春を待ちながら

 001
しんしんと、音も無く天から注ぐ白い綿帽子。
手のひらで受け取ると、一瞬ひんやりとしてすぐに溶けてしまうけれど、庭に広がる橘の緑葉の上では一粒一粒降り積もる。
粉のような冷たい結晶は、やがてほのかに景色を白銀に染めて行き、尚一層空気を凍り付かせた。
「こうも雪が続いていては、冷え込みも厳しくなる一方ですわね」
ぴったりと隙間無く戸を閉めて、外気が流れ込むのを防いだ部屋には、火桶が四隅に置かれて暖かさを保っている。
幼い子らがいる屋敷であるから、冬の冷え込みには一段と気を使わねばならない。

「あーん」
外の寒さなど気付いていないのか、小さなまゆきは千歳や祥穂たちに囲まれて、いつも通り元気にはしゃいでいる。
最近は自分で立ち上がることにも慣れて、よたよたと歩くようにもなった。
「まゆきー、ほら、姉様はこっちよっ」
千歳が手招きしながら名を呼ぶと、あどけない顔を振り向かせてやってくる。
「んうー」
「はい、よく出来ましたわねっ。まゆきは、とっても頭の良い子ねっ」
小さな腕に抱きかかえられる、更に小さな手と身体。
そんなまゆきが誕生し、近々一年が過ぎようとしている。
冬のある日-----こんな風に雪景色の、冷たい冷たい日だった。

「千歳様方がお生まれになられた時も、それは寒い日でございましたが、雪が止んでいたのは幸いでしたわね」
根雪は去り、次第に新しい季節が近付いていた、春先の頃。
しかも双子だなんて前もって聞いていなかったから、産湯や産着の用意に侍女たち全員大慌てだったのである。
「生まれたばかりのお二人が寒くないようにと、大騒ぎで新しいものを集めたりしたのですよ」
「そうなの?ちっとも私には覚えがないわ」
くすくす、と祥穂は笑う。
そりゃあ生まれたばかりの千歳たちが、誕生時のことを覚えているはずがない。
だが、そんな無邪気な発言が何とも微笑ましくて、心を和ませてくれるのだ。

「ですが、本当に病気も怪我も殆どなく、お元気にお育ちになられて…喜ばしいことですわね」
「そうね。寒いとお風邪をこじらせるって聞くけれど、一度もそういうことはなかったわ」
夏の猛暑も冬の厳しい寒さも、体調を崩すということはなかった。
もちろん皆が注意していたせいもあるが、健康ですくすくと成長したことは何よりである。
まあ、ほんの少しおてんばや元気が過ぎて、かすり傷程度の怪我はあったけれど。

「ですから今回は、少々驚いてしまいました。けれど、もうそろそろお元気になられることでしょう」
祥穂が言うと、千歳はこくりとうなづく。
普段なら、まゆきを囲む部屋にいるはずの姿が、ここにはない。
父の友雅は仕事で出仕しているから、いないことは当然だとして。
彼女の母であるあかねと…兄である文紀の姿がここにはなかった。



「文紀、起きてる?」
閉められた戸の前で、あかねが声を掛けた。
「はい…母上」
文紀の返事が聞こえてから、そっと戸を開く。
春のひだまりくらいに暖めた部屋の真ん中に、床が敷いてある。文紀はそこに横たわりながら、入って来た母の顔を見上げた。
「どう?具合は」
「うん、もう熱は大丈夫みたい…です」
そっと手のひらを額に添えると、柔らかい身体の熱が伝わってくる。
数日前にはもっと熱かったけれど、今はもう普段通りの温かさに戻っていた。
「すぐに良くなるわよ。咳とかくしゃみとかがなくて、良かったわね」
ふわっと甘い香りが、文紀の周りに漂って来た。
目をやると、あかねのそばに小さな盆が置いてあり、そこにある碗から匂いが漂っているようだった。
「はい、生姜入りの葛湯ね。熱いから気をつけるのよ」
母が差し出した碗を、文紀は両手で受け取る。
顔を近づけると、ぴりりと刺激的な香りもするが、口に運べばとろみのある甘い葛湯が、舌先を滑り落ちてゆるゆると喉奥へ流れ落ちた。

