白雲の果て、春の雪

 第14話(1)
静かに部屋の戸を閉めたあと、廊下に出てあかねは大きく深呼吸をした。
宿直から戻った朝だから、普通なら今の時間はまだ熟睡している頃。
今朝もそうだと思って、それなら顔を合わせることも、言葉を交わす事もないだろうと思っていたのに。
……本当に、気配で気付いたんだろうか。
もしかしたら、既に目覚めていたんではないか…。
それならどうして、すぐに声をかけてくれなかったんだろう?
……いろいろな雑念が頭の中を渦巻いて行く。
そして、不思議な鼓動の乱れがまだ治まらない。

「ふあ〜っ…おっ、おはよー」
渡殿を中間まで過ぎた頃、向こうから天真がやって来た。
まだ眠そうにあくびをしながら、あかねがこちらに渡ってくるのを、その場に立ち止まって待っている。
「おはよう天真くん。まだ眠そうだね」
「んー。ちっとまあ夜更かしっつーか、早起きし過ぎたっつーか…。二度寝しなきゃ良かったかもなあ。」
頭を掻きながら、眠気の抜け切れない彼と共に、あかねは母屋への廊下を歩いた。

「早起きして、何してたの?また、庭の中をジョギング?」
笑いながら、あかねは尋ねた。
身体がなまるからと言って、最近天真は庭の中か屋敷の周りを、朝早く散歩がてらジョギングしている。
現在京は安定していると言うことで、鴨川辺りまで先日は出掛けて来たみたいだ。
「ジョギングならなあ…身体動かすから、かえって頭も冴えるんだけどさあ。」
「違うの?」
「……あいつが宿直から帰ってくるの、待ってた。」

ふと、足音がひとつになった事に天真が気付いた。
立ち止まって振り返ると、少し後ろであかねが立ち尽くしている。
「天真くん、あの…友雅さんに話…したの?」
どこか不安そうな戸惑いの表情で、彼女は声をかすかに震わせる。
「あとは、おまえら次第。別に、普通にいつも通りに話をしてりゃ良いんだよ。」
そう言って天真は再び、何事もない様子で歩き出す。
置いて行かれないように、あかねはその後を足早に着いて行く。
何とか追いついて、天真の腕を掴んで引き止めた。
「と、友雅さん…何て言ってたの?何か言ってた?」
「それは、おまえが聞け。多分あいつも、自分で話したいと思ってるだろうしさ。俺らには聞くな。」
突き放すように天真は言ったが、それは決して悪意があっての事じゃない。
むしろ、自分たちの事を思っているからこそ、他人が関わらないように距離を置くつもりでのことだ。

「さーて、飯食ったら、今度こそジョギングでもしてくっかなー。」
大きく全身を伸ばして、朝の空気を吸いながら彼は母屋へ向かった。

+++++

広間には、朝食が既に用意されていた。
普通の高坏が今朝は三つ。一回り小さな二つの高坏は子ども達用。

「あのさあ、あかね。おまえんとこのチビたちさあ…山とか川とかに行って、遊んだりとかしねえの?」」
朝餉の途中で、煮野菜を食べていた天真が急に切り出した。
「え?そんなことないよ。文紀は…宇敦と川釣りとか行ったりしてるし。」
「ま、男だしな。でも、こっちのお姫さんはどうなんだ?やっぱこの格好じゃ、町中とか歩いたりはしないのか?」
幾重の袿を身に纏い、雛人形のような出で立ちが日常着。
友雅譲りの波打つ髪を長く伸ばして、つまづきもせず器用にすたすたと歩く。
「あまり…出掛けたりはしないけども…全然ってわけじゃないわよ。」
土御門家にいた頃、藤姫もこんな風に毎日十二単をきちんと身に付けていた。
せいぜい出掛けるとしても、庭に降りてみるくらい。外出するなんてことは、殆どなかった。
けれど、千歳は彼女自身の性格もあり、家に閉じこもっているばかりは好まない。
外出用に仕立ててもらった小袖も数着持っているし、あかねの手伝いをする時はお揃いの小袖を家の中でも身に着ける。

