白雲の果て、春の雪

 第13話(3)
腕のあたりをぐいぐいと押す力を感じて、あかねはぼんやりと眠りの中から意識を起こした。
「んもう…何なんですか…?やめて下さいよ…友雅さん…」
目をこすりながら寝返りを打ち、少し目を開ける。
「父様がどうかなさったの?母様?」
突然子ども達の声が至近距離で聞こえ、ぱっと両目を開くと、千歳と文紀が覗き込んでいた。
「ふ、二人ともどうしたのっ!?」
「…?私も分かりませんわ?」
「起きたら、母上が横でお休みになってて…びっくりしちゃいました。」
そうだ…確か夕べは友雅が宿直で、一人で寝るのも心細いなあと思っていたら、天真たちに子供の部屋で添い寝すれば?と言われてここに来たんだった。
「ねえ母様?父様が何か粗相をなさったの?"やめて”って言われていましたわ。」
「え?あ、別にそうじゃないわよっ。ちょっと寝ぼけていただけよ。ごめんね。」
本当に寝ぼけていて、友雅が悪戯でもしているのかと思ったのだ。
でも…今朝は有り得ない。

もう朝になったのか。
友雅は、宿直から既に帰っているだろう。疲れて寝所で寝ているだろうか。
「あらら、どうしたの…」
急に千歳が、ぱふんとあかねの胸に抱きついて来た。
「だって、母様と一緒にお休みになるなんて、なかなかないのですもの。」
ニコニコして満足そうに、千歳は母の胸に甘えてくる。
そういえば子どもたちと一緒に寝るなんて、これまで滅多になかったな…とあかねは思った。
彼らが赤子であった時も、夜だけは乳母と侍女たちに世話を頼っていたから、夜中に乳を強請られることもなかったし。
日中、昼寝をする彼らに添い寝する程度だったかもしれない。
「父様が宿直でお帰りにならない時くらいは、母様と一緒に休みたいですわっ」
顔をすり寄せながら、小さな手はあかねにしがみつく。
父である友雅の面影を持つこの子は、確かに自分の娘だ。
そして、控えめにしつつも肩にそっと寄り掛かる文紀も、自分の身体に宿した命。
何一つ迷うことなく、戸惑いもせず、二人は母である自分に素直に甘えてくる。
彼らを抱きしめるとき、そのぬくもりを感じるとき、あかねは幸せだと何度も実感した。
それも、この二人の命の半分を補ってくれた、彼がそばにいてくれたからだ。

「そうねぇ。母様も一人で眠るのは寂しいし。…それじゃあ、これからはそうしましょう」
「ホント?じゃあ私は、母様のお床の中で眠りたいですわっ」
ぎゅう、と飛びつく千歳の勢いに、思わず押し倒されそうになるけれど、その朗らかな表情が愛しく思える。
「でも、それでは母様は、文紀と一緒に寝られないわよ。母様が真ん中に寝るから、二人とも右と左に分かれて寝なさい。」
「そうすれば、兄様も千歳も、母様とお手を繋いで寝られますわね!」
これは名案なのだと千歳ははしゃぎ、文紀は控えめに嬉しそうに笑う。
両手を繋がれて…なんて、ちょっと疲れそうな気もするけれど、これだけ喜ばれたら仕方が無いわよね。
二人の我が子たちを眺めながら、あかねは暖かな胸をそっとなで下ろした。


小袖に着替え、長く伸びた髪をきゅっとまとめて厨房へ行くと、既に祥穂たちが食事の支度を始めていた。
「お目覚めでございますか、奥方様」
「はい…。今朝はちょっと遅くなっちゃって、すいません」
「いいえ、構いませんわ。今日は殿もお休みでございますから、朝餉も少しゆっくりでも宜しいでしょう。」
コトコトと羹が煮える湯気は、甘い野菜の香りも立ち上らせている。
吹きこぼれている米の鍋。小鉢に盛られている煮物や香もの。
いつもの献立が用意されていた。

「殿の朝餉のお支度は、どうされるかお聞きになられました?」
「え?」
ぼんやりと友雅用の器を眺めていたあかねは、祥穂の声にはっとして顔を上げた。
「朝餉には起きて来られると、おっしゃっておりました?」
「あ…えっと、実は今朝はまだ会ってないんです…」
祥穂はその言葉に驚いて、煮物を盛りつけていた手を止めた。
「ご一緒にお休みにならなかったのですか?」
「あの、一人じゃ寂しいなあと思って、子供たちのところで一緒に寝ていたんです。だから、いつ帰って来たかも分からなくて…」
珍しいこともあるものだな、と祥穂は思った。
夫婦になった時から、夜は片時も離れずに眠るのだ当然と言える二人が、今日は別々の場所で休んでいたとは。
夜警から彼が戻るまでは、あかねはずっと帰りを寝ずに待っている。
宿直で朝帰りの時も、眠っているあかねの隣に寄り添って友雅は遅い就寝をする。
子どもたちを起こすのも忍びないから、仕方なく彼は一人で眠りに着いたのだろうが…急にあかねはどうしてそんなことを思ったんだろう。

