金銀砂子

 003
そしてこちらは、清涼殿。
「今宵は、良い星空が望めそうだな」
風に揺れる笹の音に耳を傾け、青く染まった天空を見上げて帝はつぶやいた。

七夕の夜は、宮中で儀式を伴った宴が開かれる。
”乞巧奠”と呼ばれるその儀式は、東庭の間に整えた台の上に供え物をし、香を焚きながら酒や歌を楽しむものである。
よくある暑気払いの宴と大差なく思えるが、供え物の方角や細々とした作法などもあり、考えているよりも支度が容易ではない。
「供え物は、すべて手配を済ませております。内侍所にも、白粉を用意をして頂いておりますし、準備は滞り無く進めております」
「そうか。夏越の祓が済んだばかりだというのに、なかなか落ち着かぬな」
帝は扇をはためかせて後ろに下がると、友雅は静かに御簾を下ろした。

「中宮様の賑やかなお声がないのも、いささか物足りないのでは御座いませんか」
「確かにな。だが、しばしゆったりと過ごすのも悪くはなかろう」
以前ほどではないが、皇后と中宮の周りは相変わらず拮抗している。
本人同士が穏やかに関係を紡いでいるというのに、それらを周囲が妨げているのだから困ったものだ。
高貴な立場であればあるほど、家督や後継ぎに振り回される。
妻が多ければ多いほど、面倒な人間関係も増える。
たった一人だけを愛していられれば、こんなにも幸せに生きていられるものなのにね…と、非礼と知りつつもそんなことを思ったり。

だが、帝も時折同じようなことを口にする。
……迷いのない唯一の愛情が、どんなに素晴らしいものなのか。
そなた達を見ていると常に思う----と。


「しかし、中宮と藤姫殿も今宵は七夕の宴、か」
元々最初は藤姫のみが帰省する予定だったのだが、自宅で皆が集まって宴を開くと聞いて、自分も帰りたいと中宮が言い出したのだ。
皇后がいるのだし、中宮の自分が儀に参席せずとも問題はないはず、と帝に直談判した結果である。
「まあ、本音を言えば私とて、宮中の宴など放り出して彼女らの宴に参加したいものだよ」
冗談なのか本気なのか分からない言葉を、帝は笑いながら話した。
「もう少々年が経っておれば、そなたの子らも招待出来たものだが…。ああ、本当に残念だ」
「さすがに、子どもには高貴すぎる場でございますし」
生まれたばかりの頃から、何かと理由をつけ参内を許可されている子どもたち。
そのたび彼らと楽しそうに戯れる帝の姿を思うと、有り難いやら緊張するやらで親はいつもハラハラし通しだ。
幸い、大事になるような無礼をしでかしたことはない。
というか、そんなことも笑い飛ばす勢いで、愛でてもらえているのは事実。

「今宵の儀、早めに上がって構わぬぞ」
漂う軽めの香を纏い、帝は扇をひらりと動かした。
「こちらで行う儀のせいで、宴にも最初から参席出来ぬのだろう。それでは、あの子らが寂しかろうに」
左近衛府の大将である友雅には、宮中で行われる帝中心の儀に同席する役目が多く存在する。
独り者の頃は適当にこなした仕事も、今はそうもいかない。
それでも、帝に寵愛を受けている子どもたちのおかげで、父の面目も幸い保たれている。
「早いうちに、他の者に事の流れを伝えておくのだな。そして、出来るだけ早く土御門へ参れ」
「…お心遣い痛み入ります」
友雅はそう言って、深く頭を垂れた。

「おお、そうだ。ならば今すぐに手土産を支度させよう」
扇をぱたんと閉じた帝は、女房を数人呼び寄せた。
「桃と梨を少し持って行け。ああ、干鯛もあるか。熟した瓜も甘くて喜ぶのではないか?」
「主上、しかしそれらはすべて、供え物として用意したもので…」
「少しくらい減らしても、別段構わぬだろう。良い良い、遠慮せず持って行け」
こちらが困惑してしまうほどに、帝の子どもたち贔屓は相変わらず果てしない。


