梅雨色の楽園

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暦が六月から七月へと変わり、夏の気配が近くで漂い始めた。
梅雨明けはもうしばらく先になるようだが、半袖やサンダルのスタイルが日常的になっている。
庭先で雨に打たれながらも鮮やかに咲いていた紫陽花も、あちこち色褪せた花が目立って来た。
「別荘の方は、丁度これからが見頃のようだね」
送られて来たばかりの広報誌を見ながら、友雅がそう言った。
橘家の別荘がある高原地帯は、所謂"避暑地"と呼ばれる類いの地域だ。
この辺りと季節の移り変わりにタイムラグが生じる。
広報誌のイベントスケジュールページには、始まったばかりの紫陽花まつりに関する要項が書かれていた。

「紫陽花って楽しいお花よね」
「ん、どうしてだい?」
「だって、花の色が変わるのだもの。青が紫っぽくなったり、ピンクになったり」
紫も青みがあるもの、赤みがあるもので雰囲気も違う。
開花前のものは薄緑をしていて、それもまた清浄感があってなかなか趣がある。
「色だけじゃなくて、花の形もたくさんあるんだよ」
学校の図書室にある植物図鑑で、文紀も紫陽花について調べたばかりだった。
山アジサイ、ガクアジサイ、最近増えている西洋アジサイ。
毎年新しい品種が登場し続け、梅雨の季節になると花屋の店先は紫陽花の品評会状態になる。
「父さま、父さま、あのねー」
友雅の膝の上にいたまゆきが、シャツの袖を引っ張った。
「幼稚園に咲いてるあじさいね、すごーくピンクなの」
「そういえば綺麗よね、正門の近くにある紫陽花」
名前通り紫系の花が多い橘家の庭と違い、幼稚園の紫陽花は鮮やかなピンク。
どんよりとした梅雨の天気も、華やかな色で明るくさせてくれるような色。
すると、話を聞いていた千歳が首を傾げる。
「私、紫陽花って幼稚園で見たことないわ。見逃していたのかしら?」
千歳が疑問を抱くのも無理はない。
彼女が卒園したあとに、幼稚舎は正門周辺の花壇を作り直したのだ。
花壇の花木はすべて有志からの寄贈で、紫陽花もその中のひとつ。あかねも今年初めて、開花した紫陽花を見ることが出来たのだった。
「残念だわ。もっと卒園が遅かったら見られたのに」
「そうなると、千歳はまゆきと双子になってしまうねえ」
双子の妹を世話するとなると、さぞかし文紀も大変だろう。
まあ、現状もそんな状態ではあるのだが。

友雅はふと思い立ち、壁に掛けられているカレンダーに目をやった。
あかねの文字が各日に記されている。子どもたちの学校行事や習い事の予定…スケジュールは意外と混み合っている。
その中から、白紙の日付をいくつか探した。
「今月は、創立記念日があるのだね」
千歳たちが通う学校は、幼稚園から大学までの一貫教育。今月は創立記念日があり、その日はすべての学び舎が休校となる。
今年は金曜日。おまけに次の日の土曜は、月の第二週に当たる。
「別荘、行ってみようか?」
そう友雅が言うと、みんな揃ってこちらを振り向いた。
いつも別荘に行くのは長期休暇が取れる時で、大概は夏休みか冬休みくらい。夏になる前の梅雨の時期に、あの辺りを散策した記憶はない。
好都合にも連休が三日続くとなれば、ちょっとした小旅行に最適だろう。
「紫陽花の名所もいくつかるようだし、どうだい?」
彼の提案に、子どもたちが反対するわけがなかった。
「ねえ良いでしょう母様?」
「まあ構わないけど…」
久しぶりの旅行に、みんなはしゃいで友雅に絡み付く。
しかし、あかねにはひとつ気がかりなことがあったのだが、それを友雅に尋ねようとした時インターホンが鳴った。今日は、鷹通が家庭教師に来る日だ。
「さ、向こうで思い切り遊べるように、今は目の前のことをやらないとね」
友雅はそう言って、子どもたちの背中を押した。

