春の足音

 前編/002
四条にある屋敷を出た友雅が、牛車に乗り込み辿り着いた場所は、一条戻り橋近くにある邸宅。
広さはそこそこながら、庭は殆ど手つかずの荒れ放題。
相変わらず、華やかさというものには無関心の主が、入口で出迎えてくれた。
「お待ち致しておりましたぞ、友雅殿。」
白い髭を指で弄びながら、晴明は一見穏やかそうに微笑んで友雅を見る。
だが、稀代の陰陽師である彼の目は、一筋縄ではいかない。
その裏側でしっかりと張りつめた緊張感は、彼から消えることはない。

「さて、と。二日間の潔斎だが……離れの庵に場を用意しましたのでな。そこに籠もってもらうことになりますぞ。」
「わざわざご面倒をお掛けしまして、申し訳なかったですね。」
「いやいや。出産に立ち会いたいという理由があるのなら、わしもそう邪険には断り切れぬよ。」
高らかに笑い声を上げつつ、庭の木々をかき分けて進む晴明の後を追う。
しばらくして草むらの向こうに、小さな古い庵が見えてきた。

晴明が戸を開けると、中には燭台がひとつあるだけ。
広さは…畳四枚ほどの広さくらいか。窓はなく、戸を閉めれば暗黒が広がる。
「おお、そうだそうだ。まずは籠もる前に、母屋に沐浴の用意をしてありますからな。先に身を清めて頂かなくては。」
そのあとは二日間ここに籠もり、経を唱えて続ける。
最後にもう一度沐浴をすれば、これで潔斎はすべて終了となる。
「それが終われば、奥方殿の出産に立ち会えますぞ。」
二日間とはいえ、そう楽なことではない。
冬の寒さが厳しい時期だし、庵の中には暖などもなく、沐浴は勿論水である。
「でも、それであかねの側にいてやれるなら…たいしたことはありませんよ。」
「そこまで決心されているのなら、わしも止めはせんよ。頑張って下され。」

今でも鮮明に思い出す、千歳たちが生まれる時のこと。
あの時初めて友雅は、目の前で出産というものに立ち会った。
噂には聞いていたことだったが、自分の妻が自分たちの子を出産するという、今までにない展開。
時に息張るあかねの苦しそうな声が響き、それが耳に入ってきては、どうすることも出来ないまま落ち着かなくて。
せめて近くにいてやれれば…と思っても、産室は男子禁制。
陰陽師である晴明や泰明たちは、男でも祈祷のために産室に近付けるのに、夫の自分が立ち入れないなんて…と、理不尽に苛ついたりもしたものだ。
結局最後は泰明に頼み込み、産室に入れない代わりに外から彼女の手を握りしめてはやれたけれど…本当ならそばに寄り添っていてやりたかったのだ。

どうにかして、産室に入ることを許される方法はないのか?
永泉に尋ねてみたがはっきりした答えはなく、次に泰明に聞いたところ、晴明から"潔斎を行えば"という返事を貰った。
潔斎の儀式で身体を清め、まっさらな状態にしてしまえば、産室の空気を乱すこともないだろう、とのこと。
ただし、長丁場で潔斎に入るわけにはいかないため、今回二日間の潔斎を晴明の指導に従って行うことになった。
「出産は七日後、と泰明殿は言っていましたよ。」
「そうか。いよいよだなあ。今回も、さぞかし愛くるしい御子が生まれるに違いなかろうなあ」
男女の性別に関しては、その時のお楽しみにしておいて。
今回はどうやら、双子ではなく一人だけらしい。
「元気な産声を聞けるよう、わしらも祈っておりますぞ。」
もうすぐ目にする目映い小さな命を思い描きながら、晴明と友雅は沐浴準備のために母屋へと向かった。




