桜色に包まれた春爛漫の世界は、ここ清涼殿も同じ。花の季節は、身分を隔てる事なく木々や花を鮮やかに踊らせる。
朝議を終えたあと、友雅はいつものように帝からの声が掛かり、昼御座へ上がる事となった。
"いつものように"と言うのは、それらが既に日課となっているからだ。
連日混み合った話があるわけでもないのに、それでも友雅が帝に呼ばれる理由は、もちろん帝の彼に対しての信望が深い事に他ならない。
そしてもう一つは、単に世間話をしたいという意向だ。
「そうか。文紀殿は今、釣りに興味を示しておるのか。」
「はい。先日も乳母君の御子である宇敦と、桂川付近へ釣りに出掛けまして。筋が良いのか、数匹の魚を捕らえて返って参りました」
「ほう…。釣りや弓や、そなたの若君は器用で頭が良いな。蹴鞠も上手いものだと、噂で聞くぞ?」
「本人はもっと精進せねば、と思っているようですが…蹴鞠自体が好きなようで、日頃から従者や宇敦を相手に楽しんでいる様子です。」
こんな調子で、話す事と言えば子どもたちの事ばかり。
気の張った内容など殆ど何もなく、友雅の愛子の様子を聞くことが、帝の楽しみでもあった。
「また宴の機会があれば、二人を連れて来ると良い。彼らがいると、内裏の中もぱっと明るくなって賑わうからな。」
あの友雅の、最愛の子どもたちというだけで、周囲の目は彼らに惹き付けられる。
利発で父親に似た艶やかさを持つ小さな姫君と、母親の面影がうっすら漂う、物腰が優美な若君の双子の姿は、いつも皆の注目の的だ。
「勿論奥方も一緒にな。家族四人で、また楽しい宴の夜を過ごそうではないか。」
「有り難きお誘い、喜んで御受け致します。」
生まれたときから見ている彼らが、どれだけ成長したか。帝にとってはそれも楽しみのひとつだった。
「主上、宴の話が出たもので、実はそれに近いご相談があるのですが、よろしいですか?」
丁度良い話題の流れが来たので、友雅は今回の天真たちの話を帝に打ち明けることにした。
その話を聞いた帝は、まさかそんなことが起こるとは、と信じられないような顔で友雅の話に耳を傾けていたが、それらが京への災いによるものではなさそうだという事を知ると、ホッとした様子で話をすんなりと受け入れてくれた。
「不思議なものだな。あの八葉が、再びここに揃う事があるとは。これは龍神の悪戯だろうか?」
「そうかも知れませんね。龍神の……ええ、悪戯だろうとは思っておりますが。」
「……どうした、友雅。何か、気がかりな事でもあるか?」
どことなく歯切れの悪い彼の語尾に、帝は眉を顰めた。
「まさかそなたの神子が、邪気のようなものを感じたわけではないだろうな?」
「いえ、全くそのようなことはありません。お気になさらぬとも、何も問題はございません。」
何もない。変わったことは…何もないはず。
もちろん、天真たちが再び京にやって来たことは、変わったことに違いないのだけれども。
それ以外は何も、何も変わらない。
子どもたちはいつものように元気にはしゃぎ、あかねもまたいつも通りに、自分に肩を寄せる。
彼らを両手で抱きかかえて-------そう、いつも通りの風景。
なのに、妙なしこりが消えずにいる。
明らかにそれらは、友雅の胸の奥に重しとなって存在する。
どことなく抜けない、気怠さに似た重苦しさ。
その意味が分かりかけているのに、友雅は自ら背を向けている。
「友雅、やはりそなた…妙だぞ」
やはり帝には、友雅の様子がいつもと違うのが気にかかるようだ。
だが、それ以上の事は口に出せない。
あまりにもそれは……個人的な、そしてあまりに他愛もない話でしかないから。
「お心を乱すような姿を見せてしまい、申し訳ございません。本当に何もありませんので。」
顔を上げた友雅の表情は、確かにいつもと同じ穏やかで雅やかな笑顔だった。
それでも、彼が一瞬見せた寂し気な瞳が、帝の目に焼き付いては慣れなかった。
+++++
藤姫の住まいは、姉の中宮と同じ藤壷にあった。
女御という立場での入内だったが、あくまでもそれは表向きの肩書きでしかなく、帝の御前に上がることは皆無に等しく、彼女の仕事は常に東宮の世話役、女官のような役目である。
しかし、せっかく妹が女御となるのだから、ということで、姉妹同士藤壷で暮らす事となった。
「友雅殿、それは真のお話でございますか?!」
当時齢十であった幼い姫君は、今や年頃の美しい姫に成長した。
それでも、当時の凛とした面持ちは健在で、華やかさの中にも気品のある美貌を持って、一人前の女御となりつつある。
そんな彼女の噂を聞きつけて、既に文を贈る公達も数人いると聞くが、生真面目な彼女は自分の役目を第一に考え、その手の話はまだまだ興味薄というようだ。
