白雲の果て、春の雪

 第7話(3)
「どんなお話が描いてあるんだろ…」
一本の巻物を手にして、文紀はそれを広げてみようと紐を解こうとした。
だが、友雅はそれをそっと取り上げて、別のものを彼に手渡した。
「これは、まだ文紀たちには難しいお話だ。その他のものは大丈夫だけれど、これはもう少し大人になってから読んだ方がいいね。」
「そうなの?僕らには分からないお話?」
「ああ、そうだね…。あと何年か経ったらね。その時は、父様がこのお話を読んで聞かせてあげるよ。」
文紀の髪を優しく撫でながら、友雅は彼の肩を軽く抱きしめた。

「さあ、文紀もそろそろ寝る時間よ。一緒にお部屋に行きましょう?」
あかねが千歳を連れてやって来た。
友雅は文紀を起こすと、一本を除いた絵巻物を抱えさせて、彼女のところへ歩いて行かせる。
「宰相から絵巻物を頂いたんだ。この子たちが寝付くまで、読み聞かせるのに丁度良いと思うよ。」
「あら、良かったわね二人とも。じゃあ、向こうで読んでもらいましょ。」
そう言って子供たちと手を繋ぎ合うと、あかねは北の対にある彼らの部屋へと向かった。

「子供らには早いって、そんな大人向けの話があんのか?」
興味深げに顔を緩ませた天真が、友雅の手にある巻物を覗き込んで言った。
「……まあ、彼らにはまだまだ理解がしにくい話だよ。」
彼は答えて立ち上がると、天真の肩をぽんと叩いてその場から立ち去った。

理解したくないのは、本当は自分の方だ。
そんな話があることを知りたくなくて、考えないようにと封印してしまいたくて。
例えこの話を文紀たちに読んで聞かせる日が来ても、その前にこれは作り話なのだと言い聞かせておきたい。
かぐや姫が月に戻ってしまうなんて、そんなものは物語だけのこと。
ずっと地上に残って、愛する人と幸せに暮らしていく----------それが本当の月の姫の話なのだと伝えてやりたい。
彼女がよく話している、白雪姫とか灰はぶり姫とか親指姫とか…そういう話だって、姫君は王子と結ばれて幸せになるのだ。
きっとかぐや姫だって…そんな未来があってもいいはず。

そう、月の姫は……ここでずっと生きるのだ。
月の使者が来ても、元の世界には戻らない。
ここにいる。ずっと------そう信じてる。
そう信じたい。



二人の寝所は、西の対にある釣殿の間だ。
子どもたちの部屋から一番遠く、そして侍女たちの部屋からも離れた場所。
窓を開ければ池が目下に広がって、月を眺めるには格好の部屋。
桜と木蓮の花が窓から見えて、隙間から甘い花の香りも漂ってくる。

「でね、祥穂さんも初めて聞くお話なんですって。だから、あの子たちもわくわくして聞いてたみたいですよ」
絵巻物を彼女に預けて、あかねは戻ってきた。
こちらの仮名文字も結構慣れて、読み書きも問題なくなってきたけれど、それでもやはり難しいものは多い。
今回のように、唐国の話などは漢字が独特で難しく、読み聞かせることは困難だったので祥穂に任せてしまった。
「宰相様にも御礼を言ってくださいね。」
「ああ、今度会ったときにでも言っておくよ。」

薄暗い部屋に燈台がひとつ。ぼんやりと小さな灯が、部屋の中を照らしている。
それでも意外に明るい気がするのは、今夜の月が満月に近いからだろう。
あかねは窓に近付いて、そっと戸を開けてみる。
「今夜の月、まんまるで綺麗ですよ。空も雲ひとつないし、星も綺麗ですねー」
釣殿から少し身を乗り出して、闇色の夜空を見上げて彼女が言った。

