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白雲の果て、春の雪
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| 第11話(3) |
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「あっ!父様!さっき、母様とご挨拶なさいました!?」
ぱっと急に起き上がった千歳が、友雅に顔を近づけた。
「いつもお出掛けとお帰りの時に、ご挨拶なさるのに。今、母屋に入られてから母様と初めてお会いになったのだから、ご挨拶はまだ済んでないのでしょう?」
"ご挨拶"という普通の単語を使ってはいるが、実のところは結構ませたことを言っている千歳である。
まあ、本人はそれほど、深刻には思っていないだろうけれど。
「どうぞご挨拶に行ってらして。いつものことが途切れると、何だか気持ちが悪くなりますでしょう?」
「…はいはい。まったく千歳は、物分かりの良い姫君だ。父様は嬉しいよ。」
友雅が頭を撫でると千歳はにこっと微笑んで、その場から立ち去ろうとした彼の後ろ姿に手を振った。
「夕餉の支度をしているのかい?」
背後で友雅の声がして、はっとしてあかねは振り返った。
「あ、そう…です。昨日、天真くんたちがいろいろ買い物してくれたから、その御礼にちょっと品数を増やそうかなあって…」
「それは良いね。ああ見えて詩紋も食が太いみたいだから、きっと喜ぶだろうね」
竃に掛けられた鍋の中では、野菜の羮がコトコトと煮えている。
台盤には小皿に焼き魚が並べられ、小芋や豆の煮物も小鉢に並んでいる。
「ああ、これを千歳が手伝ったんだね。聞いたよ。」
友雅が指さしたのは、昼間に仕込んで置いた雉鳥飯だ。
「これを詩紋が食べるのを見るのが、今から楽しみだね」
「ふふっ…そうですね」
果たして、千歳のそんな淡い気持ちを、詩紋が気付いてくれるかどうか。
こっそり教えてあげた方がいいかな?と言う気もするし、自然に気付いてくれたらきっと嬉しいだろうし。
母としてはどちらが良いのか、少し楽しみを抱えつつ頭を悩ませるところだ。
「それじゃあ、もう残りは羮だけだね」
「うん、そう…です。けど、まだ天真くんたちが帰っていないから、帰ったらもう一度暖めるつもりなので…」
今にも消えそうな薪の火が、竃の下で赤く点滅している。
友雅はあかねの肩に手を掛けると、もう片方の手を腰へと回した。
「千歳に嗾けられてね。いつもの"ご挨拶"を済ませて来るように、って」
あ、唇が近付く…と思ったのもつかの間で、一瞬のうちに目の前が塞がり、呼吸もまた塞がれた。
いつもしていること。離れない唇は、お互いを求めている。
それなのに、どうして今日はこんなに胸が熱いんだろう。
だけど、それと同時にどこか切なくて苦しくて……でも、やっぱり熱くて。
抱きしめる彼の腕の力と、その胸から香る侍従に心を揺らされ、いろいろなことが思い出されていく。
昼間、泰明が来て話してくれたこと。
どうして急に、友雅が月を避けるようになったのか……その理由。
私はかぐや姫なんかじゃない。月から来た姫君なんかじゃない。
確かに……私の生まれた世界は、京から見れば月みたいに手の届かない世界かもしれないけれど。
でも、私が生きるのは…ここ。
子どもたちがいて、そして彼がいるこの世界。
この場所の他に、生きる場所はない。
絶対に離れない。誰かが離そうとしたって、絶対にここにいる。
ここにいることが、私の幸せであると信じてるから。
例え月から使者が来ようと、彼らの言いなりになんかならない。
私はここにいる。ずっと彼のそばにいると誓った。
そして今も、心は何一つ変わらない。
だけど、その想いを彼に分かってもらうには、どうすればいいのか…その術が見つからない。
「……どうしたんだい?」
両手を伸ばして、友雅にぎゅっとしがみついたあかねに、彼は声を掛けたが何も言わなかった。
ただその胸に顔を押し当てて、身体は少し小さくこわばらせているようにも思えて、彼は出来るだけ優しい力であかねを抱きしめた。
「何かあったのかい?」
…あなたが、月を恐れているから…。月から私を遠ざけようとしているから…。
そんな必要はないんだって、どうやったら分かってくれる?