「今日一日くらいは、ゆっくり寝ていた方が良いわね。明日になったら、千歳と一緒のお部屋に戻っても平気でしょ」
上に掛けた厚手の袿を重ね直しながら、あかねが話す声に耳を傾ける。
昨日は少しだるくて重かった身体は、もう殆ど普通どおりに戻っている。
ちょっとぼんやりしているのは、眠りすぎていたからだろう。
「何か食べられる?柔らかいお粥なら平気?」
「うん…多分」
「そう、良かった。これからはたくさんご飯食べて、体力をつけないとね」
先日イノリがやって来て、知人から分けてもらった野菜や干し肉を、ずいぶんと置いて行ってくれた。
寒さが厳しい冬には、市で物売りをする者も少なくなるし、売り歩く行商人の姿もない。
ある程度の蓄えは秋のうちに済ませているが、それでもこうして新鮮なものを分けてくれるのは有り難い事だ。
風邪をこじらせた文紀のために、少し具だくさんの粥を作ってやろう。
ネギやショウガ、青菜や根菜も小さめに刻んで、出汁は何にしようか。

「母上…」
かすかな文紀の声に、あかねはすぐに後ろを振り向いた。
「どうしたの?具合まだ悪い?」
「ううん、そうじゃないけど。あの……まゆきは、どうしてるかなあって」
「まゆき?元気よ?今、祥穂さんと千歳が一緒に遊んであげているんだけれど、まゆきがどうかしたの?」
葛湯の碗を両手で包みながら、文紀は少しうつむき加減。
手のひらのぬくもりを、じっと見つめて肩を落としている。
「まゆきに僕の風邪が移っちゃってたら、どうしようかと思って、ずっと気になってて…。千歳は?千歳にも移ってたりしてないですか?」
「大丈夫大丈夫。全然元気だから、安心してらっしゃい」
あかねの答えに、ようやく文紀はほうっとした顔をした。

文紀がやや熱っぽいと気付いたのは、いつもと同じようにまゆきをあやしている時だった。
夕食の用意をしている間、子どもたちには居間で遊んでいてもらったのだが、あかねが汁物の鍋を持って部屋に入って来たとき、文紀の顔が二人よりも赤らんでいたのを、おかしいと感じたのである。
すぐに文紀を呼び、さっきのように額に手を当ててみた。
残念ながらこの京では、体温計なんていう文明の利器は存在しない。
原始的であるが、こうして手のひらで体温を計るしか方法は無いのだ。
今年は連年よりも寒さが厳しい。
年の暮れから雪が多く、左近衛府大将として出仕する友雅も、道を遮られて困ることがしばしば。
近所や内裏内でも、冷えから来る風邪をこじらせている者が多い、と聞かされていたところだった。

幸い高熱というものではなく、すぐに泰明に診てもらったが、たいしたことではないと言われてあかねも友雅もホッとした。
いや、二人だけではない。
妹の千歳はもちろん、橘家の女房や侍女たち、乳母や彼女の息子の宇敦も、度々やってきて文紀の様子を伺っていた。
だが、そこに一人だけ顔を出さない者がいた。まゆきである。
さすがにまだ生まれて一才の彼女には、それほど免疫力が備わっていないはず。
念のため風邪が移らぬように、とまゆきだけはここに連れてくることはなかった。

『文紀には寂しい思いをさせてしまって、申し訳ないけれどね…』
容態を見にやって来た友雅は、床に伏せている文紀を見下ろして、そう詫びた。
大切な妹の顔が見られない。いつも妹のことを思っている彼にとって、その様子が見えないのは心細いことだろう。
しかし、こればかりは我慢してもらわねば、と友雅が説明すると、文紀は素直にうなずいた。
『まゆきに移ったら…僕も辛いから。早く治して元気になります』
『そうだね、すぐに良くなるさ。まゆきも兄上に会えるのを、楽しみに待っているはずだよ』
友雅にとっては、三人とも優劣など関係なく大切な子供たちだ。
命を懸けても護らねばならない、宝物のような存在。
彼が寂しくないように…と、妹たちの代わりに友雅とあかねは、出来るだけ頻繁に文紀の部屋を訪れては、少々話し相手をしてやるように心がけていた。



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Megumi,Ka

suga