春を待ちながら

 003
暖かい部屋でひとり、文紀は床の中で横になっていた。
熱があった時は身体が熱かったけれど、今はもうそんなことはない。
もう十分元気なのだが、あと一晩は両親に言われた通り、おとなしくここで眠っていよう。

枕元に置かれた水差しに、桜の枝が一本飾られていた。
おそらく母か千歳が、自分のために手折ってきてくれたのか。
文紀はぼうっとしながら、天を仰いでいた瞼を閉じた。

…それにしても、まゆきに風邪が移らなくてよかった。
まだ幼い彼女に病が移ったら、大変なことになっていたはずだ。
千歳にも移っていないというし、自分ひとりだけで本当に良かった…と、胸を撫で下ろした。
それだけが、ずっと心配の種だったのだ。
もうすぐまゆきは、一歳になる。
その時には盛大にお祝いをしようと、宴の用意までしていた。
もしもまゆきが病気になったら、それどころじゃない。
せっかくの誕生日が最悪の日になっては、可哀想だったから。


「文紀、起きてる?ご飯持って来たわよ」
戸の向こうから、あかねの声が聞こえて来た。文紀はゆっくりと起き上がり、厚手の袿を背中に羽織る。
「起きてます、母上」
"入るわよ”と最初に断ってから、とが静かにすっと開く。
さっきのように、粥の碗を手にあかねが入ってくるのだろう…と思っていた文紀だったが、現れた姿にあっと思わず声を上げた。
「干し蚫でお出汁をとったお粥なのよ。野菜もたくさん入ってるから、美味しくて栄養いっぱいよ」
「千歳、ダメだよ、ここに来ちゃ…!」
湯気が立ち上る碗を盆に乗せて、しずしずと床に運んで来たのは母のあかねではなく、妹の千歳だった。
自分の風邪が移らぬようにと、ここには来ないように両親も言ってくれていたはずなのに、彼女のあとからあかねが笑顔で着いて来ている。

「大丈夫よ、もう治っているようなものだから。移らないから平気」
戸惑いと不安を帯びた顔をしている文紀に、あかねはそう言って背中をさすった。
もう熱も無いし、殆ど治っている。
だったら少しくらい、顔を合わせてやっても良いだろう。
こんなにも、お互いのことを心配し合っている二人なのだから--------そう言ったのは、友雅だった。
「温かいうちに食べて。元気になるお粥ですわよ」
木彫りの匙を碗にさして、千歳が文紀の手にそれを置く。
じんわりと手のひらに伝わってくる熱が、文紀の手をあっという間に暖めていく。

「ゆっくりお食べ。食べ終わるまで、みんなここにいるから」
ようやく匙を手に取り、口に運ぼうとした文紀だったが、もう一人の声がして顔を上げたとたん、その手はぴたりと止まってしまった。
「ほらほら、いくら部屋が暖かくても、のんびりしすぎていると冷めるよ?」
「そうですわ兄様!あつあつを食べるのが美味しいんですわよっ」
よく似た顔をして、同じ言葉を畳み返す千歳の後ろから、友雅がこちらにやって来た。
その腕に…小さな身体を抱きかかえて。
「さ、早く食べなさい。千歳が言うとおり、暖かいうちの方が栄養も良いのよ?」
「でも母上…まゆきが…」
母の顔を見ながらも、友雅の腕の中にいるまゆきを見て。
すぐ隣を見れば、妹の千歳がいて…と、文紀はきょろきょろ視線が定まらないまま、おどおどして粥に手が付けられない。
風邪が移ってはいけないから、別の部屋で休んでくれと父に言われたし。
例え父が言わなくても、自分からそう言おうと思っていたけれど…でも、こんな風にみんながここにやって来て、一人でも移ってしまったらどうすれば良い?