「奥方様、殿と何か…ございましたか?」
どきん、と心音が大きく乱れた。
小鉢を持つ手が、かすかに震えたことに祥穂は気付いただろうか?
「う、ううん…別に何も?」
「そうでございますか。それならよろしいのですが。」
聡明な祥穂であるから、もしかしたら気付いたかもしれない。
でも、何と説明しよう?
別に喧嘩したわけでも、何か事件が起こったわけじゃないのに。
ただ……お互いの心が少しだけズレてしまっただけ。
その修復方法は、決して難しいわけでもないのだけれど。

「おはようございます!」
厨房に顔を出したのは、清々しく目覚めた詩紋だった。
「朝ご飯の支度ですよね。僕、お手伝いします。」
「まあ、いつも有り難うございます、詩紋殿。」
ここに来て数日しか経たないのに、すっかり彼は家の者と打ち解けて、厨房の手伝いを賄うことも当然のようになっていた。
てきぱきと鍋を持ち、羹をきちんと碗に注ぎ入れる。
結構重いものなのに、それを軽く持ち上げてしまうのだから、やはり男の子なんだな…とあかねは感心した。
綿菓子のような柔らかい髪も、澄み切った綺麗な瞳も、素直で穏やかな性格もあの頃のままだが、今の彼は、夢を実現する力を持つ青年なのだ。

「ねえ、僕がこっち手伝ってるから、あかねちゃんは友雅さんに、朝ご飯どうするか聞いて来てくれないかな?」
詩紋はそう言うと、にこっとあどけない笑顔を向ける。
「冷めちゃったら美味しくないし。もし、あとから食べるなら、その時に暖めるようにしておけば良いでしょ?だから、聞いて来て。」
「…うん、分かった。」

夕べ、詩紋たちと話したことが思い出された。
天真は、友雅に説明しておいてやる、と言ったけれど…本当に話したんだろうか?
だけど……それを知ったなら知ったで、また少し気持ちが乱れる。
どんな顔して会えば良いんだろう…と思いながら、あかねは西にある寝所へと向かった。



そっと戸を開けると、明るい日差しが障子のすき間から差し込んでいた。
南側の小窓が半分開いていて、その向こうに桜の木が見える。
…こうして見ると普通の桜だけど、まさかこれが一年中咲き続けてるなんて、誰も思わないだろうなあ。
あかねが初めてこの屋敷に植えた桜は、そんな不思議な花木である。
夜桜を見ながら眠れると思って植えたけど、夏でも冬でも見られるんだもんね…何だか贅沢な感じ。
そんな事を思いながら、眠っている友雅の横を通り過ぎて、静かに小窓を閉めようとした。

「……開けておいてくれないか?」
まどろむような声に驚いて、あかねの手はその場で止まる。
「お、起きてたんですかっ?」
「…足音と気配で…今、気付いたんだよ」
「ごめんなさい。起こさないように静かに歩いたつもりだったんですけど……」
「いいよ。まだ少し眠いから………すぐに目を閉じれば、眠れる。」
友雅はそう言って目を閉じると、気怠そうに腕を組み直して顔を伏せた。

朝ご飯は、あとで用意してあげた方が良いかもね…。
尋ねるつもりでやって来たが、疲れが残っていそうな彼を中途半端に起こしても悪いし、目覚めたら暖めてあげられるようにしておこう。
あかねはそう決めて、部屋を出ようとした。

「……あかね」
名前を呼ばれて、彼女は振り向いた。
「今夜…ゆっくり話をしたいんだ。千歳たちを寝かせたら…出来るだけ早く、ここにおいで。」
顔を上げることもなく、身体を起こすこともなく、友雅は横たわって目を閉じたまま、そう告げた。
「………はい。」
あかねが返事をしたあと、彼はもう何も言わなかった。

すぐにまた、寝息が聞こえて来た。
開け放った窓から、はらはらと舞い踊る桜の姿が見える。
舞い散りながらも絶えずに咲き続ける花は、眠る彼を見守るようにそこにある。




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Megumi,Ka

suga