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白雲の果て、春の雪
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| 第10話(3) |
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「友雅殿のお心は、痛いほどよく分かりますわ。ですが、それも…確実なことではございませんでしょう?」
葡萄色の袿の袖から、檜扇を握る藤姫の指先が見える。
彼女が入内するときに、あかねと二人で選んで贈ったもので、彼女はどんな時でもそれを手放さない。
まるで、あかねから離れたくないと言う、彼女の心を表しているように思える。
「神子様にとっても、友雅殿とお二人の御子様は、何よりも大切な存在でいらっしゃいます。友雅殿が神子様を想われるお気持ちと、大差ありませんでしょう…」
「それくらいはね、私も自負はあるけれど」
「でしたら尚更、それほど大切な方々に、背を向けることなどありませんわ…」
"神子様は、そのような御方ではありませんもの"
断言するように、藤姫はそう言い切った。
大切な人を護るためだけに、その身を龍神に捧げることを選んだ。
迷うことなく、その人のために、龍神を呼ぶことを厭わなかった、そんな女性。
「私は、神子様を信じておりますわ」
「酷いな。それは、私のことは信用出来ない、と言っているのかな…藤姫殿?」
「友雅、藤姫殿は、そういう意味で言っているのではないよ」
横から帝が、言葉を滑り込ませた。
「そなたが心を痛める必要はない、と言っているのだよ。」
彼女は、友雅のそばから離れない……絶対に。
永遠に彼の隣で、彼とともに子供たちを愛しながら、生きて行くのだろう、と信じている。
「ねえ友雅、あなた…そういう奥方様だからこそ、生涯連れ添う一人として選ばれたのでしょ?」
それまで口を挟まなかった中宮が、友雅の方を真っ直ぐに見た。
「あれだけ多くの方と浮き名を流して、その中には、地位と名誉もあるお家の姫君もいらしたでしょうに。それなのに、誰の所にも留まらないで、終始ふらふらとしてばかりで。そんなあなたが、何故奥方様を選ばれたの?しかも、側室の誘いまできっぱり断って。」
下手なごまかしなど使わずに、遠慮もなく中宮は友雅に言い放つ。
時折、帝と藤姫が苦笑いをしていることもおかまい無しだ。
藤姫とは違った意味で、堂々としていて気後れしない。
友雅に対しても、思ったことをそのまま口にする。
「そこまであなたが愛した方でしょ?その奥方様を、あなたが信用しないでどうするのよ。この人だから、って信じられた人だから選んだんでしょ?」
「…ふう…ここまで中宮様が、手厳しい御方だとは思いませんでした。」
「だって、そういうあなたって、あなたらしくないんですもの。いつもは散々、奥方様と御子様のことで惚気るくせに。」
彼女に言われて、自分はそんな風に見られていたのか…と笑いが込み上げて来た。
惚気ている…とは。普通に聞かれたことを話していただけだが、周りにはそう思われていたらしい。
「みんなの憧れなのよ、あなたの家庭は。それなのに、湿っぽすぎますわ。もっといつものように自慢なさいよ。」
畳み掛けるように中宮が言うと、更に友雅は笑いが堪えられなくなった。
まったく本当に…彼女と共に生きることを選んでから、考えられないことが次々に起こる。
単なる一過性の感情かと思えば、その人のことが、頭から離れられなくなって……気付くと、こんなにまで彼女を欲しがっていた。
燃え上がるような恋の感情を知って、永遠を求めるようになり、その結果、千歳と文紀がこの世に生まれて。
恋に溺れるなんて、思ってみなかった。
自分が親になるなんてことも、考えたことがなかった。
だが、こうして現実となってみると、それはあまりに自然に受け止められる…不思議なほど。
まるで、こうなることが決められていたみたいに、違和感なく新しい生活環境は当たり前のようにそこにある。
「もしも奥方様が、少しでも心が揺らいでいるなら、それをあなたが覆せば良い事じゃないこと?。何をためらって、後ろめたく思っているの?」
友雅は顔を上げると、すっぱり言い切る中宮を見る。
「愛する気持ちが足りないなら、もっと愛してあげればいいじゃないの。それだけのことじゃありません?。」
「姉上様…」
「これはまあ、中宮の言葉にはぐうの音も出ないな…友雅?」
ストレートかつ、これ以上反論の余地もない言葉を、隣で聞いていた帝が苦笑いしつつ友雅を見る。
「すべて、そなた次第というわけだよ、友雅。」
「思い詰めることなど、必要ありませんわ…」
三人の目が、揃って自分を見ている。