「今日と明日は、私母様のお隣で眠りますわ」
友雅がいない夜は、やけに広くてひっそり静かな二人の寝室なのだが、今日は少し勝手が違う。
彼の代わりに、隣には千歳が横になって。
その反対側では文紀が、あかねを囲むように川の字に横たわっている。
「母上、ご気分が悪くなったら起こして下さいね。すぐに祥穂を呼びますから。」
「そんなに心配しなくても大丈夫だから。二人とも、ゆっくり寝なさい。」
あまりに甲斐甲斐しく気を遣う子どもたちに、苦笑いが浮かぶやら、微笑ましくて顔がほころぶやら。
あと一週間したら、お腹の子も生まれるけれど…そうなったら、今度はまた大騒ぎになりそうねー…。
…なんてことを考えると、楽しくて仕方がない。

じりじり…と、灯火がかすかに燃える音がする。
今夜は冷え込むけれど、火桶を用意したおかげで、部屋はなかなかに暖かい。
「ねー、母様。やや子の名前はもうお決めになったの?」
三人揃って仰向けになり、しばらく目を閉じていると、千歳があかねの方に寝返りを打って、そんなことを尋ねてきた。
「う〜ん…父様と話したりはしたけれど、まだはっきりとは決めていないわよ。」
「だって千歳、男か女か分からないうちに、名前だけ先に決めるなんて出来ないんじゃないかなあ」
今度は文紀が寝返りを打つ。
左右の顔に挟まれて、可愛い声が耳をくすぐる。

「大丈夫。どちらが生まれても良いように、男の子の名前も女の子の名前も、両方相談してるから」
「まあ、それは考えるのは大変ですわねえっ」
一人の名前を付けるのにも、字画とか文字とか、字の持つ意味や名前に込めた想いとか、いろいろ考えながら決めるのだ、と侍女たちが話していた。
それが二人分となれば、頭を悩ませていたのじゃないだろうか。

「でもね、名前を決めるのは楽しいのよ。全然大変じゃないのよ。」
「そうなの?」
「そうよ。こういう子に育って欲しいな〜って、お願いごとしながらいろいろ考えるのよ。」
例えば文紀は、実り多き人生を過ごせるように。
そして、文や歌などの才にも恵まれますようにと。
「名前にお願いした通り、歌も文字も立派に出来るようになったものね。」
あかねは文紀の頬を撫でながら、優しい息子を愛しげに見上げた。
「ねえねえ母様母様!私はどう?ちゃんと母様や父様のお願い通りに、大きくなったかしらっ?」
反対側から身を乗り出して、千歳が顔を覗き込む。
「もちろん。千歳も名前に込めたお願いを、ちゃーんとそのまま叶えて育ってくれたわよ。」
長き時を健やかに過ごせるように、いつも元気であるように。
そして何より……友雅と一緒に彼女の名前に込めた願い。
自分たちのように、時を超えるような出会いがあったとしても、それが素晴らしい恋でありますように。

…ホントにねえ。そんな出逢いが、思い掛けなくこんなに早くやって来ちゃったもんね…。
思い出される、去年の春に起こった…時空の悪戯。
二度と会えないかと思っていた彼らに、もう一度会うことが出来た。
そこで千歳は、ひとつ大人の経験をしてしまったのだ。
甘酸っぱい、サクランボみたいな。それは間違いなく…彼女にとっての初恋。

「詩紋くんに、また会えるかしらねー…」
「?詩紋殿?詩紋殿が、どうかなさいましたのっ?」
きらきら瞳を光らせ、彼の名前に妙に反応したりして。あまりに素直だから、つい笑いが込み上げてくる。
「ううん、何でもないわよ。ただ、この子が生まれたら、また天真くんや詩紋くんにも逢わせてあげたいなあって、そう思ったのよ。」
今度はいつ会えるか、保証なんて全然ないけれど。
でも、会えない保証もないから…絶望感も寂しさもない。

「最近僕、蹴鞠が少し上手くなったって言われるんだ。きっと、天真殿に教えてもらったからだと思うんだ。」
「そういえば、よく練習に付き合ってもらったもんねー」
同年代の宇敦とは違って、年上の天真は文紀には兄みたいな存在だったのかもしれない。
そして詩紋は……。

「詩紋殿にいつまた会えても良いように、教えて頂いたお菓子、ちゃんと作れるようにしたいわ。」
そこにいたという存在ひとつで、彼女の心を今も輝かせている。



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Megumi,Ka

suga