小さな未来

 003
「…分かっちゃいましたか?」
「そりゃあね。君の性格は充分把握しているし、顔を見ているだけで何となく気付くよ。」
友雅の言葉に、あかねは苦笑いを浮かべて文紀を抱き起こした。

「やっぱり、緊張しちゃうんですよ…。昔と立場が違いますもん、私。」
自分は別世界の人間だから、と、どこかで割り切っていられたあの頃は、自由に身動きを取れたけれど、今は違う。
彼の立場を損なわないように、そして母として子供たちを護ることを考え、時には自分を押し殺すことも辞してはいけなくて。

「友雅さんはどんどん認められて、上に行っちゃうでしょう。だから余計に、もうおかしなことしちゃいけないって、そう思っちゃうんですよね。子供っぽいことしたら、"橘家の奥さんは…"とか変な噂が立ったら、立場的に困るでしょう?」
世間体というものもあるし、位が高くなればなるほど人の目が集中するものだ。
今更見栄を張るわけじゃないけれど、最低限の身のこなしを心がけないと…。
常にいつも、そう考えるようになっていた。

「別に?私は何も困ることはないけれどね」
ふくよかな小さい手を、元気に動かす幸せの結晶たちが、二人の間を動き回る。
「君はね、少し考えすぎる。私の事とかを気にしてくれるのは有り難いのだけれど、それで君が息苦しいようでは、それこそかえって困ってしまうよ。」
いつだって一生懸命な彼女の姿は、友雅の心を捕らえて離さない。
そんな姿を見るたびに、繰り返し彼女に惹かれるのを実感する。
でも、その反面で息を殺すように小さくなるあかねの姿は、逆に痛々しさも醸し出す。

「主上も、君のことはよく理解して下さっているし、久しぶりに合う事になるのだから、きっとあの頃の君の印象を持っておられるはずだ。私が君を迎えると主上にお伝えしたとき、何と言われたか分かるかい?」

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そなたの神子は、眩しいほどに輝いている御方だな。
    朗らかで明るい性格だけではなく、大らかな心をお持ちのようだ。
    まるで、青空を自由に飛び回る小鳥を思わせる。
    太陽に輝かせる翼は、私の目にも美しく映るよ。
    まあ、友雅ほどではないだろうがね。-----------

その話を聞いたのは、今日がはじめてのことだった。
婚礼の儀の時は帝からも、手厚い祝福を贈られたものだったが、裏でそんな光栄極まりない言葉を頂いていたとは思わなかった。

照れるよりも驚いているあかねに、友雅はそっと手を伸ばす。
「私も、君もそんな所に惹かれたんだ。今の君が悪いとは言わないけれど、もっと肩の荷を下ろしてもらえないか?」
長くてしなやかな指先なのに、手のひらはとても大きい。あかねの頬を包んでしまうほどに。
触れる手から彼のぬくもりが伝わって、ゆっくりと肌を暖めてくれる。
「それとも、私とともに生きるのは、君には重荷かい?」
「なっ……!そ、そんなことないですよ!それは絶対にないです!」
あかねが無気になって反論をするので、友雅はふと笑いがこみ上げた。
そう、こうやって一生懸命になる一途なところが、彼の好きなあかねの一部だ。
「だったら、君は君らしくしていなさい。それが私の幸いだ。」

両親が何を話しているのか、多分子供たちには理解出来ていないだろう。
ただ、二人の心が深く通じ合っていることは、分け与えられた血が遺伝子となって彼等にも息づいているに違いない。



「…と、友雅さんっ!文紀と千歳が…」
一度重ね合った唇を離して、自分たちのすぐそばにいる二人の子供に目を遣ると、大きく澄んだ色の瞳を開いて、彼等はあかねたちをじーっと見ていた。
「こ、子供たちが見てるからっ!」
そう言って友雅の肩を押しのけようとしてみたが、顎を指で捕まれて、少し強引に引き寄せられる。
「これくらいなら、かえって良い情操教育になるよ。」
「そんなの、口実じゃないですかっ」
友雅の眼差しと子供たちの視線に挟まれつつも、少し汗ばんだ赤い顔のまま、再び近づく彼の唇を拒めない。

重なる一歩手前で、あかねの額を軽く小突く。
「両親が仲むつまじい姿を見れば、いずれはそんな家庭を自分でも築きたい、と思うに違いないよ。」
「それはこじつけ……っ」
上手い具合に辻褄を合わせられながらも、無意識のうちに身体の力を抜いてしまって、友雅の思うままに抱き寄せられていく。
瞳を閉じれば何も見えないから、目を伏せて重なるお互いの唇を受け止める。
ほんの少しの間だけ、馴れ初めた頃の気分で。

気が付くと、外は夕暮れが闇を吸い込んで、夜空には宵の明星が輝いていた。


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夕餉を済ませたあと、子供たちをあやしながら、のんびりと時間を過ごしているうちに、時刻は早くも午後8時を回っていた。
今日は宿直の当番があるため、そろそろ再び出掛けなくてはならない時間だ。

「おつとめご苦労様です。いってらっしゃいませ。」
入口で三つ指を付き、出掛けていく友雅を見送る。
少し堅苦しい儀式に思えるが、これは一応妻としての礼儀でもあるのだから、と欠かさない。
「それじゃ、行って来るよ。祥穂殿、あかね達をよろしく頼むよ。」
「承知致しました。お気をつけていってらっしゃいませ」
祥穂を含めた数人の侍女たちに、そう言い残して友雅は屋敷を後にした。


