春の足音

 後編/001
いつものように日々が過ぎて行く。
実感など全くないのに……まるで小さな足音が、徐々に近付いてくるような。
そんな風にして、その日はやって来る。
何でもないような顔をしながら。

「何かねぇ、まだ全然そんな兆候ないんですよ。本当にこの子、今日生まれるんですかね?」
「晴明殿と泰明殿が、きちんと君の容態を調べてくれたのだから、間違いはないと思うけれども。」
目が覚めても、昨日と同じ相変わらずの朝。
外はおそらく冬景色。まだ明け方は、陽射しも遠い。
けれども火桶で一晩中暖めたこの部屋は、ほのかに暖かくて心地良い温度。
そんな中で、隣にいる友雅は身体を抱きかかえ、腹部を静かに撫でてくれている。
胎内にいる我が子の背中を、優しくさするような仕草で、ゆっくりと優しく。

「どちらにしろ、その時が来たらまた、君にはしばらく苦しい思いをさせてしまうけれど…。それが私には一番歯がゆいよ。」
「ん…でも、今回は友雅さんが一緒にいてくれるから…」
あかねは顔を上げて、静かに微笑みながらそう答える。
そして彼の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「産むことは大変ですけどね…。苦しいけど…大丈夫です、頑張りますから。」
二度目と言っても、産みの辛さは変わらない。
初めての出産を覚えているだけに、あれをもう一度経験するだと思うと、正直言ってしんどい。
けれど、この身体の中に宿った命は、早く両親に会いたいと…そう言ってくれている気がする。
「だからね、早く父様に会わせてあげなきゃ…。」
「兄上と姉上にもね。あんなに楽しみにしているんだから。」
「ふふ、そうですねえ。」
まだ返事もしないお腹の子に、毎日毎日話しかけては撫でたりして。
笛や琵琶を聞かせたり、物語を一生懸命読んで聞かせたり…。
友雅だって、本来は男子禁制の産室に立ち入るため、身を清めに籠ってくれたくらいだ。
そんな風にして誰もが、新しい産声を待っている。

「みんな、待っているんだものね。」
「そうだよ。だから……」
髪の毛先をあかねの頬から払い、顔を近付けて彼女のまつ毛に唇を落とす。
「私がずっとそばにいるから…頑張っておくれ、"母上殿"」
「はい。見守っていて下さいね、"父様"」
互いの顔を見合わせて、くすっと一度笑ってから、唇を重ね合った。
そうして、あかねの身体を抱きしめる。
二人分の愛しい命を、一度にこうして抱いてやれるのも-------あと数時間。
明日の今頃には、初々しい小さな姿が自分たちの傍らで、静かに寝息を立てているに違いない。



今朝の朝餉は、あかねたちの寝所に用意されている。
出産直前の彼女があまり動かず済むようにと、祥穂たちの配慮だった。
「母様、お腹はどう?動いてる?」
「そうねー。でも今朝はまだ大人しいみたい。」
「まあ、今日生まれるっていうのに、お寝坊な子なのね。」
千歳の言葉に、友雅や祥穂たちも微笑みを隠せない。
果たして、自分たちの弟か妹に初対面したとき、二人はどんなことになるのやら。
「母上…いろいろ大変かもしれませんけど…どうか頑張ってください。」
「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ文紀。父上が、ずっと母上のそばに着いているからね。」
友雅が代わりに答えると、文紀はこくんとうなづいた。

子どもたちがそわそわと落ち着かないため、なかなか食事が終わらないでいると、若い侍女がやって来て、到着したばかりの客の名を告げた。
「殿、安倍晴明殿と泰明殿が、お見えになられました。」
まずは、出産の指示をしてくれる二人が、屋敷にやって来た。
これから続々と僧たちが祈祷のために到着し、更に仲間たちも訪れる予定だ。
そうしているうちに、あかねの身体も最終段階の兆しが現れるだろう。
ただし、全てが終わるまではそれなりの時間を要するはず。
落ち着くのは、まだまだ先だ。

「うむ?随分とゆっくりな朝餉なのだな」
晴明が顔を出し、そのあとから泰明が続いて姿を現した。
「晴明様、泰明殿、おはようございます」
「早朝よりご足労頂きまして、ありがとうございます」
綺麗に揃った対の人形みたいに、三つ指をついて深く頭を下げる。
大人が感心してしまうほど、千歳と文紀は揃ってきちんと二人に挨拶をした。
「二人とも、明日には兄上と姉上になるのだぞ。心しておくのだぞ?」
「ええ、承知しておりますわ!兄様と一緒に、やや子への贈り物も全部用意してありますもの!」
あかねや祥穂たちに習いながら、せっせと千歳が縫った産着。
宇敦に手伝って貰いつつ、イノリの指導で文紀が編み上げた、ベビーベッドとも言えるような籠。
それらもようやく、実際に使える時がやってきた。

泰明はあかねの隣に座り、衣の上から腹部に手を置いた。
小声で呪を唱え、手のひらで何かを探り当てるように何度か撫でると、静かに目を開けた。
「あと一時ほどしたら、兆候が出るだろう。そうしたら侍女たちに間隔の様子を見てもらい、落ち着きたいなら産室に向かえ。」
「……はい、分かりました。ありがとうございます、泰明さん。」

ああ、もうすぐなのか。
もう少ししたら、この子が合図を始めるのだ。
早くみんなに逢いたい、とお腹を叩いて伝えようとするのだ。

それから間を置かず、屋敷の外で牛車の到着を知らせる物音が聞こえた。
また一人、この命の誕生を見届け、祝ってくれる者がやって来たのだろう。
「つい今し方、藤原鷹通殿がお見えになられました。」
「ああ、もう鷹通が来てくれたのか。じゃあ、私が出迎えに行こう。」
別の侍女が告げにやって来ると、友雅はゆっくりと立ち上がって、あかねたちを泰明に任せたまま部屋を出た。



「おはようございます、友雅殿。あかね殿のご容体は、如何です?」
「おかげさまで、今のところは落ち着いているよ。でも、泰明殿に診て貰ったところでは、そろそろ中の子が騒ぎ出しそうだよ。」
鷹通はその言葉を聞くと、眼鏡の奥の瞳を柔らかく緩ませながら、屋敷の中へと足を踏み入れた。
付き添いに出て来た侍女に、友雅は鷹通の手荷物を渡す。
それらを所定の部屋に運ぶよう告げると、二人は共に母屋への廊下を歩き出した。

「既に産室は、用意されているのですね」
にわかに慌ただしい様子は、廊下からも見て取れる。
真っ白な布で覆われた部屋は、いつ出産が始まっても良いように、侍女たちが指示に従って最後の準備段階に入っている。
千歳たちが生まれる時も、こんな風だったな…と鷹通は思い出したが、あの時と若干違うところに気がついた。
「…少し、御帳台が中央からズレていませんか?」
真正面から見ているわけではないが、あかねが子を産むために入る白い御帳台は、母屋の中央よりもずっと西に近いところにある。
そして、表から随分と遠い、奥ばった位置に設置されているように思えるが。

「もう少々、中央に作られた方が、僧侶様や晴明殿方も祈祷されやすいのでは?」
「まあ、それはそうなんだけれどね。でも、理由があってのことなんだよ。」
友雅は答えると、廊下の途中で足を止めた。



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Megumi,Ka

suga