Little Princess

 002
「でね、保育園の先生が、まゆきはお絵かきが上手って誉めてくださったの」
「そうか。昔からクレヨンがお気に入りだったからねえ」
友雅はまゆきを膝の上に抱えて、隣で話しかける千歳の声に耳を傾けていた。
早いもので、この春からまゆきも保育園。
入園したのは千歳が通っていたところと同じ。教職員も世話になった人が殆ど残っているので、何かとコミュニケーションも楽で助かる。
「とーさま!ちゅーりっぷ!」
まゆきは開いたスケッチブックを、友雅の方に差し出した。
かすれた柔らかいクレヨンで描かれた、赤やピンクのチューリップの花。
「おや、これは良い名画だね。うちのミュージアムで展示しようか」
とっておきの表装を施して、一番見映えのするエントランススペースに…というのは無理だけど、そのかわりこの部屋の壁に飾るとしよう。
しおれて枯れる運命の生花よりも、永遠に咲き続けるこの絵の方がずっと良い。

デスクの上に置かれた電話が、軽やかな音を鳴らして部屋の主を呼ぶ。
友雅はまゆきを千歳に預けると、すぐに受話器を取り上げた。
「父様はお忙しいのね」
「そうよ。でも、ちゃんと約束は守ってくれるから、大丈夫」
今日は、これからみんなで書道コンクールの展示作を見に行く。
文紀の書いた作品が金賞を受賞したので、子どもたちの帰宅時間に合わせ、彼も早めに切り上げる予定だった。
しかし、友雅の電話はまだ終わらない。
もしかして、急な仕事でも入ったのだろうか。髪を掻きあげる表情は、少し戸惑いの色が見える。
「…どうしたものかねえ。取り敢えず、少し時間をくれるかい?」
口振りを聞く限りでは、やはり予想外の事が起こったようだ。
ようやく電話を終え、小さなため息を吐いてから友雅は戻って来た。
「何か急用ですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけれどねえ…」
あかねの声に答えると、彼は隣にいた千歳の頭に手を伸ばし、柔らかな長い髪を優しく撫でた。
「母様と向こうでお話をしてくるよ。その間、まゆきをお願い出来るかな?」
「ええ、大丈夫よ!」
大きな瞳を輝かせて千歳はうなづくと、まゆきを人形のように抱き寄せた。

立てかけられたパーティーションの裏へ、友雅はあかねを連れて行った。
「どうしたんですか?急なお仕事なら、私が連れて行きますから大丈夫ですよ?」
定時で切り上げるために、毎日予定はしっかり組んでいる彼だが、時には思い掛けないことが起こることもあるだろう。
車は運転手が着いているし、子どもを連れ歩くくらい一人でも平気だ。
無理して仕事を回避しなくても…とあかねは切り出したが、彼が頭を捻っていたのは仕事のことではなかった。
「仕事ではないのだけどね。それよりも、ちょっと複雑な問題…かな」
複雑な問題?
今度はあかねが首をかしげると、友雅は腕を組んで窓ガラスに背中を投げかけた。

「…ええっ!?千歳を!?」
部屋の隅から母の大きな声がしたので、千歳がソファから身を乗り出した。
「なあに?母様どうしたの?」
「あ、ううん…何でもないわよ」
あまりにも唐突な話を聞かされて、つい大声を出してしまった。
だが、それにしても…本当にこれは予想外の事だ。
改めて気を落ち着かせ、今度は少し声を潜めて友雅に尋ね返した。
「ホントなんですか?でも何で突然…」
「詳しいことは分からないがね。どうする?下でまだ待機しているようだよ」
どうするかと問われても、こればかりは何と答えていいのやら。
一応、母親であるあかねの意見も聞いてから、という理由で返事を保留してもらっているらしい。
「粘られても時間を食うだけだし、話だけでも聞いてみるかい?」
「はあ…」
友雅は再び受話器を取り、受付への内線番号を押した。

