傍らに、春

 001
「春が近いのだな。気の早い枝は、既に開花しているそうだぞ。」
梅の枝振りを眺めながら、帝は季節の移り変わりを確かめる。
最近はめっきりと、粉雪の舞う日が少なくなった。
寒さに関しては、まだ和らぐ気配はないけれど、景色が白く染まる日はこのところ滅多にない。
御簾越しに見える庭の大振りな梅の木。
内裏のあちこちに植えられた梅には、一斉に蕾がほころび始めている。
だが、残念ながらここの蕾が花咲くまでは、もうしばらく掛かりそうだ。

「しかし、母子共に元気そうでなによりだ。まゆき殿は、日々どんな様子だ?」
「意外と賑やかですよ。一生懸命、あの子なりに話をしようとしているようにも見えますし。」
「ほう。まだ生まれて間もないというのに、賢いな。」
とは言っても、話になるような言葉など、今のまゆきに発せられるわけもない。
出す声と言ったら、"あー"とか"うー"とか、そういうもの。
けれども、まゆきにとってはそれが意思表示なのだろう。
その証拠に、侍女たちと家族の者たちへの反応は、あきらかに違いがある。

「乳母や侍女が顔を見せても、大人しくしているようなのですが、私共が顔を覗かせると、声を上げますね。」
「それはまた…愛くるしいことだな」
友雅の話に耳を傾け、思わず帝も表情が緩む。
他人に対しては気にも止めないのに、父親や姉たちの顔を見ると、手を伸ばそうとする、小さな姫君。
その仕草が、繋がり合った絆を確かめるように見えて、想像するだけでも何と微笑ましいことか。
「とは言っても、まゆき殿にかまけ過ぎて、二人の子どもたちを放っておいてはいかんぞ。平等に扱ってやらぬと、妬んでしまうからな。」
「それがですね…最近あの子たちとは競争する事が増えまして。」
彼は笑いながら、日常の想い出を話し始めた。

二日に一度ほどの割合で、まゆきを抱きながら庭を散策する。
幼いうちから外の空気に触れさせて、季節を感じさせてやろうと思い、千歳たちが生まれたばかりの時も抱いて歩いてやった。
だが、現在その役目を誰がやるかということで、その千歳と友雅は争奪戦を繰り広げているのだ。
「正直、まだ千歳にまゆきを抱いて歩くのは、無茶なのですがね。しかし、どうしても抱いて歩きたいというので…」
仕方なく一緒に同行させて、時々彼女に抱かせてやったりする。
が、再びまゆきを預かろうとする時に、千歳がなかなか手放してくれない。
「もっと歩けるから大丈夫だ、と言い張りましてね…。」
「はは…千歳殿も、妹君が可愛くて渡したくないのだろうよ。」
危ないからと言って何とか引き離すにも、千歳はそれが面白くない様子。
あろうことかこの間など、"父様ばっかりまゆきを抱っこしてずるいわ"と、拗ねられるし。
「幸せすぎて、困ってしまうことばかりだな、友雅。」
「まあ…賑やかなのは結構ですがね…。」
困りつつも、まんざら悪い気持ちはしない。
満たされた幸福感が、友雅の表情からも伝わってくる。

「近いうちに、まゆき殿の顔を拝ませてくれるかね?」
二人が誕生した時のように、あかねと一緒に参内してもらいたい。
もちろん今回は兄上と姉上も揃って、家族全員で会いに来てくれると有り難い。
「私もそなたの新しい宝を、この目で直に愛でたいものだよ」
「是非都合を合わせましたら、御前に伺わせて頂きます。」
おそらく当日はあの頃のように、宮中の者が彼らをひと目見ようとして、さぞかし大賑わいとなるに違いない。


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日が傾いてくると、少し冷え込んできた。
「まだちょっと寒いね。本格的な春は、まだちょっと先かな」
車から降りて、白く息が煙になって宙を舞う。
さっさと屋敷に入ろう。
そして愛しい者に囲まれて、春の気分を味わうとしようか。

