白雲の果て、春の雪

 第8話(1)
当たり前のように朝が来て、目が覚め、人々は動き出す。
それぞれの役目を始めるために、ある者は水場へ、そしてある者は市へと出向いて行く。
ここ、四条の橘邸では----早くから厨房が賑わう。それもまた日常の風景だ。

「今朝は牛乳をお使いになるのですね?」
「うん。最後に、溶いた卵をさあっと絡めて下さいね。」
今日の朝餉の献立は、卵を散らしたミルク粥。付け合わせに青菜の塩漬けと煮豆、鮭の楚割。
味噌仕立ての生姜汁に、デザートは干し杏。
「天真くんたちは、これじゃお腹すいちゃうかなあ…」
鍋の中で煮える粥を覗きながら、あかねはそうつぶやいた。
何せ育ち盛り(?)の青年二人であるし、こちらにいた時も天真は、"腹減った、腹減った"と口癖みたいに言っていたし。
こちらでは、朝夕の二食が基本の食生活の上、朝がこんなに軽くてはやはり満足出来ないかも。
「ま、あとでおやつに何か作っておけばいっかー」
そう納得しているあかねの後ろで、侍女たちは人数分の食器を揃えて、盛りつけの用意を始めていた。


柔らかい衣にくるまって、何度も何度も寝返りを打つ。
仰向けになったり、うつぶせになったり。
眠っている時もこんなに忙しいのでは、逆に疲れてしまうのではないだろうか?
そんなことも思ったりもするが、無垢な表情で安らかに眠る子供たちの姿は、眺めているだけで幸せな気持ちになる。
「いつまで待てば、夢の世界から戻って来てくれるんだい?笑顔を見せてくれないと、父様は心寂しくて出掛けられないよ。」
柔らかくふくよかな頬を、指先で軽く突いてみる。
うんうんと唸りながら、二人は目をこすってぼんやりと上半身を起こした。
「……父…上…ぇ?」
「普段はしっかりしているのに、寝起きは無防備だねえ、文紀は。」
「う……ごめん…なさい…」
ごしごしと目をこすりながら、懸命に父の姿を見極めようとする文紀の頬を、友雅の手がそっと包む。
「それだけ幸せな気分で眠れたんだ。良い事だよ。」
緊張することなく、ゆっくりと眠れることは精神的にも良い。
夕べの自分を思えば、子どもたちが羨ましいくらいだ。

「とーさまー………」
「おやおや。まだ小さいから良いけれど、殿方の前でそんな姿は頂けないよ?」
ごろん、と両手を左右に伸ばして、ぐうっと大の字に横たわったまま伸びをする。緩い巻き髪が、寝癖で更にくるんとはねていたりして。
「元気なことは良いことだけどね…詩紋の前では身だしなみを整えなくては、嫌われてしまうよ」
友雅がそう言うと、とたんに千歳はぱっと目を開いて、はだけた寝着の裾を直したり髪を懸命に手ぐしで整えたりした。
幼いけれど、身なりを気にするのは立派な女性の証拠。
それがほのかな甘い感情故であるならば、尚更愛らしいものだ。

「さあ、ちゃんと二人とも起きなさい。もうそろそろ朝餉も出来るはずだ。もう広間で、みんな待っているよ。」
二人が起きたのを確認すると、友雅は蔀を開けて外の空気を部屋に取り込む。
朝の爽やかな風に、かすかに花の香りが漂う。小鳥のさえずりも聞こえている。
今日も良い天気だ。
「祥穂殿を呼ぶよ。早く支度を済ませるようにね。」
子供たちにそう言い残した友雅は、彼らの部屋を後にした。


