白雲の果て、春の雪

 第6話(2)
その日の午後、永泉は仁和寺の住職と共に参内した。
寺にある御室桜の様子を告げに、ひと枝を携えてやって来たのだ。
「まだ花開く枝は少ないのですが、時期に開花に近付いております。おそらく、桜の時期が終わりかけの頃に、良い見頃となるかと。」
御室の桜は、普通のものよりも開花が遅い。
しかし、その花の美しさは京でも群を抜いており、桜の季節の締めくくりとして、誰もが御室桜の満開を楽しみにしている。
「是非とも、主上にはその頃お立ち寄り頂ければと思います。」
「永泉、このような場所では"兄"と呼んでくれて構わぬよ。ここの誰もが、そなたと私の事は周知であるのだから。」
帝がそう告げると、周りにいる者は皆穏やかに微笑んでいる。
時折こうして、緊張をほぐす声を掛けてくれる兄の存在が、永泉にはとても嬉しかった。

「それはそうと、永泉。そなたと共に八葉として動いた、地の青龍と朱雀が、今こちらの世界にやって来ている事を知っておるか?」
急に帝から言われた話を、咄嗟に彼は理解出来なかったようだが、すぐに頭の中に懐かしい二人の顔が浮かんだ。
「…地の青龍と朱雀、ということは…元の世界にお戻りになられた、天真殿と詩紋殿の事でしょうか?」
「ああ、そうだ。原因はどのようなことか分からぬが、突然こちらに招かれて来たそうだよ。今は、友雅の屋敷に身を寄せているらしい。」
それを聞いて、永泉は再び驚きを隠せなかった。
あれから早数年が過ぎて、彼らとはもう相容れる時間はないと思っていたのに。

「友雅とも話して、この度仁寿殿での宴を許したよ。滅多にないことであるから、そなたも皆と共に楽しむと良いよ。」
「それは、何と待ち遠しいことでしょう…。お二人に御会いするのが、今から楽しみです…。」
帝には分からないことだが、やはり八葉というものはそれぞれに、何かしら強い結びつきを持っているらしい。
天地それぞれには勿論のこと、別の仲間にも互いに気を掛けるものがあるようだ。
そして、そんな彼らの中心にいるのは…やはり神子である彼女なのだろう。

「しかしな…永泉。実は今回のことで、少々友雅が気を病んでいるようでな」
「友雅殿が?如何なさいましたか…」
話が突然友雅に転がったので、永泉は顔を上げて帝を見た。
兄は、何か気にかけているように眉を顰めているが、ほんの少しだけ悲哀にも似た面影も見せる。
「本人に聞いても"何もない"としか言わぬし。それで先程藤壷で、藤姫殿に様子を尋ねたのだが…どうやら友雅は、彼らが奥方を連れ戻しに来たのでは、と思っているようでな。」
天真たちが…あかねを連れ戻しに?
確かに、彼女は彼らと同じ異界で生まれ育った人間だ。
本来なら彼らのように、向こうに戻ってこれまで通りに生きるのが一番だと思う。
だが、彼女は友雅と生きることを選んで、ここにいる。
そして数年過ぎた今、二人は愛らしい家族を育んで生きている。
幸せを形にしたような、そんな家族の風景だ。
それを今になって壊すような者が、どこにいるというのか------。

「て、天真殿や詩紋殿に、お尋ねになられたのでしょうか?」
「いや、それはまだらしい。彼らも急なことで訳も分からぬそうだ。だが…そんな事を考えていた矢先、運が悪く…」
帝は顔をしかめて、虚ろげな表情で遠い目をする。
ここにいない、友雅の様子を眺めるかのように。
「朝議の時に宰相から、友雅の子らに差し上げてくれと、絵巻物を数点受け取ったそうだ。その中にあったのが「竹取の翁」の話で…」
「ああ…それは……」
物語の結末を思い出して、永泉の胸がきゅうっと痛んだ。
偶然にしては、あまりにも非情。あれは……姫が月に戻ってしまう話じゃないか。しかも、月からの使者が迎えに来て。
まさに今、友雅が恐れているもの、そのものが描かれた物語……。

「それまでは、特に何も気止めなかったようだが、その物語を目にしてから、もしかしたら…と、考えるようになってしまったらしい。」
「ですが、それはまだ分からない事ではありませんか。あかね殿が友雅殿と…二人の御子を置き去りにして戻られてしまうなど、私はとても考えられません…」
永泉は目を伏せて、何度も首を横に振った。
例えそんな選択があろうとも、彼女がそんなことを選ぶわけがない。
いつだって、どんな時も、友雅に寄り添いながら子供たちの手を取って、幸せそうに微笑んでいる彼女が、他の場所に幸せを求めるなんて。

「私も、それは信じているよ。あの二人を引き離すのは無理だろう。だが…やはり友雅にとっては、気がかりで仕方がないのだろうよ…」
それが取り越し苦労であっても、答えがない限り友雅は、ずっとそれを気にかけながら過ごして行くのか。
あかねが目の前で、微笑みかけてくれているとしても……。
「友雅殿のお気持ちを思うと…胸に詰まります。」
「…私もだ。本当に奥方とは、一心同体とも言えるような仲だからな…。そのような思いが離れないのは、友雅も辛かろうよ…」
もしも、最愛の人が突然目の前から去ってしまったら-----自分はどうなるだろう。
これまでの幸せが、消えてしまったら…どうやって生きて行けば良いだろう。




