春を待ちながら

 002
カタカタ…と、外の方から車の軋む音が聞こえた。
文紀の部屋を出たあかねは、入り口に向かって歩き出すと、別棟からまゆきを抱いた祥穂と千歳がやって来た。
「母様、父様がお戻りになったようよっ」
「ええそうね。じゃ、お迎えに出ましょうか」
祥穂からまゆきを受け取り、四人は主の帰宅を出迎えに行く。
帰宅時間が深夜にならない限り、必ずこうして家族が彼の帰りを迎えるのが橘家の習慣だった。

「お帰りなさいませっ!」
かついだ衣の雪を払うよりも先に、愛らしい元気な姫君が友雅を出迎える。
「ただいま。外は凍えそうなほどに寒いのに、千歳の顔を見ると春になったような気がするよ」
千歳を抱き上げて、もう一人の姫君に友雅は近付く。
愛しい人の腕に抱かれた、小さな彼の宝物だ。
「おかえりなさい、友雅さん」
あかねの笑顔を受け止めて、返事のかわりに唇にキスをする。
「んあー」
小さな手がぶんぶんと伸びると、彼はそれをきゅっと握りしめた。
「ああ、ありがとうまゆき。父様の帰りを楽しみにしていてくれたのかい?」
「うー」
はっきりとした言葉はまだ話せないけれど、意思表示は随分早く反応する子どもだった。
思えば千歳も文紀も、喜怒哀楽という感情をアピールするのは早くて、そのおかげか周囲に随分と可愛がられたものである。

「殿、夕餉の用意がまだ済んでおりませんの。もうしばらくお待ち頂けます?」
「そうだね、少し今日は早めの帰宅だったからね」
年が明けても、左近衛府及び内裏での仕事は多い。
本来ならばのんびりはしていられない時期なのだが、こうも雪が多く寒いのでは身動きも楽じゃない。
何とか皆が楽に仕事が出来るよう、交代制の勤務を整えてみたり工夫をしている。
「父様、じゃあ夕餉まで一緒にいてくださる?」
「勿論だとも。姫君のお誘いは断るつもりはないよ」

…なんて、そんな台詞を昔は度々口にしたりして、艶やかな浮き名を流して来たんだろう。
けど、今彼が愛しげに"姫君"と呼ぶのは、娘の千歳とまゆきに対してだけだ。
そして二人きりの時には、たまに冗談混じりに懐かしい名であかねを呼ぶ。
-----"月の姫”と、愛しさを込めて。

「あ、でも…待って父様!」
友雅の手を引いて、屋敷の奥に向かおうとした千歳が、何かに気付いてぴたりと足を止めた。
「私たちにお付き合い下さる前に、兄様の容態を見て差し上げて」
大きくてきらきらした瞳が、友雅を見上げる。
そして彼女の指先は、文紀が一人で眠っている部屋の方を差した。
「兄様、お一人で寂しいのではないかと思うの」
いつもなら同じ部屋で寝起きしていた彼が、今は一人だけ別の部屋にいて病に伏せている。
千歳も急に一人で眠るのは寂しくて、まゆきと一緒に祥穂と寝てもらっているくらいだ。
男だから寂しくはないよ、と彼は言っていたらしいけれど…。
「でも、心細いと思うわ。兄様のお顔を先に見てあげて?」
「…そうだね。あかね、私は文紀のところに寄ってから、広間の方へ行くよ」
千歳の頭を優しく撫でたあと、母の方へと彼女を押し出す。
皆と別れて、銀世界の庭が望む渡殿へと向かう友雅の背中を、あかねは笑顔で見送った。



屋敷の中で冷え込むのは、外側に面している渡殿か廊下くらいのもので、それぞれの部屋にはいくつも火桶が置かれている。
しっかりと蔀と戸を閉めて、その内側には巾帳を二重にして吊り下げた。
暖めた中の空気が逃げないようにするためと、外からのすきま風を少しでも塞ぐためである。
それらはすべて、あかねが現代で得た知識を活かしている。
…そうだ、掘り炬燵とかも良いな。
今度イノリくんたちに頼んで、作ってもらおうかな。
火桶を下に置いて、格子の網を底に敷いてもらって…、いらない布とか古い袿とかを布団代わりにすれば…
「うん、良いかも」
「母様?何が良いんですの?」
「冬の寒い空気を暖めるものをね、もっといろいろ作ってもらおうかなって思ってたのよ」
先日は陶磁器の平たい壺を作ってもらった。
それに湯を差して、湯たんぽとして使っている。
夜眠る時に、必ず子どもたちの床に入れてやると、朝まで温かくて気持ち良さそうに眠っている。
眠る前には、湯船に使って身体を温めて。
庭先で実る橘の果実を浮かべ、芯から暖めて眠りにつく。
どれだけ高貴な貴族の屋敷にもない、冬場でも温かさを保つ工夫が橘家には施されている。