だが、懐かしい人々の名前を聞いたとたん、彼女の表情は幼いあの頃のあどけなさを、ふんわりと浮き上がらせる。
「もちろん嘘ではないよ。よくよく縁があるのか、私の屋敷に転がり落ちて来てね。かえって良かったよ、藤姫殿がいなくなった土御門家では、さぞかし大騒ぎになっただろうからね。」
藤姫の隣には、姉である中宮の姿もある。
ほんの僅かな間だけ顔を合わせたきりだが、八葉や神子の話は藤姫から十分なほど聞いているだろう。
「そのように頻繁に、異界との行き来が出来るものなのですか?」
不思議な表情で中宮は友雅に尋ねた。
「いえ、そのようなことはないかと思いますが。今回は、単なる龍神の悪戯のようなものでしょう。」
藤姫の占いでも、悪い気は感じられていないようだし、おそらく本当にそんな…ちょっとした戯れに違いない。
「それでね藤姫殿、天真たちも是非貴女に会いたいと言っているんだ。だからね、この機会に一度皆で集まって、再会を楽しむささやかな宴を開こうと思っているのだよ。」
友雅から切り出された話に、藤姫は一瞬驚いて、そしてこの上ない嬉しそうな顔で微笑んだ。
「まあ、本当に嬉しゅうございます。ですが、私は内裏にいるものですから……」
「そうなんだけどね、そこは主上がお心を配って下さったから、心配はいらないかから平気だよ。」
彼女の外出許可を御願いしたつもりだったのだが、帝からはそれ以上の答えが返って来た。
「仁寿殿で宴を開いても構わないと、そうおっしゃって下さったからね。」
「宴を仁寿殿で!?」
紫宸殿の裏手に、仁寿殿と呼ばれる場所がある。そこでは内宴や蹴鞠などを見るという、帝の私的な行事が行われる所だ。
そんな場所を、自由に宴に使って良いと帝は直々に申された。
「その方が藤姫殿も、外へ出掛けるまでもないしね。もしよろしければ、中宮様もご一緒に如何かと主上からも言われたものですから。」
「あら、私も?それなら嬉しいわ。奥方様とお会いするのは、随分と久し振りですものね。それに、貴方の愛らしい若君様と姫様にも、一度お会いしたいと思っていたのよ?。」
思えば実際に中宮と子ども達を、会わせたことはない。それでも遠巻きに、彼らのことを眺めてはいたらしい。
それとは反対に藤姫の方は、生まれたときから千歳達のことはよく知っている。
何度も土御門家へ遊びに出掛けては、まるで甥か姪のように二人とも彼女によく懐いていた。
「随分と健やかに大きくなられたのでしょうね。」
藤姫が入内してから一年近くが過ぎようとしているので、会わなくなってしばらく経つ。ほんの数ヶ月で、幼い子供たちはあっという間に成長するもの。
懐かしい顔ぶれに、久し振りに会えるということに、藤姫たちは楽しげに会話をしていた。
「ですが、何か友雅殿にはお気に掛かる事がおありですの?」
しばらくして顔を上げると、藤姫がそう友雅に話しかけていた。
隣の中宮もまた、彼のことをじっと見ながら言う。
「せっかくこのような楽しい宴になりそうだというのに、貴方がそのようなお顔をするのは、少々不思議ですわよ。まるで、何か不安なことがおありのように見えますわ。」
二人が首をかしげながら、こちらの様子を伺っている。
さっきの帝の言葉といい、そして目の前の彼女たちといい……それほどあからさまに、表情に出ているだろうか?
ずっと胸に抱え続けている、もどかしい不安が。
「……藤姫殿なら、分かってもらえるかな。」
友雅は、一言最初にそんな言葉を口にした。
彼女ならば、一度は自分と同じ経験を味わったはずだ。
先行きの分からない、未来への不安。それと同時に、現状にある楽しさ。
それらのギャップに困惑して、言い知れないほどの重苦しさを胸に抱いて生きていた日の切なさを。
「こんな事を言うのは、おかしいかもしれないけれど……思い掛けなく余計なことを気に止めるようになってしまってね…。それから、妙な不安みたいなものが抜けなくてね…。」
こんな時期に、あんなものを目にしてしまうなんて、運が悪いのかな、と彼は言って、ひとつ溜息をついて目を伏せた。
「彼らと再会出来た偶然を、喜ぶ反面で…それを受け入れることを拒否したい気持ちもある。」
考えすぎだとは思っている。
けれど、思えば思うほど不安が大きくなるのは何故だろう?
信じているのに、こんなに愛していることを伝えられていると思っているのに、やはりそれでも不安は消えない。
「多分、少し…怖いんだな、私は…。」
ぽつりと、友雅は静かにつぶやいた。
いつもは軽やかな春の風が、今は少し明るすぎて…辛く感じる。
|