「あ、父上…おかえりなさい。お勤め御苦労様でした。」
入口に足を踏み入れた友雅を、出迎えたのは文紀。
だが、彼の手には飴色の木箱が抱えられている。
その箱は、以前泰明と晴明から贈られたもので、中には薬効のあるものが詰められている。つまり、薬箱だ。
「どうしたんだい?薬箱なんて持って歩いて。誰か、怪我でもしたのかい?」
すると文紀は、困ったような顔で父を見た。
「あの、千歳がちょっと……」



いつもなら静かに開く寝所の戸が、突然にがらりと開いた。
「あ、友雅さん!おかえりなさい。」
部屋の中には、あかねと祥穂。籐細工の籠の中には小粒の宝珠。
そしてその傍らには、千歳が定位置とも言えるように座っている。
「ごめんなさい。ちょっとどたばたしてて、出迎えに行けなくて…」
「ああ、そんなことは構わないのだけど…」
友雅は跪くように腰を下り、あかねの隣に座って即座に挨拶の口付けを交わすと、すぐに目の前にいる千歳の手を取った。

「一体何をしたんだい?火傷をしたと文紀に聞いたよ?」
「うーん、火桶にちょっと長く当たりすぎちゃいましたの。」
花のような小さな手には、確かに赤く膨れた火傷の痕らしきものがある。
見ているだけでも痛々しそうなのに、本人はけろっとしていて。
あかねも隣で、呆れ気味に彼女を見ている。
「まったくもう…。友雅さん、聞いてくれます?千歳の火傷の理由。」
文紀はあかねの横に座って、開いた薬箱から軟膏を取り出した。
そんな彼も、妹のあっけらかんとした様子に、はあ…と溜息をこぼしている。



夕暮れが始まりかけた頃、千歳は花を摘みに庭へ出ていた。
冬もまだ去り切らない時期に、咲かせる花など椿か梅くらいのもの。
しかし彼女の目的は、四季を通して枯れることも花が尽きることもない、ここにしか咲かない桜の枝だ。
母のあかねが嫁いだ頃に、植えた桜の木はまだ背も低く枝も細い。
だがこの桜は、春夏秋冬花を咲かせ続けている。

"まゆきの近くに飾ってあげたら、とても綺麗できっと喜ぶに違いないわ。"
そう考えて、みっしり花のついた枝を数本、ぱちりと手折っていた時だった。
「千歳様、そろそろ冷えてまいりますよ。中にお上がり下さいな。」
母屋の方から祥穂の声がして、5本ほどの枝を手に千歳は戻って来た。

「まあ、お綺麗な桜の枝ですわね」
「まゆきのお部屋に飾ってあげるの。女の子ですもの、綺麗なお花を見たら絶対に喜ぶわよね?」
「ええ、もちろんです。姉上様のお優しさも併せて、さぞお喜びになりますよ」
祥穂の言葉に満足げに微笑み、花びらを壊さぬよう大切に枝を抱えて、千歳は高欄を上がる。
「さあさあ、お花は私が器に生けて差し上げましょう。まゆき様は、そろそろお乳の時間ですよ。おそばに着いてあげて下さいな。」
「本当?じゃあ、一緒にいてあげなきゃいけないわね。姉様ですもの!」
自分なりに納得して、千歳は枝を祥穂に預けたあと、袿の裾も気にせず駆け足で寝所へと向かっていった。

まったく千歳様は、可愛らしいことばかりなさいますこと。
外は未だに木枯らしが吹くこともあるのに、自分から花を摘みに庭に出たりして。
これまでなら、年の最初の雪が降った時くらいしか、冬場など寒がって外に出たくないとおっしゃっていたのに。
まゆき様のことになると、頭がいっぱいで寒さも気にならないのでしょうね。

千歳の姿を思い描きながら、祥穂は桜の枝を抱えて水場へと急いだ。



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Megumi,Ka

suga