白雲の果て、春の雪

 第15話(2)
「本当はずっと、気付かない振りをしていたのかもしれないな。君が戻る事の出来る世界が、ここ以外にもあると言う事にね。」
苦笑いを浮かべて、少し寂しげな目をしながら友雅はそう話す。
あかねは、声を掛けたいという気持ちを抑えて、彼が口を開いて紡ぎ出す話を、じっと黙って聞くことを決めた。

「天真たちは君にとって親友だし、私にとっても戦友と言えるような、特別な仲間だと思ってる。そんな彼らとこうして再会出来たのは、理由は分からなくても嬉しかったんだよ。」
長い時間を、一緒に過ごしたわけではない。けれど、絆というものは時間で計れないものだと、友雅は身をもって知っている。
二度と会えないだろうと思っていただけに、驚きと同じくらいに懐かしさと嬉しさは計り知れなかった。
あんなものさえ、手にすることがなかったら…。
そう思いながら友雅は、絵巻にもう一度目を向けた。

「こんなものを貰うことがなければ、再会をただ楽しめたはずなんだ。偶然というのは、時に皮肉な結果を生むものだね。」
思い出さずに済んだのに、それを彼らと再会したあとに知るなんて。
手の届かない月の世界のように、遠い世界が彼らの居場所であり、そしてあかねの居場所でもあった。
いつでも望めば、彼女には戻る場所が用意されている……。
「御伽話の世界だと思ったんだ。でも、それは身近にあることだと、気付いてしまったんだ。」
月からの使者に連れられて、元の世界に戻っていくかぐや姫が、自分の一番近いところにいる人なのだと。

「それからは…泰明殿から聞いたとおりだよ。もう、分かっているんだろうね。」
「あの…いろいろと…。永泉さんが、泰明さんのところに尋ねてきたとか…。」
「そうか、永泉様にまで…か。」
おそらく帝の方から伝わったのだろう。
仏の道が相応しい、慈悲に満ちた人であるから、こんな他愛もない一人の男の悩みさえにも、真剣に気に掛けてくれたに違いない。
「泰明殿にも言われたんだ。『つまらない事で気を揉むな』ってね」
"無駄な思考は、かえって状況を悪くさせるだけ"と、彼は言った。
それは、まったくその通りになった。
「吹っ切れないまま、こうして思い悩み続けたおかげで、多くの人に迷惑を掛けてしまったのだからね。自業自得か。」
乾いた笑いが込み上げてくる。
どこまで思い切りの悪い、惨めなことしか考えられないんだろうと、自分で自分がおかしくて。
「一番大切な君のところにまで、結局は話は通ってしまって。挙げ句の果てに、君まで不安にさせてしまって。…どうしようもないな。」
そう言って、友雅はもう一度空を見上げた。
淡い黄金の月は、さっきと同じようにその場所で輝いている。


少しの間、お互いに言葉を閉じた。
空になった盃を、時々手持ち無沙汰に弄ったりしていると、あかねが銚子を差し出そうとしたが、友雅はそれを断った。
今夜はもう、酒は良い。あまり飲み過ぎても、自分を見失うだけだし。
やっとここまで話が出来たのだ。最後まで伝えなくては、意味が無い。

静かに立ち上がり、釣殿の先まで進んだ。
眼下の池には月が映し出されていて、時折水面の揺れがその姿を崩した。
友雅はしばらくそれを眺め、揺れが治まると再び空を見上げる。
「あかね、君もこっちに来てごらん。」
振り向いて手招きをする友雅に、あかねも立ち上がって御簾の外へと出た。
釣殿の板間は明るくて、水の模様が反射している。

あかねが隣に来ると、友雅は手を伸ばして、届くはずも無い空の月を指差した。
「あんなにも綺麗な月なのに、私はずっと恐ろしいと思っていた。これまで、こんな風にゆっくり観月を楽しめたのに、最近はその姿が天に昇るたび、怯える毎日だったよ。」
「………だから、窓や戸をしっかり閉めるように、って言ったんですか…」
「光を遮れば、外からの月明かりも防げると思っていたんだ。そうすれば、月からの使者の目を隠せるかな…なんてね。そんな子どもみたいな事を、真剣に考えてたんだ。」
幼稚な、何の確信も無い、思いつきだけの方法だった。
それでも…他人から見れば笑い話のことでも、本気で彼女を月明かりから隠したかった。


