春の足音

 後編/004
誰ともなく、言葉が止まっていた。
聞こえて来る音と言えば、子どもたちの小さな寝息だけ。
永泉に教えてもらいながら楽を奏でていた二人は、さっきから少しうとうとし始めていた。
朝早くから、慌ただしい雰囲気に気を張っていたのだろう。
暖かい部屋の中で疲れが広がり、今はそれぞれ永泉と鷹通にもたれて。今は眠りに着いている。

「失礼致します」
声がしたあとで、静かに音を潜めて戸が開く。
「頼久、随分遅かったじゃん。」
イノリがそう言うと、頼久は速やかに部屋に入り腰を下ろした。
「申し訳ない。天候が悪く、藤姫様からお送り頂いた品が、届くのに時間が掛かってしまって。」
頼久は携えていた薄い籠を置き、改めて蓋を開けてみる。
中には、艶のある肌触りの良い布が畳まれていた。
藤姫と藤壺宮が、生まれる子のおくるみに…と、遠国から取り寄せた"羅紗"という布らしい。
「外の天気は悪いのですか?明け方から、厚い雲が掛かった空でしたが…」
「はい。しばらく前から、小雪がちらついて参りまして、うっすらと景色が白くなってきた頃です。」
やけに静かだと思ったのは、そのせいだったのか…と鷹通は思った。
雪は、辺りの音を包み込んでしまうから。

「あかね殿は、まだ……?」
「ええ。結構時間が経ちますが、こういうことは時間が掛かりますからね。」
焦ったところで、自分たちが何をしてやれるわけではない。
産みの苦しみを分けられるものなら、肩代わりも受けて立てるのだが。
「でも、一番そう願ってんのは…あいつだろ。」
出産に伴うすべての苦しみを、あかねから自分へ移してしまえれば良いのに。
初めての出産の時も、彼は何度となくそう言っていたものだ。
同じ"親"という立場なのに、男は何も出来ない。
苦しむのは母親ばかりで、それを眺めているしか出来ないことこそ、辛いのだと。

「今回は立ち会っていらっしゃいますから、いくらか友雅殿も安心されているのではないでしょうか。」
手を握り、隣で励ますしか出来なくても、そばにいてやれるなら。
それっぽっちのことが、わずかでも彼女が安らげるのであれば、彼は本望だろう。


「そういえば…お二人は、どうなされたのですか?」
頼久は、鷹通たちに寄り添う千歳たちに目を移す。
これまで、皆は極力声を潜めながら話していた。
すうすうと寝息を立てる子どもたちを、起こさないようにとの暗黙の了解で。
「母上を心配して、気負いし過ぎたのでしょうね。眠そうにしておりましたので、少しお休みになって頂きました。」
「そうですか…。」
侍女に用意してもらった衣を、二人の背中に布団代わりに掛けてやって。
時が訪れるまでの間、ゆっくりと夢の世界で待っていてもらうことにした。

「こいつら、ホント心配性でさあ。すぐに何かといえば"母様の具合は?"って聞くんだぜ。」
それも、必ず二人揃ってだ。
その場で宥めても、しばらく経てばまた同じように尋ねる。
「文紀殿も千歳殿も…本当にお優しい心をお持ちだ。」
目が覚めれば、どこまでも健やかで…それでいて聡明で、優しさを忘れない。
すべて、彼らがあかねの子である証。
優美さと不思議な艶やかさは、父親譲りと言ったところだが。

「生まれ来る御子は、どのような子でしょうねえ…」
千歳の髪を撫でながら、小さく鷹通は独り言をつぶやく。
「あかねに似てるかなぁ?それとも、友雅に似た子なのかねー?」
元気な子か、大人しい子か。
こんな時はまるで身内みたいに、気持ちが高揚してくる。

「……何より健やかにお生まれになれれば…。願うのはそれだけで充分でございましょう…。」
膝の上に顔を載せて、眠る文紀を見下ろして。
そう話す永泉に、誰もが同じ気持ちを抱いた。





あれから、どれくらい時間が過ぎたのか。
破水が始まったと祥穂たちが騒ぎ出したのは、もう随分前のように思えるけれど。
途切れる間もなく続く痛みは、ますます激しくなって行く。
「奥方様、呼吸を整えてくださいまし。ゆっくり…その調子でございますよ。」
教えて貰ったとおりに、規則的なリズムで呼吸する。
一度目の時は、どうだったっけ?
もう何が何だか分からないことばかりで、細かいことなんて殆ど記憶にない。
覚えていることと言えば………

「あかね…辛かったら、私の手を強く握って良いよ。」
そう。あの時は確か…産室に立ち入れないかわりに、こうして彼が手だけを握ってくれていたんだ。
何故かそれから、急に身体が柔らかくなって…あっという間に、産声が響いて。
「爪を立てても構わないから。歯を食いしばりたいなら、いっそかじってくれても良いからね。」
「……何言ってるんですか…。友雅さんの指を傷つけたら…あの子たちに…怒られちゃうでしょ」
彼の指先が、琵琶の弦をつま弾き、弓の矢を射る。
千歳を抱きしめ、文紀の手をつないで、彼らに微笑みを与えてくれる。
その手を傷付けたりなんか出来ない。

「そんなもの、君の痛みや辛さと比べたら…何の比較にもなりはしないよ。」
友雅の指先が伸びて、喉元を通り過ぎ頬を包む。
「頑張ってくれ、としか言えなくて…すまない。」

すまない、だなんて…そんなこと言う理由なんかないのに。
だって…ここにいてくれてるじゃないですか。
そばにいてくれて、励ましてくれているじゃないですか……。
それが、どれほど私に力を与えてくれているか…友雅さん、分かりますか?

「頭が見えて参りましたよ!」
「もうすぐでございますよ!奥方様、もう一息でございますよ!」
最後の力を振り絞り、思い切り気を込める。
疲労と痛みで砕けそうになる身体を、二本の腕が後ろから抱きかかえてくれて。
「あかね…私は…ここにいるよ。」
耳元で、名前を呼んでくれる声がする。
繰り返し、私の名前を彼が呼ぶ。
それだけで…そこにあなたがいてくれるのが、私には分かる。

名前を呼んで。
私の名前と、そして、二人で決めた、この子の名前を---------------



はらりはらりと小雪が舞い落ちて、庭を冬景色に変えて行く。
その中に、ようやく響き渡った瑞々しい芽吹きの声。
それはまさに、新しい春の訪れを伝えてくれていた。



「殿、奥方様、ご覧になって下さいませ。元気な姫君でいらっしゃいますよ」
力が抜けて、ぼんやりするあかねの前に、小さな命が鳴き声を上げて姿を現す。
そうっと友雅に祥穂が受け渡すと、彼は腕に子を抱きかかえて、あかねの肩を抱き寄せた。
「女の子……」
「そうだよ。年頃になった時が心配になりそうなほど、可愛らしい姫君だ。」
「…くふっ…友雅さん…気が早過ぎ…」
痛みのピークが過ぎて、やっと自然に笑いが浮かぶ。
手を伸ばすと、柔らかな命が二人の目の前にいる。
思いっきり元気な命の声が、耳に心地よく響いていた。



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Megumi,Ka

suga