白雲の果て、春の雪

 第13話(1)
「朝まで仕事なんて、大変だなあ。」
まだ朝も明け切らないのに、天真はやけに清々しくそう言った。
「でも、役職が昔よりも上になったんだもんな。それだけ、しがらみも増えるってことか。」
「まあ…ね。融通の利かないことも色々だが、仕方がないさ。もう慣れたよ。」
友雅は平常心を装いながら、出来るだけ簡潔に返事を戻す。
だが、天真はどことなく気が付いていた。
寝所で眠っているはずのあかねが、そこにいなかったという目の前の現実に、彼の心が不安という霧で覆われてしまったことに。

「あかねは、チビどもの部屋で寝てるぜ?」
天真がそう言うと、友雅は顔を上げた。
「あいつ、一人で寝るのが寂しいらしくてさあ。それなら子どもらと一緒に寝れば?って言ったら、そうするってさ。」
笑いながら天真が打ち明けてくれた内容に、ほんの少しだけ友雅はホッとした。
……そうか。千歳たちと一緒なのか。
確かに一人で眠らせるよりも、子どもたちと眠った方が安らぐかもしれない。

だが、宿直で帰らない夜は初めてじゃないのに、今になってどうしてあかねは、"寂しい"なんて言ったんだろう?。
一人屋敷に彼女を残して、参内せねばならない自分の方が、ずっと寂しい夜を過ごしているはずなのに。


東の対へ向かい、そっと子どもたちの部屋の戸を開けた。
聞こえて来る、寝息が三つ。
袿の中で丸まっている文紀と、寝返りを打ってうつぶせで寝ている千歳。
そしてそんな二人の隣に、寄り添うようにあかねは横たわる。
「安心したか?」
友雅は答えなかったが、その姿を見たことで心が穏やかになったのは確かだった。
確かにあかねは、ここにいる。
自分が愛した女性は、月の光に連れ去られずに、ここで安らかに眠っている。

「心配すんな。あかねは月には帰らねえよ」
黙ったまま、友雅は振り向いた。
天真のその言葉が、心の奥底を波紋のように揺らした。
「あいつはずっとここにいるつもりだし、俺らも、別にあいつを連れて帰ろうなんて、全然思ってねえしさ。」
「天真」
友雅とは正反対に、陰りも無い明るい顔をした天真へ問い掛けようとした時、背後からもう一人の気配が近付いていた。
「お仕事お疲れさまです、友雅さん。」
詩紋が蜜入り生姜水の碗を乗せた盆を手に、彼らの前へとやって来た。
眠る前に、あかねに言われたのだ。
『お勤めから帰ったら、友雅さんに飲ませてあげてね』と。
例え春先になっても、夜の仕事を終えたら身体が冷えているだろうから、と彼女は言った。
出来るだけ甘みをひかえてはいるのに、何だかとても甘い香りに思えるのは…友雅を想うあかねの気持ちだろうか。

「まだ、あいつらを起こす時間じゃねえだろ。それまで、地の八葉同士で話でもしようぜ?」
宿直の次の日だから、今日は友雅も休日なのだと聞いているし。
それに、まだ落ち着いて眠れる気持ちでもないはずだ。
「あの…友雅さんに、ちょっと大切なお話があるんです」
かしこまって詩紋が言う。
「大切な話、ねえ…」
整わない呼吸と乱れる鼓動。また少しずつ、気持ちが揺れ始める。
聞いても良い話なのだろうか。
それは……やっと持ち直してきた心を、再び惑わすものではないのだろうか。

…しかし、無視できるものではない。
それがどんな内容であっても、彼等の前で耳を逸らすことは出来ない。
「構わないよ。じゃあ、広間の方に行こうか。」
「いや、俺らの部屋で話そうぜ。あそこは何かと人の出入りがあるしさ。」
他人には聞かせたくない、あくまで三人だけの話…という意味か。
「良いよ。では、行こうか。」
庭に広がる桜の雪が、朝のひんやりした風にふわりと舞った。

+++++

静かな朝だ。
人の気配もなく、牛乳配達の車や新聞配達のバイク・自転車の音もない。
聞こえるのは、いち早く目覚めた小鳥たちのさえずりくらい。
ゆったりとしたこんな時間も、悪くないなと天真たちは思う。