「心配いらないよ、文紀。もう良くなっているんだから、移る心配なんかないさ」
むしろ、妹たちの顔が見えなくて心配していたのは、君の方だっただろう…と、友雅は文紀の肩を叩いた。
「そんな文紀が、千歳たちも心配だったんだよ。お互い顔が見えれば、安心だろう?見てごらん、こんなに元気じゃないか」
友雅に抱っこされているまゆきは、手足をばたばたして、一目でその元気いっぱいな様子が見える。
病の陰なんて、わずかでも感じられない。
生命力の塊がそのまま動いているような、見ているこちらが元気になりそうな波動がある。
「文紀が食事をしている時間だけ、だよ。一緒に広間では食べられないから、代わりにその分一緒にいよう」
そうすれば、心細くなんかない。目に見えるところにみんながいれば。
愛しい人たちに囲まれているなら、不安なんてものは必要ない。


「…にぃ…っ」
ほっとして、ようやく匙に手を掛けた文紀を、またも硬直させたのは、この小さな声だった。
しかし、今回はそこにいる者すべてが、まゆきに視線を集中させる。
「まゆきっ?今、何て言ったのっ?」
「…んう?」
慌てて駆け寄った千歳だったが、問いかけてもまゆきの方はぽかんとしていて。
あかねと友雅は、黙ったまま互いを見つめ合った。
まさか、今彼女が発した言葉は…。
言葉とは言えないものではあったけれど、彼女が言おうとした、呼ぼうとしたのは…まさか。
「あっ!」
もしかして…と思い、友雅は腕からまゆきを下ろしてやった。
すると彼女はよたよたと立ち上がって、おぼつかない足取りのまま文紀の元へ歩いて行く。
「まゆきっ?ど、どうしたの?」
急いで碗を盆に戻して、こちらに来たまゆきを抱きとめた文紀。
そこでまゆきが、もう一度あの言葉を発した。
「…にぃ…にっ」
小さな手をいっぱいに延ばして、文紀の顔に触れようとしながら。


「残念。これは我々の負けだね、文紀の勝ちだ」
苦笑いを浮かべ、友雅はつぶやいた。
まゆきがどんどん成長してゆくにつれ、誰もが心待ちにしていたこと。
-----彼女が一番最初に発するのは、誰の名前だろう?
あの声で、初めて名を呼ばれる幸せ者は誰だろう?と、皆わくわくしながら待ち焦れていた。
"にいさま、ねえさま”
両親のことは呼びにくいから、最初はあかねの世界の呼び名を借りて、"ママ、パパ”と呼ばせようと、毎日まゆきに言い聞かせていたものだ。
だが、彼女が自から選んだその人の名は-----一番控えめで、それでも彼女のことを暖かく思っていた彼だった。

「にぃー」
じゃれつくように手をはためかせ、ニコニコ笑うまゆきが文紀に抱きしめられる。
嬉しそうな顔は、どちらの方か。文紀か、それともまゆきの方か。
「仕方ありませんわ、兄様には敵いませんもの」
すんなりと、千歳も負けを認めた。最初に姉様と呼んでもらいたかったけれど、相手が文紀ではしょうがない。
同時に生を受けた双子であるけれど、彼が自分よりもしっかりとして頼れる人であることは、千歳も疑いもなく信じていることである。
そう、それはきっとまゆきも同じ。
言葉が話せなくても、どんなに小さい身体でも、繋がり合う血の中にあるものが、文紀の心を伝えてくれていたはず。
だからこうして、嬉しそうに彼に触れているのだ。

「さ、文紀。お粥食べなさい。まゆきは抱っこしていてあげるから」
あかねはまゆきを抱き上げると、代わりに千歳が碗をもう一度文紀に差し出した。
なかなか落ち着かなくて、何度も食べるタイミングを外してしまったけれど、幸いまだあつあつのようだ。
「ゆっくりね。そうすれば、みんな長く一緒にいられるからね」
床の端に座る友雅が、穏やかに微笑みながらそう言った。


何もかもの音を消してしまうほどの雪が、庭全体を覆い始めている。
明日になったら、また雪かきでもしてもらわねばならないだろう。
けれどおそらくその雪の下、そのまた下にある地中には、春の芽吹きが動き出しているはず。
暖かいこの部屋の空気のように、そんな春がやってくるのを待ちこがれている。


春はゆっくりと近付いてくる。
--------永遠の春が棲む、この屋敷にも。







-----THE END-----



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2011.01.23

Megumi,Ka

suga