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四季を通して花の絶えない庭に下りて、子どもたちは気ままにはしゃいでいる。
池を覗いたり、川辺に手を浸してみたり。
初めて見る花や草花を見て、香りを楽しんだり眺めたり。
「本当にお元気ですこと。心が和みますわ」
あかねたちは簀子に身を寄せて、冷たい麦湯を味わう。
三分の一ほど下ろした御簾が、丁度日差しを遮って心無しか涼しい。
「暑い時期ですけれど、お体は平気?まゆき様は特に小さいから、ご病気などしていないかしら」
「いえいえ、もう元気過ぎるくらいでなんですよ」
中宮の問いかけに、あかねは笑いながら答えた。
食欲もあるし、一日中屋敷を走り回っているし。
付き合うこちらが疲れてしまうほど、元気いっぱいで病魔さえ逃げるほどだ。
「ふふ、私どもまで元気になってしまいそうですものね」
しばらく庭で遊び、ひと休みしようと三人が高欄を上がって来た。
「たくさん遊ばれましたわね。喉が乾かれたでしょう?」
まゆきは藤姫の膝に寄り掛かり、彼女が注いでくれた麦湯を少しずつ口にした。


バサバサッ。
雑草を駆け抜ける時のような音が、庭の方から聞こえる。
それとほぼ同時に、祥穂が彼らの元にやって来た。
「ただいま頼久が戻りました。イノリ殿もご一緒です」
祥穂が告げると、赤い髪の青年が大きな笹竹を背負って、頼久と共に現れた。
「よぉー!みんな揃って涼んでるなあ。こっちは汗だくだぜ〜?」
「まあ!すごい大きな竹っ!!」
たった一本の笹竹なのに、緑の葉はわさわさと生い茂り、真っすぐに伸びた竹は見た目よりも頑丈そうだ。
「これなら、いっぱい飾り付けできるだろー」
子どもたちはそれらを見て、一様にきゃっきゃと騒ぎ出す。

「こういうことに関しては、イノリに敵う者はおりませんね」
頼久は笑いながら彼らを見ると、今日の出来事を簡単にあかね達に話した。
そして、袋に溢れるほど詰めて来た桑の実を、目の前に差し出す。
「わあ…真っ黒な実。これ、何なんですか?」
木いちごのようだけれど、まんまるじゃない。赤いというより本当に黒という色。
色ならブルーベリーに近いが、京にあるわけないし形も違う。
「あ、それ桑の実。黒くなってると熟してて、甘酸っぱくて上手いんだぜ!」
イノリが高欄の横に竹を括り付けながら、あかねたちが凝視しているものに向けて、そう言った。

「母様、すぐに飾り付けを始めなくちゃ!こんなに大きいんですもの、用意が大変ですわ!」
「ふふ、そうねえ。じゃ、頑張りましょ」
色紙で輪を作って、鎖につなげて飾ったり。
折り鶴や提灯や星形の飾りをたくさん作って。
たった一枚の紙でも、折り方の工夫で色々なものが出来ることを、千歳たちは母から教えられた。
「皆様がお見えになるまでに、立派な飾り付けを致しましょうね」
この日のために、屋敷中から集められた和紙や端切れが、女房たちによって運ばれてくる。
あかねや子どもたちでは到底手が足りないので、ここからの作業は女房やイノリたちも参加。
「俺、こういうの苦手なんだけどなー」
ブツブツ言いながら紙を折るイノリだが、職人である彼が不器用なはずはない。
最初はぎこちない手つきでも、あっという間に綺麗な鶴が出来上がる。
「ほら、やっぱり。イノリくんて、何のかんの言いながら上手いんだもんね」
子どもたちがいても、八葉の彼らがいると神子の頃に戻ってしまう。
この屋敷で藤姫とともに、過ごしていたあの頃を思い出す。



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Megumi,Ka

suga