子どもたちの声が聞こえない日は、久しぶりだ。
文紀はともかく、千歳が外に出ることは少ないから、彼女の声やちょこまかと動く姿が見えないのは、何だかちょっと不思議な気分にもなる。
「おや?何だか今日は、随分と静かな気がするね」
部屋に生けるための花を、庭先で摘んでいたあかねと祥穂は、その声に気付いて手を休めた。
振り返ると、南庭に面した簀子に立つ友雅の姿がある。
「若竹君と撫子姫の姿が見えないが、どこにいるのかな?」
「お二人は、今日はお出掛けになっておりますわ。」
祥穂はそう答えると、花を抱えているあかねにハサミを手渡して、高欄をゆっくりと上がって来た。
「お天気がよろしいので、天真殿と詩紋殿が川遊びに連れて行かれましたの。」
「へえ…文紀はともかくとして、千歳は珍しいね。」
宇治川のごく下流にある別荘の周りは自然が豊かで、そこに行った時は自由奔放に駆け回っているくらいだから、機会があれば外を出歩きたい性分の娘なんだろう。
やはり母親似だな…と、友雅はあかねの姿を瞳に映して、そんなことを思った。
「では、お食事のご用意を致しますので、しばらくお待ち下さいませ。」
そそくさと祥穂は、足早に厨房へと姿を消そうとしたが、庭先からあかねが追いかけて来た。
「祥穂さん!それなら私がやります!」
花の枝を抱えたあかねが呼び止めると、祥穂はやんわりとその申し出を目の前で塞いだ。
「今日は私どもがご用意致しますわ。日中、お二人きりというのは、お久しぶりでございましょう。殿とご一緒に、ゆったりお過ごし下さいませ。」
そう答えて彼女は再び背を向けると、そのまま奥へと向かって行ってしまった。
祥穂は心の底から、気を使ってくれたのだろう。
その想いはとても嬉しいのだが、今は少し複雑な気分だから…彼と二人きりになるのは少し戸惑う。
「あかね」
名前を呼ばれて、どきっとしてあかねは振り返ろうとしたが、同時に彼の腕が目の前に伸びて来た。
「桜の枝が折れるよ。まだ細い枝だから、そんなに強く抱きしめていたら、花も潰れてしまう。」
「あっ…そ、そうですね。せっかく切ったのに、駄目にしちゃったら可哀想…」
慌てながらあかねは、持っていた桜の枝を抱え直した。
でも----それでも彼の腕が離れてくれない。
抱きすくめるわけでもなく、片腕であかねの身体をせき止めるようにして、そっと支えている。
何でこんな風になるの。
抱きしめられることなんて、日常茶飯事で慣れっこのことじゃない。
ただ、腕が触れているだけ。それだけなのに、鼓動が…リズムが乱れてしまう。
どうして欲しいの。どうされたいの。
どうなりたいの…私?
答えが見つからないまま、小さく身体が強張る。
「食事を済ませたら、今日は鷹通のところへ出掛けて来るよ。」
急に友雅が言うと、あかねはすぐに顔を上げた。
「鷹通さん…お仕事じゃないんですか」
「だから、ちょっと治部省まで行って来る。泰明殿にも会って話しておきたいことが有るのでね。」
もしかして…自分たちの事だろうか。
彼らにも、余計な心配をかけてしまったから…。
「みんな出掛けてしまっているのに、一人にしてしまうのは申し訳ないけれど、良いかな?」
「え、ええ、構いませんけど…。よろしく言っておいて下さい。」
自然と出た言葉ではあったが、その意味はおそらく友雅には通じただろう。
あれこれと、気を使ってくれて…感謝していると。あかねが思っていたことに、彼が気付かない訳が無かった。
しばらくして、祥穂が部屋に戻って来た。
「お食事のお支度が済みましたが、広間で召し上がりますか?それとも、お天気がよろしいですから、こちらにお運び致しますか?」
簡単なものであるから、高坏ごと持ち運べばすぐに移動出来る。友雅は少し悩んだが、広間に行くと祥穂に告げた。
羹が冷めないうちに…と一言添えて、彼女は先に部屋を出て行く。
「それじゃ…行きましょうか」
「そうだね。」
後に続くように、二人は揃って簀子から部屋の中へと入った。
入口、子ども部屋、広間に飾る分の桜を抱える。
自分たちの寝所には置かない。窓からはいつでも、枯れない桜が眺められるから。
だけど、やはり春に見るのが一番良い。
隣にある紫と白の木蓮の花が、共に咲き誇って優雅で綺麗な景色だ。
今年もそんな季節-----------。
ぼんやりと物思いに耽りながら、部屋の真ん中あたりまで歩いて来たとき。
その手は、突然にあかねの腕を掴んだ。
バランスが崩れて少し足元が揺らめき、同時に手元が緩んで、バラバラと桜の枝がこぼれ落ちた。
拾わなくちゃ、と咄嗟に思ったが、出来なかった。
身体を強く捕らえられて、喉の奥を押さえ込まれているようだ。
目の前の視野も狭まり、心臓の動きを乱していく。
「……っ」
声が出ない。後ろから抱きすくめられたまま、背中に友雅の存在だけを感じて立ちすくむ。
互いに何も言わず、庭でさえずる小鳥の声だけが響く。
友雅はあかねを離さずに、そしてあかねは友雅の腕の中に閉じこもる。
足元に広がる桜の枝など気に留めずに、互いを瞳に映すこと無く背を向けて時間が過ぎる。
時々、うなじに小さな吐息が触れて、かすかにびくんとあかねの肩が震えた。
沈黙には違いないのに、身体を抱きしめる彼の腕の感触はとても繊細で、そして柔らかく優しくて心地良い。
さっきまで、少しの会話を交わすことさえ躊躇していたのに、そんなことも今は忘れていた。
ぱきん、とつま先あたりから音がして、それに気付いて友雅は腕を緩めた。
おぼつかない足元が、散らばっている桜の枝先を踏みつけていたようだ。
「ああ、可哀想なことをしてしまったな…」
友雅は腰を屈めて、落ちている桜の枝を拾い集めた。
すぐにあかねも枝と花びらをかき集め、友雅が拾った分を受け取った。
「すまなかったね」
「…………え?」
一瞬、通りすがるように耳元をすり抜けて行った彼の言葉に、あかねは気付いて顔を上げたが、友雅は既に立ち上がって手を差し伸べている。
「さあ、早く広間に行こう。せっかく祥穂殿が用意してもらったのに、冷めてしまっては申し訳ないからね。」
あかねが唖然としていることも気にせず、彼女を引き上げて背中を押した。
"すまない"って…どういう意味で言ったんだろう。
踏みつけてしまった桜の枝のことだろうか。
それとも……別の意味?
あの腕のぬくもりの中に、彼は何かを伝えようとしていたんだろうか…。
言葉を交わさなかった時間の中、抱きしめるその腕の力に、何の意味が込められていたんだろう。
もしかしたらそれを、彼は気付いて欲しかったんじゃないだろうか。
受け止めたくて、あかねはじっと流れに任せていた。
何かを感じ取れるかもしれないと……でも、何も分からなかった。
今夜、彼は何か話してくれると思う。
だけどその前に…先に気付いてあげられたら、不安定に揺らめく心を、もっと早く落ち着かせることだって出来るのに。
いっそここで、直接尋ねられたら良いのに。
…でも、その機会はもうすぐやって来るのだから…今聞かなくても、と逃げ腰の考えに辿り着く。
何一つ問い掛けられないまま、あかねは友雅に肩を抱かれて広間へと向かった。
|