小さな未来

 001
暦ではすでに秋となっているのだが、まだ夏の名残が風に感じる。
それでも蒸し暑い日々は少なくなっている。生まれて半年ほどの赤子にとっては、やっと過ごしやすい時期が来たと言えるだろう。

汗ばむ夏は、絹のように柔らかい肌が汗で痛まないか、気が気でならない。
毎日産着を替えて、ぬるい湯で身体を拭いてやって、汗をかかないように風をあおいでやって……とにかく大変だ。母親だけでなく、侍女や乳母たちも交代しながらの常勤状態だ。

「奥方様、天花粉をご用意致しましたよ」
祥穂が黒い壺に入った白い粉を持って、子どもたちに着いているあかねのところにやって来た。
キカラスウリという植物の根から取れる粉は、ベビーパウダーと同じ作用をするらしい。汗疹が気になる時期には、欠かせないものだ。
とにかく、まだしっかりと完成されていない赤子の肌は、ちょっとしたことで傷つきやすい。いつも以上に、手を掛けてやるのが親の役目だ。

「ですが、お二人とも汗疹などは出来ておりませんね。奥方様と共に、皆でお世話をした甲斐がありました。」
「そうですね。もうそろそろ、そんなに汗をかく時期じゃないですもんね。」
「これからは、急に肌寒くなる事も御座いますから、お風邪をこじらせないよう注意しなくてはなりませんが」
祥穂がそう言うと、あかねは文紀を抱いてあやしながら、はあー…とため息をつきながら天を仰いだ。
「まだまだ、大変なことは続くってことですねー…」
と言いながらも、腕に抱く我が子の素直な瞳を見ると、そんな育児の疲れなど忘れてしまう。
彼の面影を残した、艶やかな色の瞳。でも、どこか自分にも似ているような……。どことは、はっきり言えないけれど。
それは、籠の中で眠る、もう一人の幼子にも通じる。それこそが、二人の愛の形を意味する。


渡殿から、足音が聞こえた。
この時間に帰宅するのは珍しいけれど、彼のことだから何のかんのと話をつけて来たのだろう。
『家で可愛い殿方と姫君が、私の帰りをお待ちかねなのでね』なんて、いつもの台詞ですり抜けるのが、目に見えるようだ。

「殿がお戻りでございます」
侍女が戸をゆっくり開けると、今し方帰宅したばかりの友雅が、部屋の中へと入ってきた。
「ただいま。屋敷の明かりが消えないうちに戻れるのは、やはりホッとするものだね。」
友雅は、まずあかねのそばに来て、唇で彼女の頬に触れると、その腕に抱かれている文紀を受け取った。
男児にしては大人しい文紀だが、自分の父が既に分かっているのか、小さな手を広げて友雅の顔をぺたぺたと触りたがる。

「おかえりなさい。早く戻ってもらえるのは、私も嬉しいですよ。夕餉も一緒に取れるし、この子たちもお父さんと少しでも長くいたいだろうし。」
「この子たちだけじゃなくて、君は言ってくれないのかい?私と長く一緒にいたいって。」
顔を近付けて、いとも簡単に彼は愛妻の唇を奪う。例えそこに、祥穂がいたとしてもおかまい無しだ。
「…もうっ!祥穂さんがいるのに…!文紀だって、びっくりしちゃうじゃないですか!」
紅色に頬を染めて、少し口を尖らせてみたりするけれど、決してそれは本気で拗ねているわけではないことは、百も承知だ。その顔が愛らしいから、こういった悪戯は止められない。
「構いませんよ、奥方様。仲良きことで、宜しいではございませんか。若君様も大人しくされていることですし。」
父と母に挟まれた形になっているのに、文紀は驚く様子もなく両親たちの顔を、指をくわえながら見上げている。
「小さいのに、文紀は理解のある良い子だね」
そう言って友雅は笑うと、ふわふわした文紀の細い髪を撫でた。

「では、そろそろ夕餉の支度も終わる頃でしょう。殿、今宵は如何致します?膳をお召し上がりになりますか?」
「そうだな…それは後で良いよ。せっかく雲一つない夜だから、まずは月をゆっくりと愛でたいね。」
つまり、食事よりも喉を潤す食前酒、ということ。
「承知致しました。では、お支度は眺めの良い西の釣殿の方に、ご用意させて頂きますのでお待ち下さいませ。」
祥穂は一礼して、部屋を後にした。

「千歳は……眠っているのか。父上を出迎えてくれないのは、少し淋しいねえ」
籠の中で小さな寝息を立てる千歳の、ふっくらした頬を指先で触れてみるけれど、彼女は目を覚まさない。
文紀と違って、女児にしては肝が据わっているのか。なかなか先が頼もしい姫君だ。

「…それにしても、この愛らしい二人を、どうしたら良いものかね」
彼が、ふとそんな事を漏らした。
「どうかしたんですか?この子たちに関わることで、何か困ったことでも……?」
子どもたちの事に関する事なら、あかねも無視できるはずがない。
何せ、生みの親である実の母なのだから。
「いや、この子たちに直接関係することではないのだけれど……問題は主上のことでね」
あかねは首をかしげた。