「奥方様、そろそろ文紀様と千歳様もお休みになる時間ですわね。」
あかねが文紀を抱き、父親代わりに千歳を抱いた祥穂が、子供たちの寝所へと歩いていく。
鈴虫の鳴き声が草むらから聞こえ、そのかすかに響く音色は、文紀たちにとって丁度良い子守歌代わりになりそうだ。

子供たちの寝所には、既に乳母が待機していた。
乳母とは言っても、殆どあかね自身で補えたために、本来の意味を持つ役目は殆どなかった。今も彼女は、子供たちの養育係として屋敷に滞在してくれている。
そんな彼女も、実は帝の口添えによって選ばれた、優秀な乳母である。
二人分の世話は容易なことではないから、彼女や祥穂が交替で手を貸してくれるのは本当に有り難い限りだ。

秋の夜長、子供たちが寝付くまではそばにいる。
少し蒸し暑い夜は、軽く風を煽ってやりながら、寝付くまで添い寝をしてあげる。
そうして、二人が寝息を立て始めた頃、あかねは乳母に彼等を任せて寝所へと戻っていく。

その帰り、あかねは祥穂に声を掛けた。
「ねえ、祥穂さん?お願いがあるんですけどー……」
月明かりに照らされる廊下を歩きながら、少し祥穂は後ろに顔を傾ける。
「明後日のことなんですけどね」
「はい。それでしたら、先ほどお子さま方の産着をお出ししておきました。主上の御前に上がるということですから、仁和寺の法親王様よりお贈り頂いた産着がよろしいかと。」
子供たちが生まれたときは、大勢から祝いの品を贈られたものだった。
産着だけでも10人ほどから贈られている。イノリの姉が作ってくれたというものは、肌触りが良くさらりとしていて、夏場には随分と重宝したものだ。
法親王である永泉からの産着はと言えば、その逆で洗練された絹織りの美しい産着だ。今回は、そんな永泉からの産着が彼等には良いだろう。

「あ、そうですね…それは、まあ良いんですけど…」
あかねは祥穂の話に納得していたが、問題は他にあったらしい。
「えーとですね、問題は私の装束なんですが。」
「奥方様のお召し物ですか?それはもう、ご安心下さいませ。土御門からお持ちしたものも御座いますし、婚礼の際に藤姫様がお仕立て下さったものもございます。」
土御門で暮らしていた頃に、何かにつれて藤姫が仕立ててくれた袿は十を数える。それに加えて、友雅の所へ嫁ぐことが決まった際は、更に数枚の衣を仕立てられたせいで、あかね用の葛籠の中身は宝の持ち腐れ状態だ。
宮廷の女房達ならばともかくとして、屋敷の中で殆どを過ごすあかねには、それほどの装束は必要ないのが実際のところだ。
しかし、それでもすべて上質なものばかりである。

「…うん。だから、ですね…せっかくですからね、もうこの際ですから、人前に出ても恥ずかしくないような格好で、主上にお会いしたいんですよね。」
せっかく藤姫が心を込めて、自分のためにと仕立ててくれた衣だ。
こういう機会こそ、身につけなくては勿体ない。
「友雅さんはあんな風に言ってくれたけれど…やっぱり、私も奥さんとして自覚持ちたいですし!旦那さまが胸を張れる格好くらいはしたいと思うんですよね!」
気負いをしないようにと、思いやってくれた彼の言葉は嬉しい。
でも、その分やはりしっかりしないと!という意気込みが出て来た。
それは決して尻込みするわけではなくて、逆に地に足を踏み込んで、かえってやる気が出て来たと言って良い。
「まあ…生まれ持った素材は、もうこれ以上どうにもなりませんけどね…。だから、せめて格好くらいはと思って。」
池を望む渡殿の前で立ち止まり、祥穂の方を振り向いてあかねは笑った。
見映え良くするにも限界があるけれど、出来るだけの努力は試みてみたいと思う。彼女はそう言った。

「ということなので…祥穂さん、装束を選ぶのと身だしなみの整え方、明日で良いので手伝ってくれませんか?」
祥穂は、満面の穏やかな笑顔であかねを見る。
「勿論喜んでお付き合いさせて頂きますわ。私にお任せ下さいませ。これでも縫殿寮と織部司に代々親族が上がっておりますの。お召し物に関しては、少々自負がありますのよ。」

可憐という言葉が、心を現す事も出来るとしたら、きっとこんな彼女の事を言うのだろう、と祥穂は思った。
土御門家で彼女が神子であった時から、こうして今まで仕えているのだが、その初々しさはあの頃から変わる事が無い。
一人の少女が恋をして、そして妻となり母となった現在でも、微笑ましいほどの一途な心こそが、きっと友雅を惹き付けて離さない所以なのだと思える。

「宮中の女御様方に劣らないような、そんなお姿にお仕立て致しますわ。ご安心の上お任せ下さいませ。」
艶やかよりも、鮮やかに。きらびやかよりも瑞々しく。
華やかよりも愛らしく---------。

そんな風に仕立ててやろう、と祥穂は思った。


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Megumi,Ka

suga