「え?どうしたんですか…急に」
後ろから両腕で強く抱きすくめられて、その衣から浮かぶ侍従の香りに包まれる。
「悪いけど…戸を閉めてくれないか」
「え、閉めちゃうんですか?月、あんなに綺麗なのに」
これまでなら、こんな風に月が綺麗な夜は少し戸を開けて、差し込む光を浴びながら眠るのが二人の夜だったのに。
突然彼がそんな事を言いだした理由が分からず、あかねは少し戸惑い気味だったが、言うとおりにその戸を閉めた。

「そこだけじゃなくて、月の明かりが入ってこないように、全部の戸を閉めて欲しいんだ。」
「……全部ですか」
友雅の腕が解けて、自由になったあかねは四方の戸に近付いて、隙間がないようにぴったりと閉じた。
うっすらと外の明るさが浮かんではいるけれど、これはしょうがないだろう。
「これで平気ですか?」
もしかして、妙な邪気でも入る可能性があるとか、泰明に聞いたんだろうか。
そういう事なら仕方がないけれど、せめて説明してくれれば良いのに、と思ったあかねを、友雅は畳敷きの上から手招きする。
「こっちにおいで」
言われるがままに几帳をまくって、横たわる彼の隣へあかねは入る。
戸がしっかりと閉じられ、そして下ろされた布に包まれたこの空間は、いつもよりも暗く感じる。

「もっと厚手の几帳の方が良いかな…光が遮断出来るくらいの」
「そんなの使ったら、真っ暗になっちゃいますよ?」
おぼろげにお互いの輪郭しか見えない中で、彼女の笑う声がすぐ近くで聞こえた。
「ここじゃなくて、塗籠を寝所にすれば良かったかもしれないね。そうすれば、絶対に光は入らないから。」
「それじゃ、月が眺められないじゃないですかー」
友雅の胸に身を寄せて、互いの身体に腕を回す。
「……月なんか、見えなくても良いよ。」
耳朶に口づけるように唇を近づけて、かぼそい彼の声がした。

それからはいつもみたいに抱き合って、目を閉じたまま自然に眠りに付こうと思ったけれど、なかなかそうは行かなかった。
月の明かりを楽しむのが好きな友雅が、こんなにまで月というものを拒否するなんて、何かあったとしか思えない。
やわらかな月光が降り注ぐ夜を、二人で楽しむために寝所として選んだこの部屋も、これじゃ意味がなくなってしまう。

つい先日までは、のんびりと遅くまで二人夜空を愛でていたのに、一体どうしたことだろうか。
疑問を抱きつつも、黙ってその胸から聞こえてくる鼓動に耳を寄せて、自分の心音を重ねながら、そのリズムで眠りに付こうと努力した。

多分、そんな風に彼女が戸惑っているのは、友雅にも何となく感じていたことではあった。
月というものを、急に避けるようになった理由を彼女は知りたいだろう。
でも、言えない。
言ってしまったら、それを気付かせてしまうことになるから。
一生気付かないでいればいいのだ。自分のそばに寄り添う以外は、彼女の行く場所はどこにもないと、そう思っていてくれればいいのだ。

乱暴な意識だとは、十分に分かっている。
だが、そういう感情しか浮かんでこない。
月の様子も、月の光も知らなくて良い。
迎えの使者を、闇に隠れてあきらめさせてやればいい。

彼女はどこにも行かない。行かせない。
自分には、必要不可欠な存在なのだから。

忘れるなんて自分で言っておきながら、やっぱりまだ、こだわり過ぎているみたいだな--------。
わずかに灯る明かりしかない、暗闇の中であかねを抱きしめながら想う。
常にずっと、どこかで考えている。
どうすれば彼女が、永遠にここにいてくれるか…。

切なくて苦しいくらいに、彼女を想いながら離したくないと願う。
自分たちを見逃してくれないだろうか…と、闇の中で胸を傷めながら友雅は目を閉じた。



***********

Megumi,Ka

suga