鷹通との勉強は、いつも二階の広間で行う。
まゆきも幼稚園生になったので、最近は一緒に簡単な文字の読み書きなどを鷹通に見てもらっている。
勉強が終わるまでの間に、一階では夕食の支度が進む。
家族の分に加えて、家庭教師の日は鷹通の分も用意する。
「そういえば友雅さん、別荘に行く話ですけど大丈夫なんですか?」
藍染めのランチョンマットの上に小鉢を添えながら、雨戸を閉める彼の後ろ姿にあかねが声を掛けた。
「あの子たちと違って、金曜日は友雅さんお仕事でしょう?お休み取っちゃうんですか?」
「まるまる休みとは行かないが、早めに切り上げることは可能だよ」
さすがにそこは、友雅も自分の予定を考えて決めている。
金曜日は午前中に定例会議があり、これは個人でどうこう出来るものではない。
しかしそれが終われば、特に急ぎの用事は入っていない。
「会社で待ち合わせよう。支度をして、みんなでおいで」
高速に乗るなら自宅より会社の方が近いし、平日なら2時間も掛からないで向こうに着けるだろう。
「でも、友雅さん仕事を終えたばかりで運転じゃ、疲れませんか?」
「疲れるほどのものではないよ」
定例会議なんて、代表者との顔合わせくらいの意味でしかない。
日頃から各部署の運営状態はチェックしているし、ハッパをかける必要性もない。
だったらいっそのこと定例会議を止めては?と提案をしたこともあるが、それくらいは従来通りにしましょうと言われ今に至る。
「まあそんな感じだ。気にしないで任せなさい」
「分かりました。でもホントに疲れたら言ってくださいね。運転代わりますから」
「そういう時は、まずこうすれば良い」
?といった表情をしたと同時に腕を取られ、柔らかいものが唇に押し当てられた。
「ほら、今ので一日の疲れがすべて消えた」
「いつもそんな都合の良いことばっかり言ってー!」
ふざけ半分に叩くあかねを、友雅は笑いながら交わす。
何年経っても、こんなやり取りは相変わらず。恋人時代から繰り返されている。
「ホントに無理はダメですよ。あの子たちが心配しちゃいます」
「ああ、分かってる。100%楽しませてあげないといけないからね」
せっかくの小旅行。楽しい思い出だけを彼らの記憶に刻ませてやりたい。
それには、親である自分たちも気を使わなくては。

「そうだ!浴衣持って行こうかな」
「良いね。紫陽花の名所は日本庭園が多いそうだ。似合うと思うよ」
夏になると浴衣を着る機会が増えるので、そろそろ箪笥から出そうかと考えていたところだった。
子どもたち三人分の浴衣と帯と下駄…もちろん自分たちの分も。
別荘地は涼しいから、軽く羽織れるストールくらいはあった方が良いかも。
かんざしはかさばりそうなので、千歳たちの髪結いにはリボンを使うとして…。
「でも、荷物が多くなっちゃいますかね」
「だったら現地で、新しい浴衣を調達する手もあるよ?」
「何言ってるんですか。これ以上増えたらいくら収納があっても足りませんよ!」
洋服から和服からバッグや小物類まで、彼が子どもたちに誂えたものは数えきれない。千歳のお下がりが使えるはずのまゆきにさえ、わざわざ新しいものを買ってくるのだからクローゼットは常に満杯だ。
「リメイクでもしないと片付かないから、合間を見て祥穂さんに教えてもらってるんです」
友雅が選ぶものは当然ながら、上質な素材ばかり。
祥穂は和裁洋裁の心得があるので、アドバイスを受けながらワンピースやスカートに仕立て直すつもりでいる。

「そんなものは専門店に頼めば良いのに、とか思っているでしょ。出来ることは自分でやります」
「はいはい。根を詰めすぎるのは厳禁だよ」
床の間には、庭先に咲く紫陽花。
緑の葉とこんもりとした花が、ブーケのように空間を彩っている。



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Megumi,Ka

suga