小さな未来

 005
あかねは、友雅が立ち止まって返事を返したので、その場で足を止めた。
しかし、鷹通が先に進むようにと手を引いてくれたので、取り敢えずその間の前を通り過ぎて友雅を待つことにした。
御簾の前で彼女に声を返している友雅が、ちらりと鷹通の方を見ると、一瞬だけ笑って合図をした。
鷹通の機転に、感謝しているという意味だろう。

「橘少将様が昇殿されているそうですわよ!」
「まあ、随分とお久しいこと!お姿が見えない日が続いて、退屈していたところでしたわ」
「さあさあ、急いで御簾の裏に寄らなくては、お姿が拝めませんわ!」
ざわざわと騒がしい女性たちの声と共に、御簾の内側が騒々しくなった。
彼がどう変わろうと、こういう所は以前と全く同じだ。友雅が前を通るだけで、女房たちの賑やかな声が沸き上がる。
「相変わらず、友雅さんて凄い人気なんだぁ…」
あかねが、他人事のようにつぶやいた。
そんな彼を独占している唯一の妻君こそ、彼女自身なのだけれど。


「久し振りに漂う橘の花の香りに、酔ってしまいそうですわ。永遠に、その甘い香りに包まれてみたいものですが。」
気の利いた言葉を選びながら、その反面でさらりと結構情熱的な事も言う。噂の相手は、なかなかの才人と見えた。
しかし、友雅も黙ってはいない。
「生憎と、もう花の時期は終わってしまったので、その香りを届けるのは無理ですね。少し時期は早いですが、我が家で実った瑞々しい二つの香木実ならば、お目に掛けることも出来ますがね。」
成る程、橘の実を自分の子ども達に例えたという訳か。上手い例えだ、と感心する。
鷹通はそんな二人の応酬を、失礼とは知りつつ楽しんで聞いていた。

「では、先を急ぐので前を失礼するよ。今日は私だけではなく、最愛の若草の君と、愛しい香木実達を連れ添っているのでね。」
友雅はそう言うと、それきり話に応じることもなく、御簾の前を千歳を抱いて通り過ぎた。
そのあとで、また賑やかな女性たちの声が湧いたことは、言うまでもない。


「やっぱり友雅さんて、人気あるんですねえ…」
難関を突破し、心無しかホッと安心している友雅と鷹通にも気付かず、あかねは文紀を抱いて歩きながら言う。
「そういう言葉は、少し拗ねたように言ってもらいたいものだね。平然として言われると、どうも緩くて気が抜けるよ。」
「だって、ホントに凄いんですもん。御簾越しなのに、友雅さんがやって来たとたんに『キャー!』って、女房の人たちがどやどやっと集まって。何か、焼きもち焼く余裕なんかない感じ。」
「…困ったものだね、私の若草は。鷹通、彼女の気楽な言葉をどう思う?少しは嫉妬くらいしてくれた方が、嬉しいというのにねえ。」
肩に千歳を抱きながら、笑いつつ友雅は背を向けて歩く。
鷹通は何も答えなかったが、こみあげる笑いに声を殺した。

外からの風が頬をくすぐり、ふと周囲を見渡してみた。
御簾の飾り紐が、風に揺れているのが見える。渡殿を通り過ぎてから、鷹通はやっと周囲を見渡す余裕が出来た。
滅多に訪れることはない、内裏の中。
例外を覗いて、数回しか昇殿したことのない彼は、流れる空気の違いに触れて、改めて緊張の糸が引き締まる。
「近いうちに、鷹通もこの辺りを自由に行き来出来るようになるさ。そうしたら、今度は君が女房方の歓声に巻かれるようになるよ。」
「また、そのようなお戯れを。私など融通が利かない不器用な男ですから、女性にとっては面白みも何もないでしょう。」
宮中での複雑な人間関係を、すり抜けるほどの気転は利かない。ましてや彼女たちを楽しませる、楽や歌の力量もそれほどではない。
こうして友雅を見ていると、何故彼が女性を惹き付けるのかが理解出来て来る。
それらを全て、彼には備わっているからだ。

「あ、そんなことないですよ、鷹通さん!だって、鷹通さんは真面目だし、頭良いし、それに優しいじゃないですか。きっと女性にモテますよ?」
「…神子殿まで、そんなことを…」
困ったように笑いながら、振り返るあかねの顔を見る。
「ホントですってば。優しい男性はモテますよー?見た目だって鷹通さんカッコいいし。」
遠慮なくぽんぽんとそんな言葉を言うものだから、さすがに鷹通も照れくさくなって頬が染まる。人に対しては偽りの賛辞を口にしない彼女だと知っているからこそ、その真っすぐな言葉がくすぐったい。

