小さな未来

 002
その日、治部省に到着したと同時に、鷹通は権少輔に声を掛けられた。
話を聞くと、今朝方左近衛府の少将殿がやって来て、重要な話があるとのことを言い残していった、という。
昼過ぎに宴の松原で待っている、と言うので来てみたのだが……辺りには姿が見えない。
言伝で聞き間違いでもあったのだろうか、と考えているうちに、遠くからこちらにやって来る友雅の姿が見えた。
「逆に待たせてしまって悪かったね。早くに来ていたんだが、造酒司の大輔の顔を見たものだから、ちょっと酒の話をね」
「いいえ。私も先ほど来たばかりですので。しかし、一体何のご用ですか?重要な話という事でしたが…」
「まあ、何て言うかね…私的な話ではあるのだけれど。」
友雅はそう言うと、首をくすぐる髪を背中に払いのけ、鷹通の腕を引いて建物の隅に移動した。


「それで、私に主上の御前へお連れする際に、付き添いと頼めないかとの事で?」
「ああ。これはあかねにも頼まれた事でね。鷹通なら、信頼できるという彼女も言うしね。だから、こうして相談に来たというわけさ」
神子であった彼女の言うことだから、それに関しては鷹通自身断るつもりもない。更に、帝の御前に上がるという光栄極まりない機会は、緊張もあるが名誉なことと言える。
「そういう事でしたら、私は喜んでお力をお貸し致しますよ。」
鷹通の返事を聞いた友雅は、少しホッとして笑った。
「安心したよ。君なら私も信用できる。大内裏は少し堅苦しい雰囲気だけれど、逆に君みたいな真摯な男ならお似合いだ。」
彼ならば、いずれ…おそらく近いうちに、昇殿する権利を自分で得るに違いない。今回は、その予行練習なものだ。今のうちからあの独特な空気に慣れておけば、あっという間に出世街道をひた走るだろう。

「ですが、神子殿はお寂しいのではないですか?かりにもご自身のお子さまをお連れするというのに、ご一緒出来ないというのは…」
彼女のことだから、本当は友雅と一緒にいたいだろう。我が子と離れたくないと思っているのではないか。
だが、そんな彼女を帝の前に連れて行くのは…やはり難しいことなのだろうか。

すると、友雅は鷹通の肩を叩いた。
「その事が、一番の問題なんだがね…。鷹通に頼みたい事というのは、実はそれについてなんだよ」
表情は穏やかそうに微笑んでいるが、どことなく深刻な雰囲気がなきにしもあらず。微妙な違いだが、それを関知出来るのは長年の付き合いのせいかもしれない。
「実はね、あかねも連れて行こうと思っているんだが…」
「神子殿を?それは…おそらくお喜びになられると思うのですが、そのようなことは可能なのですか?」
鷹通が考えているよりも先に、一足早く友雅は先手を打っていたようだ。彼女に関わることには、とにかく用意周到。昔の彼を考えると、信じ難いくらいだ。
「ま、主上は彼女のことも、生い立ちも全てご理解して頂いているし、以前特別に昇殿した経験もあるしね。許可は簡単に下りるとは思うのだけれども、問題は周囲のことについてだよ。」

二人の前を、顔見知りの各省の役人達が通り過ぎていく。
その度に一言二言を挨拶程度に交わしながら、足が落ち着くと再び友雅は話を始めた。
「殿中は、人間関係が複雑に絡まっている所だ。特に、女性同士の関係というのは、面倒なほど重苦しい空気があってね。一見して華やかな景色も、裏側はかなりおどろおどろしいものだったりする。」
帝の寵愛を誰よりも深く受けようと、その為には他の更衣を蹴落とし、罵ることもある。
それが日常的に行われている、そんな世界だ。
「だから、そんなところに女性が足を踏み入れるのはね、なかなか気を揉むことになるだろうと思われるのだよ。」
「しかし、神子殿は主上にお仕えする立場の方ではございませんから、それに関してはさほど心配される事はないのでは?」
そう鷹通が言うと、友雅は組んでいた腕を解き、軽く頭を掻きつつ空を見上げた。

「問題は…少々言いにくいのだが、私に関することで、ちょっとね」
「まさか、今になって神子殿のお心を乱すようなことではないでしょうね?」
以前ならばともかくとして、現在の友雅ならそんなことはあり得ない、と半分冗談で鷹通は言ったのだが、意に反してそれは当たらずとも遠からずだった。
「とある顔見知りの女官がいるのだけれど、彼女が問題なんだ。特別深い付き合いはないのだけれど、以前から文を送られていてね。それが…私があかねを迎えたあとも、子供たちが生まれたあとも続いていてね…ちょっと困りものなんだよ。」
「既に友雅殿が北の方をお迎えになり、若君方もいらっしゃるということを、お気づきになられていないのではないでしょうか?」
「いや、それはない。文にはそれを匂わす返事を何度もしているし、主上の御前で話した時にもその席にいたからね。ま、彼女のことはあかねにも説明してあるから、誤解されることはないのだけれど…」

ならば問題は無いのでは。
彼にとって、他の女性に誤解されようが構いはしないが、あかねさえ理解していれば良いのだろうし。
「それでは、一体どんなご心配をされているのですか?」
秋が近いのに、昼間の太陽はまだ少し夏の気配を置き忘れている。
その下で、友雅は深いためいきを吐く。

「昇殿するときに、彼女たちの部屋の前を通らなくてはならないんだよ。その時、あかねに妙なことをされると困ると思ってね…」
つまり、女の嫉妬を恐れているということか。
自分に直接的に向けられる事ではなく、間接的にあかねたちにもしもの事があったら、という事で。
「私の手が空いているなら何とかなるが、子供たちがいるとすぐには動けないだろうしね。こういう世界があることはあかねも知っているけれど、我が身となると傷つくかもしれないだろう?それは、ちょっと可哀想だからね…」
「そう言ったご心配でしたか…」