しばらくして、インターホンの音が部屋に響いた。
あかねに子どもたちを任せて、友雅が来客を出迎えに行く。
しかし、現れたのはつい先ほどまで、この部屋でカメラを構えていた青年だった。
「申し訳ありません。ご無理を言いまして」
「正直、戸惑ったけどねえ…。まあ、取り敢えず中へどうぞ」
失礼します、と再び彼は部屋に足を踏み入れる。
応接セットのソファには、廊下ですれ違った若い女性と子どもたちが座っていた。
「改めて紹介しようか。妻のあかねと、長女の千歳、そして次女のまゆきだ」
左から順々に、友雅は彼女たちを紹介した。
「こんにちはっ。さっき、廊下でお会いしましたわね」
「あ、はい」
小さな子ども相手ながら、何故かこっちが恐縮して敬語になってしまう。
大きな瞳に、桜色の頬。まっすぐ相手を見て、朗らかな笑みを浮かべる少女。
彼はすぐにポケットから名刺を取り出し、友雅とあかねにそれぞれ一枚ずつ差し出した。
「へえ、出版社専属じゃなくフリーなのか」
裏側を見ると、主な撮影履歴などが簡単に記されている。
よく目にする雑誌のグラビア写真や、ファッションブランドの写真をメインに活動しているらしい。
「お写真を撮るお仕事をされてるのね」
あかねが手にした名刺を、隣から覗き込んで千歳が言った。
難しい文字は全然まだ読めないが、カメラのマークを見て分かったのだろう。

「で、このお兄さんがね、千歳の写真を撮らせて欲しいんだそうだ」
「私の?」
イベントや行事がある時は、友雅かあかねのどちらかがカメラを手に写真を撮る。
でも、今日は何でもない日だし着飾ったりもしていないのに、何故写真を撮るのか千歳は不思議だった。
しかも初めて会った知らない男性に、写真を撮られる理由も分からない。
「3〜4枚撮るだけだって。良いかい?」
「ええ、平気よ」
理由が分かっていない分、変に勘ぐるようなこともしなかった。
素直にうなづいたのは、友雅が声を掛けてくれていたからだろう。子どもたちが、両親の言葉を疑うことはない。
ソファから立ち上がった千歳は、父の言うとおりに壁を背にして立つ。
「じゃあ、真正面と斜め、横、後ろ姿の4枚で良いでしょうか」
彼の指示に習い、四方から角度を変えてシャッターが切られる。
くるりとゆっくり一回転すると、やがて再び愛らしい顔が正面を向く。
「こんな感じで良いのかい?」
「はい。ご協力ありがとうございます」
彼はカメラのボタンを操作し、撮影したばかりの写真をプレビューして確認した。
そこに映る少女の姿は、じっと見続けていても飽きがこない。
時を経つのも忘れるほどに。

「さっきも話したけれど、不要なところへの流用は厳禁だよ」
穏やかな口調ではあったが、少し厳しさを込めて友雅は彼に念を差した。
千歳の写真は、決められた相手にのみ提示すること。
芸能関係などのメディアには、一切公開しないこと。
そして、相手が好意的な答えを返して来たとしても、それにこちらが応じるとは限らないということ。
「承知しております。厳重に保管させて頂きますので」
「ああ、頼むよ。我が家の宝物なのだからね」
こんなご時世、一枚の写真がどこの誰の手に渡るか分からない。
過保護すぎるとは思うが、女の子だけに神経質にならざるを得ないのは当然。

「本当に、突然のお願い失礼致しました。後日、またご連絡させて頂きます」
たった4枚の写真だったが、言う通りこれは門外不出の宝物だ。
撮影データは、しっかりバックアップしておかねばならない。
「お仕事がんばって下さいませね」
あかねに寄り掛かっていた千歳が、そう言って彼に微笑みかけた。
人懐っこい愛らしさと、子どもらしい無邪気さと。
でも、どこかドキッとする。
きっと誰もが、そんな気持ちになる。そんな気がする。



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Megumi,Ka

suga