「……っ」
急に何の前触れも無く、あかねは友雅の胸に閉じ込められた。
その腕は強く力が込められて、しっかりとあかねの身体を抱きしめる。
解けないくらいに、強く。

寝着代わりの薄衣を挟んで、彼の心音が聞こえて来た。
トク、トク、トク、トク…少しだけ早いリズムと、何度か息を飲むような吐息。
背中には、彼の指先が当たっている。
…あ。……今、初めて気付いた。
その指先が…かすかに震えている。

「友雅…さん…?」
名前を呼んでみたが、返事は無かった。
ただ、その間もずっと彼の腕の力は弱まらなかった。
それはまるで…あかねの身体に縋り付いているような。
身体の大きさも、力も、その存在も何もかもがずっと大きくて、いつも寄り掛かるのはあかねの方だった。
だけど、こうしてあかねを抱いている今の友雅は、どこか儚げで、崩れそうな弱さを感じる。

たまらなくなって、そっと彼の背中に手を回した。
抱きしめられているのに、抱きしめてあげなくちゃいけないような、そんな気がしたから。

「君が連れ去られてしまうような気がして…怖かったんだ…」
耳元で、囁くように小さな声がする。
「一人取り残されたあとの事を考えたら…不安で仕方が無くて。どうしても頭からそのことが消えなくて…怯えていたんだ。」
「……友雅さん…」
「君がそんな事を思うわけがないって、皆は言っていたし。私も君を疑っていたわけじゃない。でも、それでも……君がどう思っていたとしても…」
開かれたままの、絵巻物を目に映す。
例え彼女が残りたいと思っても、どんなに軍勢を揃えて立ち向かおうとも…月の使者は彼女を連れ去って行く。
どうにも出来ない。心だけでは勝てない非情の結果が、そこに描かれている。
「帝でさえも止められなかったのを、私に出来るわけがないだろう。このまま黙って、君がいなくなる日を待つしか無いのかと思ったら…」
毎夜、月を見るのが怖くて。
時折青空に浮かぶ、白い月の影さえにも怯えて。
こんな気持ちを抱く日が来るなんて、思っても見なかった。

「離したくないって、繰り返し何度も思った。答えが見つからなくても、ずっとそう思ってた。今でも…そう思ってるよ。」
だから-------。

がくん、と膝から力が抜けて、その場に二人同時に座り込んだ。
急に友雅の体重がすべて預けられて、あかねはそれを支える事が出来なかったが、後ろにある柱のおかげで倒れることは免れた。
しかし、それでも彼はうなだれたまま、彼女の肩に顔をうずめて何も言わない。
さっきまで強く抱きしめていた腕も、今はだらりと力を抜いて。
重いけれど、引き離せない。
この重みが、これまで彼が抱いていた辛さだと思ったら、ここからは絶対に離れられない。

もう一度友雅の背中に手を伸ばして、抱きしめようとした。


「…行かないで…くれ」


その声は、耳元で言われなかったら、聞き逃していただろう。
それくらいにかぼそくて小さな、ようやく絞り出したようなものだったが、間違いなく友雅の声だった。


同じようなことを、以前言われた事がある。
龍神を呼んだあの時に、自分を呼び止めてくれた声。
"行くな"と…彼が叫んだ声に引き止められて、今、あかねはここで生きている。
彼の隣で。
だけど、今聞いた彼の声は、そしてその言葉は、あの時とは全く違ったものに聞こえた。
嘆願するように切なそうで、込み上げる思いに胸を詰まらせて…肩に乗せた手が震えて。

………初めて聞いた、声だった。

その一言だけ。あとは何も言わず、顔も上げずに友雅はうなだれてる。
だが、それだけで十分だった。
何度も繰り返し、心の中に響いている。
大きな音で何度も何度も、彼の声が止まらずに聞こえ続けている。


無意識のうちに、あかねは友雅の背中に手を伸ばした。
そして両腕で、出来る限りの力を込めて、彼を抱きしめた。
瞳の奥から、大粒の涙が溢れてきていることも構わずに。



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Megumi,Ka

suga