「…あかね。ここがもしも清涼殿でなかったら、問答無用で今すぐにでも君の唇を塞ぐところだよ?」
千歳を片手で抱き直し、もう片方の腕であかねの身体を引き寄せた友雅が言う。
「相手が鷹通だろうが誰だろうが、夫の前で他の男を賛辞するのは頂けないよ。」
「だ、だってホントに鷹通さんなら、って…。友雅さんだって、さっき言ったじゃないですかー」
「気の知れた男同士なら、別の話だよ。目の前で聞いている、こっちの身にもなってもらいたいものだね」
そう言って、後ろから文紀ごとあかねを抱き寄せると、いつものように自らの唇を近付ける。
「と、友雅殿!主上のおられる殿中でお戯れは…!」
というか、目の前でそんなことを繰り広げられると、鷹通の方が恥ずかしくて見ていられなくなるので。
「だったら、今からお許しを頂いて来ようか」
「ダメっ!今はダメですってばー!」
両親が声を上げて戯れ合おうと、大人しくしている文紀と千歳は、結構度胸が据わっている。


「相変わらず、賑やかで結構なことだね」

近くから、そんな声がした。
辺りを見渡しても、姿は見えない。だが、比較的至近距離で聞こえて来た、穏やかな声。
「……主上」
小さな声で、鷹通がつぶやいた。とたんに、緊張が走る。……友雅は別だが。
気付けば、もう目の前が清涼殿。帝の着座している昼御座も、目と鼻の先だ。ちょっとした声で騒げば、否応でも耳に入るか。
「さ、二人とも行くよ。」
友雅一人、慣れたものだ。殿上間にいる侍臣に事の説明をすると、下ろされている御簾がゆっくりと上げられる。
その向こうに座っているのは----------。


友雅は一旦、千歳を鷹通に預け、頭を垂れて膝を折る。
「主上、御前に上がります。」
「朝から待ち兼ねていたよ、友雅。奥方のあかね殿も、勿論ご一緒なのだね?」
「はい。お言葉に甘えまして、共に参内させて頂きました。」
「そうか、それならば良かった。さあ、遠慮なくこちらに来られよ。」
帝の許しを得て顔を上げると、再び鷹通から千歳を受け取る。そして、隣で文紀を抱いたまま、軽く頭を垂れていたあかねに手を差し伸べた。

昼御座へと進むと、尚侍が帝の隣に寄り添っていた。
「さあ、どうぞこちらに。奥方様も、よく来て下さいました。」
全身から気品が漂う雅やかな美しい女性が、あかねに向けて優しく微笑んでくれて少しホッとしたが…それでも目の前にいるのは、帝に他ならない。
「あかね殿、久し振りだね。」
「は、はい……この度は昇殿のお許しを頂きまして、心から感謝申し上げます。」
ぎこちないながらも、懸命にきちんと挨拶しようと思ったが、帝はそんなあかねを笑いながら宥めた。
「そんなに堅苦しいことは良いよ。昔はもっと、軽やかで朗らかな方だったではないか。」
「は…恥ずかしながら。」
あの頃は、まだ子どもだったから。まだ、何も知らない、異空からやってきた別の人間だったから。
でも、今は違う。生きる場所は、この世界。

そんなあかねを見て、帝は言った。
「だが…そうか。そういえば、あの頃とはもうそなたは違うのだね。可愛らしい少女ではなく、今は立派な妻であり、母なのだから。」
昨日の事のように覚えている、彼女との出会い。
京を護るために、見知らぬ世界から龍神によって呼ばれた神子。
まだあどけなく、それでいて自由な思考を持つ彼女の中には、自分たちの知らない可能性が秘めていた。
それらがすべて実を結び、穏やかな日々が戻って来た頃……彼女は新しい生き方を決めたのだ。

「愛らしいのは変わらないけれど、母親らしい優しげで暖かな雰囲気の、良い女性になったね。あの友雅の心をがんじがらめにするだけのことはあるよ。」
「そ、そんな…」
顔を赤らめながら文紀をぎゅっと抱いて、隣の友雅の様子をちらっと目で追うと、彼が見つめるその瞳にまた胸がときめく。
いつもと同じ日常が何度も繰り返されるだけなのに、ふとした時に、再び恋に落ちることがある。
それは、何気なく手が触れたときだったり、たまたま肩を寄せ合ったときだったり、一瞬目が合ったときだったり……様々だ。
とたんに、あの頃の気持ちが蘇る。
恋をした、その瞬間に。

何度も何度も、同じ事の繰り返し。
そのたびに、彼に恋している自分に気付いて、胸が熱くなる。


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Megumi,Ka

suga