切なくて、胸が痛い。
あなたが胸を痛めているから、私も胸の奥が痛くて仕方が無い。
けれど……あなたが私を手放したくないと思っていることが…そんな痛みの中に甘い香りを生み出して行くの。
「あかね?」
私の名前を呼ぶ声がする。でも、それに答えられない。
あなたと同じように、私もあなたを手放したくない…離れたくない。
-------私も同じ気持ちでいるの。
「も、申し訳ありませんっ…失礼致しましたっ」
二人が抱き合っているところへ、新参の侍女が謝って顔を出してしまい、慌ててその場から立ち去ろうとした。
「ああ、待ちなさい。構わないよ。私たちこそ、厨房を占拠して君たちの仕事の邪魔をしてしまったのだから。」
いくら夕餉の支度はほぼ済んだとはいえ、主人がこんなところに出入りするのは、あまり芳しくないことだ。
厨房は侍女たちの、そしてあかねの仕事場。邪魔をしたのは、こちらの方だ。
「じゃあ、私は退散するよ。」
あかねから手を離して、友雅は厨房から出て行くと、外で頬を染めたまま待機していた侍女が声をかけてきた。
「あ、あの…今夜は宿直の日だとお伺いしておりましたが…」
「そうだよ。内裏から帰ったばかりだと言うのに、宵が更けたらまた向かわねばならない。朝から晩まで慌ただしい日だ。」
友雅の話を聞いて、あかねは彼のスケジュールを思い出した。週に二回の宿直の当番が今夜だったのだ。
「それでは、何かご用意してお持ちになりますか」
宿直は朝まで掛かるので、夜中になると皆何かしらつまみたくなる。
大将となった今では、宮中を警備して歩くことは殆どなく、内裏内の宿直所で大臣たちと朝まで待機しているだけ。
もちろん、有事の際にはいち早く、帝の警護に当たれるようにという意味でなのだが…今の平穏な京では、ただの集会みたいなものだ。
簡単につまめるものは用意されているが、それぞれに自ら持ち寄るものもある。
酒だけは御法度だが。
「そうだねえ…ああ、そうだ。あかね、さっき千歳が天真たちに頓食を作ったと言っていたんだが、余分があれば私の分も用意してもらえないかな」
「え?余裕は、まだありますけど…」
「それと、昨日の淡雪とか言うものも、残っていれば少し包んでくれると有り難いんだが。」
昼間に焚いた雉鳥の飯は、まだ十分余裕がある。
だけど、淡雪なんて甘いものを、友雅がすすんで希望するなんて珍しい…とあかねが思っていると、友雅が耳元でこっそりと伝えた。
「我が家の奥方様の手料理を、ちょっと皆に自慢してみようかと思ってね。うちの料理は物珍しいものが多いと、結構噂になっているらしいんだよ」
「えっ?う、噂って…どんな噂なんですか!?」
まさか、見たことも無いゲテモノを食べる家庭だとか、思われているんじゃ…。
この京では日常的ではないものを、多く取り入れているけれども、それはちゃんと食材の栄養を理解してるからなのに。
「悪い噂じゃないよ。珍しい食材を、奥方自から上手く調理されているのだと、評判になっているらしいよ?」
「ええ本当に奥方様は、お食事の支度がお上手で。初めて口にするものも多いですが、どれも大変美味しゅうございます。」
あかねは友雅と侍女の顔を、交互に見ながらも半信半疑という感じだ。
「とにかく、用意を頼むよ。我が家の撫子姫が手伝ったことも、自慢してみたいんでね」
「何だ、そういう事ですか。ホントにもう…あの子たちのことになると、親バカになっちゃうんだから…」
くすっと笑いながら、あかねは少し困ったように言った。
「父様?あのね、兄様がお呼びなの。ちょっと良いかしら?」
厨房の戸の陰から、千歳がひょいと顔を出した。
「兄様が、笛を見て頂きたいそうなの。今日のお題目を、もう一度練習したいのですって。」
「文紀は練習熱心だねえ…。私の子とは思えないくらいだな。」
そう言いながらもまんざらではない様子で、友雅は千歳を抱き上げた。
「じゃあ千歳の琵琶も見てあげよう。」 「本当?私、新しい曲を始めたのよ。父様、聞いて下さる?」
「ああ、勿論。出掛けるまで、ゆっくり見てあげるよ。」
友雅に抱えられながら、嬉しそうに千歳は話しかけてはニコニコしている。
「殿もお子様方も、ご一緒に過ごされている時は、本当に幸せそうですわね。」
はしゃぎながら去っていく二人を、眺めていた侍女が、ふとそう漏らした。
千歳も文紀も、彼と一緒にいるときは嬉しそうで。そんな彼らをあやす友雅も楽しそうで、それを見ているあかねもまた嬉しくなる。
本当に…なんて幸せなんだろう、と感じる瞬間だ。
ずっとこんな幸せに浸っていたいと思いながら、毎日が流れていった。
今も、そしてこれからも。
永遠にこうしていたいと、心から願うから………ここにいるんだ。
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