲いているのなら…あの桜は、幸せだと思っているんだろうかね?」
あかねのそばにやって来た友雅は、そっと後ろから腕を回した。
「そうですよ。友雅さんに眺めてもらうのが、嬉しいんですよ…」
手の中にある花びらは、まるで大切な宝物を扱うように、あかねの手と友雅の手で包み込まれる。
そっと優しく、傷つけないように。暖めるみたいに包んで。
「あの桜だけは、枯らさないようにしなくてはね。どこを探しても、同じものは見つからないのだから…」
友雅はそう言って、襟元から覗く細いうなじに口付けをした。
一年中枯れない桜なんて、どこを探してもあるはずがない。
そして、どこを探し回っても…大切な人はここにしかいない。

「月明かりを浴びても、ずっと綺麗に咲き続けるようにね。ただ、あまりに綺麗だからと言って、月の人々に掘り起こされて持ち帰られたら困るけれど。」
「大丈夫ですよ。きっともう、しっかり根付いちゃってますから。」
軽やかで少し艶やかな笑い声が、そう答えを返した。
「あの桜…ここから離れるつもりないみたいですからね。」
彼に抱きしめられながら、春を保ち続ける桜を見て、あかねは言った。
自分の気持ちがそのまま伝わっているなら、きっとそう思っているはず。
「掘り起こされてたって、他じゃ育ちませんよ。花だって…きっと咲きません。ここじゃなきゃ…駄目なんです。」
桜が選んだ場所は、あかねが選んだ生きる場所だ。
包み込んでくれるこの腕が、閉じ込めてくれる広い胸がある、この世界。
「ここだから、幸せなんですよ…」
それは、あかねの本心。

誰よりも好きな人に、こんなにまで想ってもらえて。
最初に恋に気付いたときには、自分なんか釣り合う相手じゃないと諦めていたのに……今こうして手の届くところにいる。
その胸に飛び込めば、優しい口付けとともに抱きしめてくれる。
甘い香りと、暖かなぬくもり。
まるで春のような-----。
ああ、そうか。
だから…彼が暖めてくれるから、いつでも春のような気持ちでいられるのだ。
きっとあの桜は…いつも春を忘れずにいるのかもしれないと、今、思った。


「少し御簾を開けて、月の明かりを取り込もうか」
彼女を抱いたまま、友雅はそう言って空を覗く。
「もう、以前ほど月を怖く感じなくなったからね。せっかく綺麗な月夜だから…」
「そうですね。じゃ、片方の御簾だけ上げましょうか。」
友雅に言われた通りに、あかねは端の御簾のみを上まで巻き上げた。
一枚の御簾がないだけでも、外からの明かりは十分に部屋の中に差し込んでくる。
池の水模様が、きらきらと天井に映りこむことで、更に明るさも増して。
燭台の灯も、消すことにした。
朧月夜の柔らかな月明かりの方が、ゆっくり落ち着いて時間を過ごせそうだから。

ことん、と友雅の肩に寄りかかって、あかねは外の景色を眺める。
置きっぱなしの盃と銚子。でも、もう酒なんか必要ない。
二人で寄り添っていれば、それだけで酔いしれることが出来るはず。

「でもね、今でも…全然怖くないわけではないんだよ。」
ぽつりと言うと、月明かりに照らされている庭に目を遣った。
あかねは隣で、彼の表情を伺っている。
「君が私に飽きてしまったら、やっぱり住み慣れた世界に戻ってしまうかもしれないしね…」
彼女や、そして天真たちから聞く彼らの世界は、京よりもめまぐるしく時間の早い世界で。
その中で色々な出来事が、次々に移り変わっては新しい物が生まれ出る。
常に動き続ける刺激的な日々は、飽きた男とのらくらと過ごすよりは、ずっと楽しいのではないだろうか。

「友雅さんに飽きるなんてっ…!」
そんなこと、あるわけがない。
そういうことに怯えていたのは、こちらの方だとあかねは言い返したかった。
彼がこれまで付き合った、この京の女性のように聡明でもないし、見た目も優れているとは言い難い。
比べられては"未熟な女だ"とか思われて、呆れられてしまったらどうしようかと、これまで何度思ったことか。
そのくせ、彼の方はいつも自分を楽しませてくれて。
季節の美しい景色を見に、外へと連れていってくれたり、目に楽しいものを見つけては、持ち帰ってくれたりと楽しませてくれる。
そして何よりも……二人にとって愛しい命を、彼は与えてくれたのだ。

父親として子どもたちを何よりも愛してくれて、それでも二人の時には、今まで通りに自分を愛してくれる。
そんな彼を飽きるだなんて…あり得ない、と言おうとした。

だが、友雅はあかねが最後まで言わないうちに、彼女の顔を優しく見つめて言う。
「だから、飽きられたりしないように、これからも頑張らなければいけないな、と思ってね……」
そう言った彼の表情は、ほんの少しだけ照れたように見えた。


***********

Megumi,Ka

suga