梅雨色の楽園

 003
「まだ十代でしたから、大人っぽくなろうと必死だったんですよ」
数ヶ月前は高校生だった十八歳の娘が、結婚して妻となるのだ。
成人式を迎えるよりも早く、大人の立ち振る舞いを身につけなくてはならない。
しかも、嫁ぎ先は古くからの名家だ。
更に相手は現当主。更に更に自分よりも年上。高いハードルがずらっと連続で並んでいる。
飛び越えられるとは思えない。でも、走り出すことを決めた以上は、飛び越えられるまで努力をしなければ。
「そんな風に考えていたから、敢えてこれを選んだんです」
和装の時は、自然としとやかさを意識する。
そこに落ち着いた着物を着れば、一層大人っぽく見られるのでは…なんて、単なる思い込みだが。
しかしそんな浴衣も、何年もの間箪笥の中で眠っていた。
せっかく買ってもらったのに、いざ袖を通してみたらしっくり来なくて。
「やっぱりあの頃では無茶があったんですよねえ…」
憧れを抱くのは、自分がまだ未熟だから。
未熟なままで装いを変えても、馴染んで見えたりしないのだと実感した。

「ようやく似合うと思えるようになった?」
「っていうより、このままにしておくのは勿体ないから割り切ってみました」
結婚して、成人して、子どもを持って、母になって。
それだけ見れば誰でも大人と認めてくれるだろうが、果たして心身はどうなのか…自分でもまだ分からない。
年を重ねれば重ねるほどに、自分の未熟さに気付かされることもあったり。
「生きることが修行だよ。一生を掛けて人は成長を続ける」
誰かの受け売りだけどね、と友雅は笑いながら言った。
人はいくつもの重要な局面と向き合い、新しい解決法や答えを学んで行く。それらを繰り返しながら、ひとつずつ先に進んで行く。
それが成長というものなのかもしれない。
「自分なりのターニングポイントを、決めれば良いのではないかな」
以前と比べると上手く出来るようになった。前回より結果が良くなった。
間違いなくそれは、一歩前進した証。それを成長と考えれば、これからの励みになる。
「だから、あかねも成長したのだよ。変に色々考えたりせず割り切ったり、新しい考え方が出来るようになっただろう?」
「…確かに。そっか、そういう風に思えば…」
成長の形は、人それぞれ様々。目に見えることだけが成長ではない。

「ありがとうございます。私、友雅さんの言葉でいつも背筋が伸びます」
あかねは顔を上げ、友雅を真っ直ぐに見て言った。
「もし私が成長出来ているのなら、それは友雅さんのおかげですよ」
迷った時、立ち止まってしまった時、さりげなく彼はいつも手を引いてくれた。
彼の一言で視界が広がり、不安も消えて一歩前に踏み出せる。今までどれくらい、そんな経験をしてきただろう。
友雅の存在は、自分にとって本当に偉大だ。
「まあ、一理あるかな」
あかねの手を引き寄せて、鼻の先が触れるほど顔を近づけた。
「君を大人にしたのは、間違いなく私だしね」
意味深な笑顔が目の前を塞ぎ、唇をも塞ぐ。
口づけをしている間、タイムマシンのように記憶が過去へと遡る。
「和室であの子たちが…待ってるんですよ?」
「だね。ここは私たちの想い出が詰まっていて、つい我を忘れそうになる。困ったものだな」
まだ子どもたちが生まれる前のこと。
まだ結婚する前のこと---------------初めて二人で旅行した日の、甘い甘い想い出のかけら。
「でも、せめてキスくらい濃厚なものが欲しくないかい?」
「…断れない言い方しないで下さいよ、もう!」
ほんの少しだけ、子どもたちに内緒で。二人にしか分からない想い出を紐解いて。
今とは違う初々しい記憶が、何故かどきどきして…本当に困ってしまう。

「あの、友雅さん…」
抱き合いながら、あかねが耳元で口を開く。
「妙に静かじゃないですか?」
彼女を抱きかかえつつ耳を澄ますと、人の声も気配もまったく感じない。
あんなにはしゃいでいた子どもたちの声が、いつのまにか途絶えていた。
三人だから何かあればすぐに飛んで来るはずだけれど…。
沸き上がった胸の奥の熱をクールダウンして、二人は部屋を出ると奥の和室をそっと覗き込む。
すると…。
「天使には布団の上が、雲のようで心地良かったのかな?」
今日一日パワーを使い果たしたのか、千歳とまゆきは顔を寄せ合って寝息を立てている。
その隣で文紀は二人を見守るようにして、薄いタオルケットを掛けてやった。
「まゆきがうとうとしてたから先に寝かせようと思ったんだけど、隣で子守唄を歌ってるうちに千歳も寝ちゃって」
「しょうがないわねえ」
あかねは苦笑しながらシーツを整え、友雅は千歳を抱き上げて布団に運んだ。
改めて二人にタオルケットと夏布団を掛け、声を潜めておやすみのキスをする。
「文紀は眠くなかったのかい?」
「そうじゃないけど、二人が風邪引いたら大変だと思って」
「立派にお努めをこなしてくれたね。ナイト殿もゆっくりとおやすみ」
友雅は自分の隣に文紀を寝かせ、今度は自分が彼に布団を掛けてやった。
「じゃ、電気消しますね」
カチッと音がして照明が落とされる。
小さなフットライトだけが、部屋の片隅を照らし続ける。
どこまでも深い静寂の中、聞こえてくる子どもたちの寝息が眠りを誘った。



カーテンの隙間から差し込んでいる、柔らかな日差し。
蒸し暑さを感じさせない、さわやかな気候の中で友雅は目覚めた。
隣を見ると、まだ夢の中にいる文紀の寝顔。
しかしその周りはというと…誰一人姿が見えなかった。
「…おはよ…ございます…」
「おはよう、王子様。もうしばらく眠らせてあげたいが、姫君たちが神隠しにあったようでね」
「え!?」
がばっと起き上がった文紀は、辺りをきょろきょろと見渡した。
父の言うとおり、母の姿も妹たちの姿もない。綺麗に布団は畳まれていて、夕べ一緒に寝た痕跡さえ消えている。
「寝坊しちゃった?みんな出かけちゃったとか…」
「さすがにそれはないな。まだ朝の7時だ」
とにかく、着替えて彼女たちを探しに行こう、と友雅は文紀を促した。
布団を片付けて和室を出ると、とたんにコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
森の緑が覗くガラス張りの廊下を進み、リビングに向かうと一層香りが強まる。
「おはようございます」
あかねがコーヒーを味わいながら、のんびりと椅子に腰掛けて友雅たちを迎えた。
どこかいつもと違う風景…。ふとキッチンに目を移すと、エプロン姿の千歳とまゆきがいた。
「おはようございます!父様、兄様!」
ダイニングテーブルの上に、5つのプレート。
千歳が握るフライパンの中から、4つめの目玉焼きが皿の上に乗せられた。
そこにミニトマトとブロッコリー、ボイルソーセージを飾るまゆき。
「この間、学校で朝ご飯を作る実習をしたんですって。だから、今日は千歳が朝食担当です」
「へえ?それは楽しみだ」
実は昨日のうちに、あかねは千歳から打診をされていたらしい。
だが、例え簡単な料理といえど怪我したら大変なので、二人の手際を注意しながら監視していたのだと言う。



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Megumi,Ka

suga