「水干も父様に作って頂いたから、野山も歩けますわよっ」
千歳が、自慢げにそう言った。
「へえー…水干って、まるで昔のあかねちゃんみたいだね。」
詩紋が懐かしそうに言う。
女の子に着せるのも変かと思ったが、遊び着として使うだけなら良いんじゃないかと友雅が言ったので、誂えてやった。
それにあかね自身、身軽に動けたという実体験があるし。

「じゃあさ、今日一日こいつらのお守り、俺らにさせてくれよ?」
「えっ?何するつもりなの?!」
あかねも驚いたが、千歳たちも天真の話に驚いている。
「男でも女でも、今のうちに体力作りしないとな。俺らが着いていくから、桂川辺りなら構わねえだろ?」
「桂川なら…僕、何度も釣りに行っているから、道は良く分かります。」
文紀がそう答えると、隣の千歳が身を乗り出して来る。
「お魚が捕れるの?水遊びも出来る?」
「浅瀬の川辺なら…大丈夫だと思うけど」
「私、行ってみたいですわ!」

…うん、まあ、浅瀬で水の流れな緩やかなところなら、良いかな…。
天真くんたちも着いていてくれるし、千歳も川遊びは初めてってわけでもないし。
「それに、詩紋がいるから、いくらチビ姫がお転婆やらかしても、何とか大人しくさせられるぜ?」
「わっ、私っ、ちゃんとおとなしくしていられますものっ!!」
くしゃくしゃっと天真に頭を撫でられて、千歳は少しむっとして彼を睨む。
それに見て、あかねは吹き出しそうになった。

「良いわよ。じゃあ一緒にいってらっしゃい。どうせだから、お弁当も持って行くと良いんじゃない?」
久しぶりに外で遊ぶのが嬉しいのか、千歳は少し興奮ぎみだ。
「俺らが帰ってくるまで、おまえらはおまえらで過ごしな。」
そう天真が言うと、詩紋も黙って静かに微笑む。

もしかして二人とも、それでわざと千歳たちを連れ出すとか言ったの…?。
友雅とあかねが、二人だけで話せる時間を作ろうと考えて。
彼は、今夜ゆっくり話そうと言っていたけれど…起きて来たら、二人きりになったら何か話さないといけないわけで…。

…何を話したら良いんだろう。
今になって、そんなことで悩んで鼓動が乱れる。
まるでこれは……彼への気持ちに気付いた時みたいな気持ちだ。
ドキドキして、ハラハラして、落ち着かなくて…それでいてとても澄んだ気持ち。
どこか懐かしい、そんな気持ちを抱いて、一日が始まる。

+++++

ようやく身体が軽くなって、すっきりと起き上がれるようになったのは、おそらく昼近い頃。
外の様子は春爛漫そのもので、暖かな日差しが桜と木蓮の花弁に降り注いでいる。心地良い春の日だ。
友雅は立ち上がると、格子戸と几帳を上げて釣殿に出た。
息を吸い込むと、何となく甘い香りがする。
花と緑のせいだろう。身体が浄化されていくような気がする。

たかだか宿直程度のことで、こんなに疲れが身体に残る事は無い。
おそらくそれは、帰宅後に天真たちと話した時間のせいだ。
まだ朝早いというのに、随分と重い話をしてしまった。
だが、そのお陰で…今の気分は悪くない。
押しつぶされそうな重荷が、消えてなくなったみたいに、心が軽い。

今夜、ゆっくり彼女と時間を掛けて話をしよう。
これまで自分が、どんな迷いを持っていたかを打ち明けてしまおう。
もうこれ以上、背負っていても仕方の無いことだ。思えば思うほど、胸の中は霧で視界が閉ざされるだけ。
自分が足を踏み出し、心を曝け出すしか解決方法は無い。

そして、そうしなければ………今よりもっと深く、彼女を愛することは出来ないのだから。


***********

Megumi,Ka

suga