「母様の発明は、すごいものばかりねっ!」
初めて見るものに、千歳たちだけではなく友雅も、そしてイノリや泰明たちも驚きながら興味を示し、それらを有効に取り入れようとしている。
橘家の内湯からヒントを得た公衆浴場…つまり銭湯も、少しずつ町の商いの一つとして浸透しはじめていた。
夏には身体を洗うことで衛生を保て、疫病の蔓延もぐっと減った。
この時期になれば、湯で暖まろうとやってくる客が後を絶たない。
「次に母様が、どんなものを作って下さるか、私とっても楽しみだわ」
「そう?まあ…楽しみにしてて」
文明が行き届いていた現代では、こんなことを思い付かなかったかもしれない。
既に出来上がっているものを用意されて、それが当然であるように思っていたけれど、こうして京で暮らすようになってからは、それらがどれほど価値のあるものであったのかを思い知らされる。
だが、そんなものたちの存在を知っているからこそ、頭を働かせて代用品が作れないかと考える。
…まるで発明王になったみたいね、私。
我が身を振り返って、あかねは笑いがこみ上げて来た。


すうっと静かに戸が開き、一瞬だけれど冷たい外気が入り込む。
即座に足を踏み入れて、背中越しに手早く戸を閉めた友雅は、部屋の中央で火桶を囲むあかねたちのところへやって来た。
「んうっ」
ちょこんちょこんと小さな足を動かして、まゆきが父の元へと歩いてくる。
「姫君のお出迎え、嬉しいね」
片手で簡単に持ち上げられるほど、軽々とした小さい身体だが、その存在は両手でも支えられないほど重い。
しかし彼女たちを護るのが、自分の腕に課せられた役目だと友雅は思う。
「父様、兄様お元気にしてらしたっ?」
「そうだね、随分元気になったようだ。そろそろ…どうかなあかね、部屋に戻してあげても良いのではないかい?」
「ええ、私もそう思ってました。取り敢えず今夜一晩寝かせて、明日からは大丈夫かなって」
病気なんてしたことがない子だったから、最初は随分慌てて心配していたものだが、酷くならずに治りそうで良かった。
軽く済んだのは不幸中の幸いだと言える。

「良かったわ…兄様のこと、心配してましたの」
まゆきを抱っこした友雅のところへ、千歳がやって来てほっとした顔を見せた。
これまではいつも一緒に寝起きしていた兄が、病に伏せるなんて考えてもみないことだった。
声も聞こえないし、話も出来ない。
部屋を覗いたのは最初の日だけで、あとは両親に止められて近寄れないでいる。
顔も見えないことに、不安と心細さでいっぱいだったのは、千歳の方だ。
「兄様と一緒じゃないと、寂しくて眠れませんもの」
「…そうか。千歳は兄上が大好きなのだね」
「もちろんですわ!大切な兄様ですもの。父様と母様と、まゆきとおんなじくらい大好きですわ!」
真面目に言い切る千歳を見て、友雅とあかねは顔を見合わせ微笑む。
そんな彼の腕の中で、まゆきが父の襟をくいくいと引っ張る。
「おや、どうしたんだい?」
「うう〜ん」
何か言いたげな顔をしているが、言葉が話せないだけに正確には把握出来ない。
でもその瞳は輝いて、眼差しが心の中に感情をしみ込ませてゆく。

「まゆきはきっと、私も同じよって言っているんですわ」
間違いないと断言する千歳。
私の妹なのだから、自分と同じように文紀や両親のことが大好きなのだと、はっきりと言い切る。
「困ったねえ。みんなでそんな可愛らしいことを言われては…照れてしまうな」
友雅にくっついて、横から覗き込む千歳。
腕の中で無邪気にこちらを見上げるまゆき。
そして友雅は、あかねの手を引いてこちらへ抱き寄せた。

火桶の暖とか、湯気の温かさとか、そういうものでこの部屋が暖かいのではない。
心の芯から暖めてくれる、そんな命がここにあるからだ。



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Megumi,Ka

suga