厳しさのない、それは穏やかな眼差しで、まるで傷ついた子供を労るような、そんな目で。
「弱い人間だな…私は。」
ひとりでいることにためらいのなかった日々は、もう遠い昔のことで。
今は、彼女がいなくなることだけが、何よりも恐ろしいと感じて…痛む胸を抑えきれなくて。
あまりにも、今の自分は弱すぎる人間だ。
だけど、それでも……彼女への思いだけは、誰よりも強いと言い切れる。
その強さだけは負けやしない。
それがもし、彼女を引き止める力になるとするならば…………。
「失礼致します。文紀殿をお連れ致しました。」
いつのまにか侍従が、楽所での講習を終えた文紀を連れて、藤壷へやって来た。
清涼殿自体は何度か訪れているが、初めて連れて来られた場所と初対面の中宮の姿に、文紀は少し戸惑いを隠せない様子だった。
だが、藤姫の姿もそこにあり、何より父である友雅がそこにいたことで、必要以上の緊張まではしていない。
「お招きを頂き、有り難うございます。急なことで、このような不相応な身なりで御前に上がる非礼、お詫び申し上げます。」
そう言って、まずは帝に手をついて挨拶をした。
「構わないよ、文紀殿。突然呼びつけてしまった、こちらが悪いのだから。それでも、いつもそなたはしっかりとしている。私どもが、見習いたいくらいだよ。」
「勿体無きお言葉、光栄でございます。」
ぺこり、と頭を下げると、少し姿勢をずらして藤姫を見る。
「文紀様、お久しゅうございますね。こうして御会い出来て嬉しいですわ。」
「藤姫様も、お元気そうで何よりです。」
生まれた時から可愛がってくれた藤姫は、文紀たちにとって叔母のような存在で。
土御門家に行っては、いろいろなことを教えてもらい、遊んでもらった懐かしい人である。
「文紀、そしてこちらが、藤姫殿の姉君様の、藤壷中宮様だよ。きちんとご挨拶をしなさい。」
友雅に言われて、文紀は改めて中宮の顔を見た。
大きな黒い瞳と長い髪。藤姫によく似ていながら、どこか強い華やかさがあって、圧倒されそうな勢いもある。
「は…初めて御前に上がらせて頂きます。左近衛府大将・橘友雅の長子、文紀と申します。」
何とか挨拶を済ませた文紀だったが、いつも初対面の相手への挨拶は、緊張してしまうものだ。
特に、相手が地位が高ければ高いほど、どきどきして平然とした態度を作るのにも苦労する。
かたん、と音がした。
するとそこには、腰を上げた中宮が、文紀を見下ろしている。
何事か…と思った次の瞬間、彼女はぱっと文紀のそばにやって来て、彼の両頬を手のひらで包み込んだ。
「まあっ…!何て凛とした見目麗しい若君様!お噂通りだわ!」
「え…!?」
急に目の前にやって来て、にこやかに微笑む女性が中宮であることも、緊張で頭の中が真っ白の文紀には、よく理解できず困惑している。
「奥方様に、優し気な面影がよく似てらして!。でも、艶やかなところはお父上の友雅譲りね!」
「これこれ…中宮、貴女が急に詰め寄るものだから、文紀殿が驚いて身動きが取れなくなってしまっているよ、可哀想に。」
帝が笑うと、文紀は中宮に引き寄せられたまま、顔を赤くしてうつむいている。
「大人しくて、可愛らしいこと…。ちょっとー!誰か!文紀様に菓子を……」
中宮が声を上げようとしたが、それよりも先に動いていた女房達は、既にその手に水菓子と唐菓子を抱えて立っている。
友雅の子供たちがやって来たと耳にすれば、誰も真っ先にと行動に起こす。
そして機会を見つけては、彼らの顔を覗きにやってくるのだ。
「本当に文紀殿は、生まれたときから、人の目を惹き付ける力を持っているね。」
赤子の頃に初めて昇殿した時も、宮中が大騒ぎになったほどだ。
今や、彼らを一度でも見たことがあること自体が、女房たちのステイタスになっているくらいに。
「それだけ人を惹き付けるというのは、彼らに特別な力があるという事だよ。」
藤姫と中宮に囲まれて、恥ずかしそうにしている文紀を、遠目で眺めながら帝は友雅に言った。
「多分、それは…彼らが十分すぎるほどの愛情の末に、この世に生まれた命だからこそかもしれないよ。」
帝は、軽く友雅の肩を叩いた。
どこまでも純粋な愛情の中で、芽吹いて生まれた二つの命。
だからこそ瑞々しく輝いて、その姿に誰もが見惚れてしまう。
それは、どこかで誰もが求めている、真実のかけら。
それを持っている者は、多くはない。だが、友雅はそれを手にしていて、そしてそれを与えることの出来る人がいる。
「ご心労をおかけ致しまして…申し訳ございません。」
「そう思っているなら、さっき中宮が言ったように、な。そなたの愛情で示してやると良い。」
もっと、今よりもっと、深い深い愛情で------------。
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