「おまえんとこの庭の桜ってさ、意外と花が咲いている時期が長くねえか?」
庭を彩る満開の桜を眺め、天真がそう切り出した。
やって来た時は満開で、毎日地面が桜色に染まるほど花びらが飛び交うのに、未だに柔らかな花弁はこんもりと木を包むように彩る。
「そうかもしれないね。普通は開花して一週間もすれば散るけれど…ここはそうでもない。半月くらいは楽しめるかな」
「へえ…そんなに長く咲いてくれるなんて、何だか良いですね。」
満開になったと聞けば、一斉に慌ただしく花見に出掛けて行く春。すぐに散ってしまうから…と、焦るようにして。
本当はこんな風に、ゆっくりと眺められれば、桜の美しさも十分に楽しめるのに、と詩紋は思った。

「そういえば、二人にはまだ教えていなかったね。実は、うちには変わった桜が一本あるんだよ。」
変わった桜?
天真たちは庭を見渡してみたが、特に何の変哲もなさそうな気がする。
どこもかしこも、美しく咲き乱れて。
「それほど大きな桜じゃないんだ。ここからは…見えないかな。でも、見えても今の季節では、どう変わっているかは分からないだろうけれど。」
友雅は立ち上がると、簀子から西側の対…つまり、自分たちの寝所がある方向を指差した。
「寝所の近くにね、木蓮がある。その後ろに桜があるんだけれど…その桜は、一度も枯れたことが無いんだ。」
「えっ!?」
さすがに驚いたのか、二人も即座に立ち上がって目を凝らした。
だが、ここからは木蓮の花が隠してしまって、その姿は見ることが出来ない。
「枯れたことがない…って、秋とか冬になったら枯れるじゃないですか、普通」
「だから、変わっているんだよ。大きい花は咲かせないけれど…一年中あの桜だけは、花を絶やさない。不思議なものだよ。」
高さは友雅の目線くらい。枝も細いし、まだまだ若い木だ。
それでも散れば、またすぐに新しい花が咲く。
そうして春夏秋冬、あの木だけは春の景色のまま生き続けている。
「そんな桜があるんですね…」
空色の瞳を丸くして、詩紋が驚きを隠せない表情で感嘆の声を上げる。
「いや、多分他にはないだろうね。おそらく、うちの桜くらいじゃないかな、こんな不思議なものは。」
理由は分からないけれど、美しい姿をいつでも眺めていられるのは、悪い気分ではないと友雅は笑った。

「でもさ、この庭も昔は殺風景だったけど…変わったよな。あかねが色々選んで来て植えたんだろ?」
名前通りに、初夏に咲く橘の花のみしか彩りの無かった屋敷は、今はもう立派な花園と言えるほどに華やかで。
数本しかない割に、満開の桜は春の季節に存在感を示す。
更に紫や白の木蓮も加わり、大和絵にも似た世界が目に映る。

「あかねと暮らし始めた頃かな…一緒に市とかに出掛けたりしててね。そこで良い苗木や花を見つけては、庭に植えたいと強請られたものだから。」
元々広いだけの庭は、目立つような花木は橘以外存在しておらず、植える場所はいくらでもあった。
これまでは気にしてはいなかったけれど、これからは二人で暮らす為の屋敷だ。
彼女が過ごしやすいように、その目に映る景色を楽しませてやりたいと思い、多くの苗木を選んでは持ち帰って植えた結果が、この庭だ。
「そんじゃ、その…万年満開桜も、あいつが選んだヤツなのか?」
「ああ、そうだよ。あれは…初めてあかねが選んで買った桜だったかな。」
持って帰るのも大変だからと、抱えられる程度の大きさを選んだ。
だが、花見をするには心細いかと思い、その後は結局大きめの苗木を頼んで、屋敷まで運んでもらうことになった。
「その桜だけが、こうして一年中花を咲かせているなんてね。おかしなこともあるものだよ。」
遠い昔…とはいえど、まだほんの数年前のこと。
あの頃を思い出しながら、友雅は懐かし気に笑った。

「でも…、別にそれって、おかしいことじゃないんじゃないかなぁ…」
詩紋が静かに、独り言のようにぽつりと言った。



***********

Megumi,Ka

suga