梅雨色の楽園

 002
金曜日、午前11時15分。
友雅は秘書を連れて、ガラス張りの廊下を歩いていた。
エレベーターホールに着くと、スマホを取り出して素早くメールを入れる。
「奥様にご連絡ですか」
「出発するなら、少しでも早い方が良いからね」
思った通り、会議はあっさりと終わった。基本、中身は報告だけなのだから、そう時間が掛かるわけがない。
あかねには今朝『正午に会社の駐車場で』と伝えたが、この分なら少し時間を前倒し出来そうだ。
外は梅雨と思えないほど、明るい日差しが降り注いでいる。
紫陽花には薄曇り程度が似合うのだが、暦の上では既に夏なのだから仕方ない。
部屋に戻り、メールを送ってから10分過ぎた頃。1階の警備室から連絡が入った。
「では、今日はこれで上がるよ。みんなも定時で帰宅するようにね」
「承知致しました。道中お気をつけて」
社長室の鍵を秘書に預け、友雅は再びエレベーターホールへと向かった。

駐車場入口に降りると、車の前に警備員が立っていた。
車の中に向けて笑顔で話している彼は、友雅の姿を見ると一歩知りどいて深く頭を下げた。
続けて、運転席からドライバーが降りてくる。
「お疲れさまでした。中で皆様お待ちです」
キーを受け取って運転席のドアを開けると、まず助手席であかねが出迎える。
そしてすぐに、後部座席にいる千歳が。
「父様おかえりなさいませー!」
「ふふ、これから出発というのに"おかえり"というのもおかしいね?」
「そういえばそうね。でも。お仕事からはおかえりなさいよね」
ジュニアシートの安全を確認し、改めてエンジンを掛ける。
「いってらっしゃいませ」
「いってきます!お仕事頑張ってくださいませねー!」
中から手を振る千歳たちが見えなくなるまで、彼らは笑顔で手を振り返した。
「彼らと何を話していたんだい?」
「"いつもご苦労様です"ってご挨拶したの。でもまだお仕事中だと言っていたから、頑張って下さいってお声を掛けたの」
仕事場に顔を出したとき、働いている人たちに会ったら、"お疲れさまです"と言うこと。
彼らが父(の会社)を支えてくれているのだから、感謝を込めて挨拶をするように、という母の教えが子どもたちには身に付いている。
そのせいか、彼らが会社を訪れるとオフィスの場が和む。そして、志気も上がる。
「会社の皆様の分もお土産買ってかえらなきゃ!」
「そうだね、きっとみんな喜ぶよ」
いつかこの子たちが会社を継ぐことになったら、こんなことも懐かしく社員の話題に上ることだろう。


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高速を下りて5分ほど走ると、ようやく別荘地付近にまで辿り着いた。
オンシーズン前でしかも平日ということで、かなりスムーズに車が進んでくれたおかげだ。
取り敢えず別荘に行く前に、カフェレストランに立ち寄った。
遅めの昼食とティータイムを兼ねて、夕飯まで空腹をしのぐための策である。
「この時期にいらっしゃるのは珍しいですね」
個室に案内してくれた店の主人は、通年橘家の別荘を管理してくれている。
近くに保養所を新築する前はここを社員に利用させたりもしたので、その時から今まで世話になっている。
「広報で、丁度紫陽花が綺麗だと知ったものでね」
「紫陽花まつりのことですね?ええ、見頃になっておりますよ」
と、カウンターに置かれていたパンフレットを、彼は一枚ずつ皆に手渡した。
紫陽花の名所が紹介され、アクセスや駐車場案内なども書かれている。
思っていた以上に名所は多い。それぞれに催し物もあり、さすがに二泊三日で全部回るのは難しいか。
「私、幼稚園に咲いてるようなピンクの花が見たいわ」
「僕は、いっぱい種類が見られるところが良いなあ」
「浴衣なら、あまり混雑しないでゆっくり見て歩けるところが良いかなって思うんですけど」
それぞれの意見が飛び出す中、まゆきだけは目の前のデザートに夢中。
「今日二度目の会議になりそうだな」
明日どこを回るか、大人と子どもの真剣会議。
形式だけの定例会議より、こちらの方がずっと現実的で意味がある。

別荘に着いて荷物を片付けてから、さっそく家族会議が始まった。
車で回れそうな場所、紫陽花の株数や品種などパンフレットで再確認すると、3〜4カ所が絞れて来た。
千歳が見たいというピンクの紫陽花は、おそらく西洋アジサイだろうとあかねが言った。
「距離的に自然公園を見てから、山紫陽花の寺院に寄って、最後に紫陽花寺かな」
新旧の品種が多いのが自然公園。ここなら文紀も満足出来るはず。
最後に行く紫陽花寺は、今回のまつりのメインエリアならではで、イベントが色々開催されていて子どもたちにはうってつけだ。
「明日は浴衣着なきゃいけないから、今夜は早く寝て早く起きないとダメよ」
「はーい!じゃあお布団用意してきますわ」
子どもたちはそう言って、隣の和室に駆けて行く。
普段はみんな別々に寝ているが、別荘にいる時だけは広い和室で家族全員一緒に。
ベッド生活の子どもたちも、布団を敷く作業が楽しくていつもはしゃいでいる。
「私も、浴衣を用意しておかなきゃ」
「じゃあ、私も手伝おうか」
クローゼットから出した衣桁を組み立て、浴衣の袖を通して掛ける。
子ども用三着と大人用二着だから、二つ組み立てなければ間に合わない。
「華やかだねえ。まるで花が咲いたようだ」
千歳たち浴衣を見て、友雅がつぶやいた。
淡い水色地に大輪の花模様。白地に金魚と朝顔の模様。女の子の浴衣の柄は、それだけで十分目を楽しませてくれる。
「あと数年したら、もっと大人っぽいものが良いとか言うんでしょうねえ…」
自分の子ども時代を思い出しながら、あかねは千歳たちの浴衣を眺めた。
幼稚園や小学校の頃は、自分もこんな可愛い浴衣を着ていた。
それがいつのまにか大柄よりも小柄を好むようになり、赤やピンクの色も少ないものを選ぶようになった。
「可愛い浴衣姿を見られるのも、残念ながらそう長くないということか…」
少しずつ目に見えない速度で、子どもたちは毎日成長を続けている。
嬉しいやら、ちょっと寂しいやら。親としては複雑だ。
「だからこそ、今のうちに思う存分可愛く着飾らせてあげたいものだが…ダメだったよね?」
ちらりとあかねを横目で見ると、にっこり彼女は黙ってうなづいた。

子どもたちの浴衣に比べて、大人はぐっと色合いが少なく鮮やかさに欠ける。
男物は大概が無地みたいなものだし、今回あかねが選んで来た浴衣もシンプルなものだ。
だが彼女の浴衣には、深い想いが詰まっている。
「今まで箪笥の肥やしになってましたけど、ようやく着る機会が出来ましたよ」
「結婚した時に買った中のひとつだね」
今回着るにぴったりの、白地に藍染めで描かれた紫陽花柄。
実はこれまで一度も着たことがなく、どうにかならないだろうかと常々気にかけていた。
彼と結婚した際、着物を何着か仕立てようという話が出た。
橘家の妻になれば、おそらく和装で表に出ることが増えるはず。良いものを数点誂えようと友雅に勧められ、この浴衣もその時に作ったものだった。
「でも…あの頃の私が着ても、似合わなかったかもしれませんね」
当時を懐かしそうに思い出しながら、あかねはその浴衣を広げてみせた。



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Megumi,Ka

suga