失礼かと思ったが、鷹通は思わず顔がほころんだ。
彼は真剣に考えていることなのだろうが、その理由があまりに微笑ましい内容だったので。
我が身の立場よりも、妻と子供のことを気にかけているなんて、父親らしい感情じゃないか。

「嫌がらせをする方も少なくはないからね。まかり間違って子供たちに何か被害が掛かったときは、それこそ大変だ。念には念をというわけで、鷹通には盾をお願いしたいと思ってね。」
「私がですか」
友雅は、鷹通の顔を見た。
「そう。御簾との間に立って、あかねと子供の盾になってくれると有り難い。私には子供を護る役目もあるからね。ほんの少しの距離なのだけれど、どうだろう?」

発生率は多分、思っているよりも低い。それほど神経質になることはないと思うが、それでも、もしもの事を考えてみる。
自分自身を信頼しているという前提で、彼とあかねに頼まれたら…鷹通には選択肢など存在しなかった。

「承知致しました。非力ではありますが、私がお役に立つのであれば喜んでお引き受け致します。」
「非力だなんて、とんでもない。心から感謝するよ。」
「私も、一度は神子様を御護りした身ですので。」
鷹通がそう答えると、友雅は少し安心したように微笑んだ。


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「んあー」
小さな口を指先で広げて、姫飯を柔らかく粥状にしたものを入れてやると、最近は自分から飲み込むことを覚えたようだ。
二人とも意外に食欲は常に旺盛で、いつも残さず食べてくれるのは母として安心できる。

「おや、今日は二人とも早い夕餉を迎えているのだね」
まだ空が明るい黄昏時。友雅が屋敷へと戻って来た。
「そうでもないですよ。早く寝かせないといけないから、夜のご飯も少し早くしてあげてるんですよ」
「それもそうだね。今から夜更かしなど覚えたら、後々大変だ」
あかねから匙を受け渡されて、千歳の口に粥を近付けてみると、小さな手が匙の柄をぐっと握って自分の口へと引っ張った。
元気の良い仕草に、二人は思わず声を上げて笑った。
「未来の姫君も、まだまだ元気すぎるくらいの方が良いね」
もうしばらくは成長の時期。
知識や技術を身につけるのは、まだ先のこと。それまでは、男女関係なく元気であればそれで良い。

「鷹通に今日逢って、例の事を頼んでみたのだが、快く引き受けてくれたよ。」
食事を終えた子供たちを、一人ずつお互いに抱えながら、友雅は鷹通と話したことをあかねに告げた。
「あ、そうですか、良かった!。鷹通さんなら安心ですもんね。」
彼もまた、生まれた時からこの子たちを見守ってくれている一人だ。
真面目で誠実な鷹通なら、文句無しで子供たちを預けられる。

これで安心出来た…とあかねは思ったのだが、部屋に入って来た祥穂を呼び止めた友雅が、妙なことを彼女に頼んだ。
「祥穂殿、明後日にこの子たちを主上に逢わせることになったから、それなりの用意をしておいてくれるかな。」
「承知致しました。束帯はご用意致しますか?」
「いや、公式的な事ではないから、そこまでの用意はいらないよ。ただ、あかねの装束だけは用意してやってもらえるかい?」
いきなり、そこで自分の名前が出て来るとは思わなかったあかねは、友雅が何故そんなことを言い出したのかが分からなかった。
しかし、そのあとに続いた彼の話を聞いているうちに、状況が予想もしない方向に来ていることに気付いた。

「そんなに豪勢な仕立てのものじゃなくて良いんだ。ただ、主上の前に出るのに失礼ではない程度で、だからと言って女房方に文句を言われないくらいのものを、用意してやって欲しい。」
「ちょ、ちょっと待って下さい!友雅さん…ま、まさか私も一緒に連れて行くつもりなんじゃ……」
まさかそんな、自分が主上の御前に上がるだなんて。
そりゃ、神子だった頃に何度か帝とは顔を合わせ、会話を交わしたこともあるけれど…今は状況が違う。
友雅は官位を持っているが、もうあかね自身はただの貴族の奥方という立場であって、そんな簡単に殿中を行き来出来るわけがないのに。

あかねが動揺しているのに関わらず、友雅は千歳を抱いて平然としている。
「大丈夫。主上のお許しは既に頂いたよ。子供たちの親なのだから、夫婦揃って参内してもらいたいとおっしゃっていたよ。」
子供たちと一緒に、離れないでいられる…。それは、あかねにとっては願っても無いことだった。
でも、それでもやっぱり少し不安が残る。不安というか、緊張に近い感覚だが。
「そんなに心配そうな顔をしなくても良いんだよ。鷹通が何かと手を貸してくれると、約束してくれたからね。何も心配しないで、あかねは子供たちを抱えて私の後を着いてくれば良いのだから。」
「はあ、ええまあ…そうなんですけどね…」

友雅は帝の前に行くことは日常茶飯事だから、改まって気にかかることなどないかもしれないけれど、あかねの方はそうも行かない。
殿中と言ったら、絢爛豪華な女性たちが屯す場所。そこに行き来する友雅の立場を思うと、不手際は許されない。
妻の過ちが夫の品位を損なわせることだってあり得る。

どうもすっきりしないあかねの表情を見て、友雅は抱いていた千歳を膝の上に乗せた。あかねの膝の方にいる文紀は、母である彼女の顔をじっと眺めている。

「あまり余計なことは考えない方が良いよ。自分がしくじったら、私の評判に傷がつく、とか…ね。」



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Megumi,Ka

suga