「つまらないことを気にして、愚かな男だな…と呆れているだろう?」
顔を上げて苦笑いを浮かべると、友雅は鷹通と泰明の顔を見る。
答えられなかった。そんなことは、全く思っていなかったけれど、あまりに彼の醸し出す空気が痛々しくて、二人には言葉が見つからなかった。
「これまで、私はあかねに依存し過ぎたんだと思う。実際のところ、彼女がいない日常を想像なんて出来ない。彼女がいなければ…文紀たちだって存在しないはずなんだ。」
運命の悪戯の中で出会い、そして恋に落ちて-----愛し合っていなければ、新しい命が生まれない。
愛しいものを愛することで、それが更に増えて行くことの不思議さと、それこそが幸せというのだと教えてくれたのは、彼女ただ一人であったから。

「依存しすぎなければ良いんだろうけどね…。でも、私にはもう無理だ。」
天真に言ったように、あかねと出会った時から、新しく自分は生まれ変わった。
彼女とともに踏み出した、一歩。それからずっと、並んで歩き続けている。
二人の歴史、想い出、そして未来は同じ方向に続いていると信じている…今も。
しかし、彼女を連れ帰ろうとする使者が、目の前に現れたとしたら…それを自分は阻止出来るだろうか。
帝の兵を宛っても、引き止める事ができなかった月の姫の物語。
たかだか…自分なんて一人の男に過ぎないのに。

「余計なことは考えるな。神子は、お前たちに背を向けて、この地から立ち去るような娘ではない。」
泰明は、細かい説明をしなくても、心の中を一つ残らず読み取ってくれる。
口で説明するより、きっと彼は自分の今の心境をそのまま理解しているだろう、と友雅は思った。
「神子にとっても、おまえはかけがえのない、唯一の男だ。そして、子どもたちもそうだ。見放すわけがないだろう。」
「…分かっているよ。それくらい自覚しているさ。私以上に、あかねたちを愛している男などいないよ。」
いつもなら、そんなストレートな台詞を耳にするたび、聞いている方が恥ずかしくなってしまうけれど、こんな友雅ではそんな気分にはならない。
想いが深いほどに、考えることが多すぎてしまう。
良いことも、余計なことまでも。

「不安など抱くな。天真たちがここに来た理由は分からぬが、例えそれがそういう事であっても…神子には龍神が付いている。」
友雅を静かに見つめて、泰明は淡々と話を続ける。
「龍神は、神子が望む事しか受け入れぬ。神子がここにいたいと思えば、それを龍神の力が護る。安心していろ。」
今や、
神子の立場を下りたあかねだが、この京に呼ばれた時から、彼女は龍神の加護を得て生きている。
あの日、神泉苑での最後の戦いの時--------願いを叶えるため、彼女は自らを龍神に捧げた。
それは……愛する者を護るために。
自らを龍神に預け-----彼女は永遠の加護を得た。
神子ではなくなった今も、龍神はあかねの願いを叶えるために、気付かれないよう常にそこで見守っている。

「友雅。神子が願うのは、おまえの幸せと子供たちの幸いだ。それは今も変わらぬ。おまえの幸せとは…彼らと共にいることだろう。神子は、それを理解している。おまえを不幸にすることはあり得ない。」
「ええ、私もそうだと思いますよ…。誰もが友雅殿のご家族を、羨ましく思われているのをご存じですか?」
男目線で言えば、容姿・才能共に優れた幼子たちと、帝からの深い寵愛、常に寄り添う妻の存在。
女目線ならば、1人の相手を愛し愛され、健やかな子供たちと築く満ち足りた幸せの光景。
世間一般の常識や、家柄、地位などに左右されて生きる人々。
彼らでもそう簡単には手に入らない、理想的な幸せの形を自然に描き出す彼らの姿を、皆がどれほどに羨んでいるか。

「ふっ…本当に馬鹿な男だね、私は…。」
どこかから、風に吹かれて舞い込んできた桜の花びら。
足下に、そして髪や手にはらりとまとわりつく、春の色。
「悩むようなことじゃない…か。別に、そう決まったわけじゃないんだし。」
「え、ええ…そうです。そのようなことが、ある訳がありません。今、泰明殿もおっしゃったではないですか。」
おかしなもので、これまでなら年若い鷹通を自分が窘めるのが普通だったのに、これではまるで逆だ。
結局、三十年余りを生きて来ても、そう簡単に人間は成長出来ない、という事かもしれない。
ましてや、心縛られるものに出会ってしまって、盲目に溺れることで幸せを知ってしまった人間にとっては。

「…そうだね。分かった。これまでの事は全部忘れてくれるかい?私も、二度と考えない事にするよ。」
「それが良い。無駄な思考は、かえって状況を悪くさせるだけだ。」
泰明に念を押されて、自分の中にある朧げな不安を振り切ろうと目を閉じた。

闇の中に仕舞い込んで、二度と持ち出さないように鍵をかけてしまえば良い。
そして、そんな感情の存在を忘れてしまえるようにと、楽しいことだけを見つめて生きていこう。

決して簡単なことではないだろうけれど------無理にでも、そうしていなければ、やりきれない。



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Megumi,Ka

suga