「あ、友雅さん…どこに行ってたんですか?探したんですよ?」
渡殿を通り過ぎようとした時、向こう側から早足でやって来たあかねが、友雅の姿を見つけて立ち止まった。
「せっかくだから、二人の無邪気な寝顔でも、たまには楽しませてもらおうかと思ってね。」
「何だ…そうだったんですか。朝餉の用意が出来るまで、ゆっくり寝ててもらおうと思ってたのに、呼びに行ったら部屋にいなかったから…。どこに行っちゃったのかと思いましたよ。」
友雅はまだ眠っていたようだったので、そのまま起こさずに先に部屋を出た。
朝餉の支度も済んで、起こしに行こうと部屋に戻ったら…もぬけのからだし。
「そんなにあちこち探さなくても、黙って出掛けたりなんかしないよ。」
「うん…まあ、そうなんですけどもね…」
庭から流れてくる風が、髪をふわりと靡かせる。
肩が触れ合うほどに寄り添って、廊下を歩きながらあかねは考えた。

…そう、なんですけど…。
でもちょっと、何だか変な胸騒ぎがしちゃって………。
夕べの様子が、いつもと少し違う気がしたから…何となく気になって。

隣を歩く友雅は、普段通りで。特に変わったことはないけれど。
だからこそ、昨日の夜のことが不思議でならない。
でも、それを尋ねていいのかどうか…何となく、踏み出す勇気がない。

+++++

安倍晴明宅に、珍しい人物が来訪した。
とは言っても…彼の立場を思えば、ここに来る理由は別に珍しいと言うわけでもないのかもしれない。
「泰明に御用ですかな?永泉様」
「ええ…。いらっしゃいますか?」
「昨日から少々雑用を押し付けてしまったので、外出も出来ない状況でしてな。しかし、永泉様がお越しになられているのなら、そろそろ休憩でもさせましょう。」
黙っていると、寝ることも忘れて作業に没頭する泰明だから、たまには背中を突いて我に返らせねばならない。
まったく、融通の利かない弟子よのう…と、豪快に晴明は笑いながら、永泉を中へ通した。

広さがある割には、相変わらず手つかずの庭。
春になり、新しく芽吹く青々とした木々の葉は良いとして…地には雑草が密集して生えている。
時折、小さな愛らしい野花が咲いている姿を見つけた蝶が、あちこちの花弁を漂いながら行き来していた。
「泰明、永泉様が来られているぞ。手を止めて、こちらに来い。」
戸を開けると、薄暗い塗篭の中で泰明は、膨大な書物に埋もれていた。
少し埃をかぶっているのも気にせず、彼は立ち上がって永泉を見る。
「急用か?」
「いえ、その…急という用事ではないのですが、ちょっとお話を伺いたいと思いまして…。」
陰陽寮に立ち寄ってみたが、今日は出仕していないと言われた。
取り敢えず、晴明宅へ迎えば居場所が分かるだろうと思い、ここまでやって来たのだが。


「あの…天真殿と詩紋殿のお話は、もうご存知ですか?」
「友雅の屋敷に落ちてきたことか。理由は分からぬが、どうやらそうらしいな。」
塗篭から出ると、とたんに目に飛び込む太陽に光に、泰明は少し目を細めた。
「丁度良い機会だから、と宴を開こうという話を、昨日鷹通も交えて話したところだ。おまえも聞いたか?」
「ええ、兄…主上よりお聞き致しました。」
「仁寿殿で行うらしい。藤姫や子供たちも集まるとのことだ。私的な宴とは言え、また随分と賑わう事だろう。」

ちらり、と永泉は泰明の表情を伺う。
意外にも、あかねたちの子供の話をするとき、泰明の表情にはかすかな微笑みが浮かぶ。
普段の無表情に近い彼を知る者は、信じられないことだろうが、それは事実だ。
いつの頃からか分からないが、そんな姿に永泉は気付いていた。
そんなこともあってか、子供たちも不思議と泰明に対しては人見知りしない。
大の大人でも、彼の気にたじろいでしまうというのに。


話しながら母屋へ続く廊下を歩いていると、侍女とは名ばかりの式神が、客人のもてなしの用意を整えている姿が見えた。
「今日は少し汗ばむ陽気だ。雀華、永泉には冷たいものを用意してやれ。」
式神を呼び止めた泰明は、そう彼女に告げた。
雀華と名乗る彼女は黙ってうなづき、永泉に向かって静かに微笑むと、風に流されるように軽やかに厨房へと消えて行った。



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Megumi,Ka

suga