四位少将という立場を別にしても、以前から帝の懐刀と名高い彼のことだ。
宮中でも各大臣よりも、帝に近い場所にいると噂されるように、くだけた世間話も彼になら打ち明けることもあるに違いない。
その証拠に、文紀たちが生まれた時には、充分なほどの祝いの品を届けられた。
法親王である永泉の存在も大きいが、やはり友雅自身が帝に信頼を得られていてこそ、だろう。
「主上に、何か困ったことでも?」
友雅はともかく、二人の子どもたちに関わるとは思えない…が、実はそうでもなかったのだ。
「実は主上がね…一度で良いから、この子たちに逢ってみたいと申されてね。」
「えっ…文紀と千歳に!?な、何でそんなことを…。まだ、生まれて半年しか経っていなんですよ?」
まさか、千歳を早いうちから昇殿させておいて、いずれは…なんてことは、そりゃあ無茶な推測でしかないけれど。

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「友雅の屋敷の幼子は、もうどれくらいになる?」
その日は近づいている行幸についての話をするために、帝の御前へと呼び出された友雅だったが、他愛もない会話を交わしているうち、いつのまにか話は彼の子供の話題にすり替えられていた。
とは言っても、最近はもっぱら、帝からの話はこの手のことを投げかけられるのが多いため、今更珍しいことではない。

「産み月が弥生の頃でしたので、かれこれ半年を過ぎた所でございます。」
「そうか。早いものだな…半年か。ようやく起き上がれる程になったかな?」
「はい。まだ立ち上がるのは無理なようですが、四つん這いで少し動くくらいの事は覚えたようですね。」
「一番愛らしい頃だな。これから育って行くのが、そなたも楽しみだろう。」

こんな調子で、顔を合わせると子供たちの様子を帝は聞きたがる。
まるで自分の身内の子を愛でるかのようだ。
最近は昇殿することがあっても、以前のように長逗留することは少なくなった友雅との接点は少なくなりつつある。
だからこそ、そのたびに成長していく彼の子の様子を聞くのは、帝にとっても楽しみの一つだった。

「それで、だ」
突然帝は扇を畳み、手前に少し身を乗り出した。
「友雅がそこまで愛慕う若君と姫君に、私にも一度逢わせてもらいたいのだがね」
「……それは…少々難しい相談ですね……」
予想もしない問題を投げられた。
まだ一子にもならない二人を、帝の御前に連れていく方法…?
そんなものがあるのか、全く友雅には思いつかなかった。

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「まさか、主上をここにお連れするわけにも行かないだろう?」
「そうですよねえ……」
いくら殿上人の屋敷とは言え、一介の貴族の屋敷と大差ない友雅の屋敷に、帝が参るなんて常識では考えられない。
「もうすぐ仁和寺への行幸が近いので、その際は私も同行するのだけれど…そのついでに立ち寄れないか、とも言うんだが。でもね、車副たちをぞろぞろと従えて、我が家にお連れするわけには…ねえ?」
「……目立ち過ぎますね」

閑静な屋敷が立ち並ぶこの辺りは、それ相応の位の者が行き来することも少なくない。豪奢な牛車に多くの供を連れて歩く姿は、比較的頻繁によく見られる光景だ。
だが、相手が帝となると…。
「だからと言って、主上のお言葉では無下にするわけにも行かなくてね。どうしたものかな…と。」
この辺りが、宮仕えの厳しいところだ。

なまじ、帝の側近的立場にいつのまにか昇ってしまった手前、突っ込まれた話題であっても、帝自身に対して危険の伴う問題ではない限り、肯定する側の答えを極力探さなくてはならない。
ましてやあかねが身ごもった時から出産に至るまで、様子を聞きながら事細かい手配まで施してもらった手前上、友雅の本音としては、その礼を兼ねてでも逢わせたいのはやまやまだが…。

「まさか、赤ちゃんを二人連れて昇殿なんか、出来ないですもんねえ…」
物心つく時期になれば別だが、まだ歩く事さえ覚えていない乳児を、友雅一人で連れて行けとは言えない。一人ならともかくとして、二人を抱えては身動きも取れないだろう。
そんな彼の姿を想像するだけでも……苦労は目に見えている。
だが、だからと言って他に手段は思い浮かばない。

「……でも、それくらいしか方法はないかな…」
「だけど、友雅さん一人では、ちょっと無理でしょう?でも…それなりの身分じゃなければ、昇殿なんか無理だろうし…」
本当ならば、母としてあかねが付き添いたい気持ちはあるけれど…そう簡単に事が運ぶ問題ではない。
「他に…誰か頼めないですかね?鷹通さん…は…まだ昇殿出来ないんでしたっけ?」
「今年彼も大丞に上がったけれど、まあ彼も八葉として主上には名が通っているからね。普通なら六位では無理だけれど、鷹通なら平気だろう。」

それじゃ、仕方がないが何とか鷹通に頼むことは出来ないだろうか。
彼なら友雅と共に天地の白虎という任に就いていたし、それだけ気の知れた仲だ。理由を話せば、分かってくれるに違いない。
「鷹通さんと二人なら、連れて行けませんか?」
友雅は少し考えたが、状況としては微妙だ。
例え昇殿が可能だとしても、そこから先、帝の御前まで足を踏み入れるまで可能かどうか。

まあ、そこまで行けば後は何とか両手で抱えることも出来るか。
小さいとは言えど成長の様子は体重の変化に現れていて、日々ずっしりと重みを感じるようになってはいるが、何とかなるだろう。
「彼しかいないだろうね。泰明殿は、最近晴明殿のお付き添いが多忙なようで、お陰陽寮もご無沙汰みたいだし。」
明日にでも、何とか尋ねてみよう。
帝の頼みと言えば、断る理由などないだろうが。



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Megumi,Ka

suga