傍らに、春

 002
そこまでは、いつものほのぼのした話だったのだ。
問題はそこから。
祥穂が水を入れた壺に、桜の枝を生けていた時のこと。

「わああーん!!どうしようーっ!!!」
それは紛れもなく、千歳の声だった。
更にその後に続いた大声。
「うぎゃぁああーん!うわぁぁあーん!」
一体何事か!?
千歳とまゆきの声が響き、慌てて祥穂は花などそっちのけで寝所へ向かった。
二人の声に気付いて、他の侍女たちも揃って彼らの部屋に駆けつけると、そこには泣きじゃくるまゆきと半泣きの千歳。
あかねはまゆきに乳を与えながらも、手元に置いたままにしていた角盥を引き寄せて、冷たい水の中に千歳の手を突っ込ませている。

「奥方様、一体どうなさいました?」
「あ、祥穂さん…千歳が軽い火傷をしたみたいで…。すいませんけど、薬を持って来てもらえませんか?」
火傷をした?
だから水に手を浸しているのか…。
「千歳様、ちょっとお手を見せて下さいませ。」
濡れた手を水から引き上げ、祥穂は彼女の手のひらに目をやる。
幸い痕は酷いものではなかったが、やはり少し赤くなって腫れている。

「あのっ…今の声は何ですかっ!?」
今度は血相を変えて、文紀が部屋に飛び込んで来た。
弓の練習から戻ったばかりなのに、そこに二人の妹の大声が聞こえたら、慌てて駆けつけて来るだろう。
「痛みがありますか?」
「…ううん、あまりないけど…。でも、赤くなっちゃったわ…どうしよう…」
困り果てている千歳の隣で、あかねに抱えられたまゆきは、今も泣き続けている。
「まゆき…ごめんね。びっくりしちゃったでしょ?」
「びっくりしたのは、母様の方よ。もう…あんなに火桶に手を近付けたら、火傷するに決まっているでしょ?」
自分の手よりも、泣いている妹に気を取られている千歳に、あかねは呆れて頭を抱えた。



「-----で、結局どうしてまた、火桶に手を近付けたりしたんだい」
「だって、まゆきを抱っこしてあげるのに、手が冷たかったら可哀想でしょう?」

………くっ。
千歳は大真面目に答えたのだろうが、ここで笑い声を堪えようもない。
「どうして?どうして父様笑うんですのっ!?まゆきが冷たい手で触られたら、嫌がるじゃありません?」
「うん…まあね…。たしかにまゆきも、冷たいのは嫌だろうけれども…ふふっ」
驚かされるよ、その無頓着ぶり…というより、真っ直ぐすぎる心の輝きに。
自分の手がどうなるかも考えずに、妹のことを最優先…か。
おかげで、こんなに手を赤くして…。

「もうちょっと気をつけなさい。まゆきだって、姉様が怪我なんかしたから、心配してびっくりしちゃったのよ。」
すっかり落ち着いたまゆきを抱いて、あかねが千歳を窘める。
それを見て、また友雅は笑い声を止められなくなった。
「…何ですか友雅さん…」
「いや、やっぱり親子だなあと思ってね…」
どうして私が笑っているか、君はおそらく気付かないんだろうけれど。
そういうところが、またよく似ているよ、千歳と君は。

出会い始めの頃---まだ私が君に仕える立場でしかなかった頃。
君も同じように、自分の事なんか顧みずに、他人の事に必死になっていた。
そのおかげで自らが傷つくと分かっていても、それでも君は真っ直ぐ飛び出して行って…そのたびハラハラさせてくれた。
でも、それと同時に君は、私に本当の優しさというものを教えてくれたんだよ。

「友雅さん?」
何も話さずに彼は、あかねの方を眺めては微笑んでいる。
甘く優しげな、その瞳で彼女を捕らえて、幸せそうにただ静かに微笑んで。


「あーんー」
ひょいっと小さな手が、友雅の方へ伸びて来た。
両手を懸命に振り回して、何かを言いたそうにまゆきは父に手を伸ばす。
「おや、父様に抱っこのおねだりかい?」
手を広げた友雅の腕に、あかねはまゆきを受け渡す。
力なんてほとんどないに等しいのに、ぎゅうっと小さい手で彼の袖を握る。
だが、しばらくするとまた手を出して、ばたばた動かし始めた。
「うん?何か欲しいのかな?」
「お乳はもうあげましたよ。お腹空いているわけじゃ、ないと思いますけど。」
けれどもまゆきは目をきょろきょろさせ、相変わらず何か欲しそうに手を動かしている。

「ね、もしかしてまゆき…千歳に触りたいんじゃないかな?」
「え?私に?」
文紀の言葉に従って、友雅はまゆきを抱き起こし、千歳の顔のそばに近付ける。
と、その手がぐっと伸びたかと思うと、彼女の頬にぴたぴたと触れた。
「あんあーん」
ぴたぴた、ぴたぴた、触っては妙にニコニコして、嬉しそうにはしゃぐまゆき。
「頬ならきっと冷たくないと思うよ。さっきまで火桶に当たってたもの。」
「そうかしら」
「ふふ…頬を擦り寄せてあげたらどうだい?」
言われるように顔を近付けると、まゆきはさすったり叩いたりして、きゃらきゃら笑う。

「ここは大人しく、交替した方が良さそうだねえ。」
そう言って友雅は自分の腕から、そっとまゆきを千歳に受け渡した。
これも慣れというものか。
まだ自分だって幼いくせに、赤子を抱く格好も最近は様になって来ている。
「ごめんねまゆき。姉様これからは気をつけるから、泣かないでね」
よく似た顔で笑いあう姉妹を、友雅たちはのんびりと眺める。
「まゆきはすごいねえ。生まれたばかりだというのに、姉上のご機嫌を直す術を分かっているよ。」
「ホントだ」
友雅とあかねに挟まれている文紀も、思わずくすくすと笑ってしまう。
言葉も放せない小さな身体が、こんなに自然に笑顔を生み出してくれる。
彼女の存在は、なんて大きなものなんだろう。

「そうだ。今度千歳に、手袋でも作ってあげようかな」
「手袋?手を入れる袋かい?」
文字通りに解釈すればそうだが、どうやら武人が弓を扱う時に、稀に使う弓懸けのようなものらしい。
「そうすれば、外に出ても手が冷たくならないし。」
「良いね。それなら安全だ。せっかくだから、文紀の分も作ってもらえると有り難いな。」
毛糸なんてものは滅多に手に入らない。
その代わり、布を細く裂いて糸状にして編んでも良いし。
布を二枚合わせにして、キルティングみたいにして縫っても良いかもしれない。
鍋掴みみたいになっちゃうかなあ…。
でも、綺麗な布なら見映えも良いから、平気よね。
いろいろ想像を膨らませて、出来上がりを思い描くのも、また楽しい。

「冬が終わる前に、ちゃんと作ってあげるからね。」
まゆきを抱っこしてあやす千歳に、あかねは微笑みながらそう言った。




-----THE END-----




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