春の足音

 前編/001
早咲きの梅の花がほころび始めた-------という話を聞いたのは、十日ほど前だっただろうか。
雪がちらつくのも珍しくないのに、春は確実に歩みを進めて近付いてきている。

生き物たちは自然の摂理に従い、新しい息吹を吐いて目を覚まそうとしていた。
この、暖かな胎内でも…もうすぐ、産声を上げようと準備を整えて。



「もうそろそろだな。出産予定は七日後だろう。七日後の…夕方くらいだ。」
泰明はあかねの手を取り、彼女の脈の動きと血の巡りのリズムを数えながら、そう口にした。
「そんなに細かく分かるんですか?千歳たちの時は、もっとおおまかな感じだったじゃないですか。」
「初産の場合は、身体がまだ安定していないものだ。しかし、二度目以降の妊娠ともなれば、女の身体は完成して乱れが落ち着く。そうなれば、正確に出産日も計れるようになる。」
「へえー…そういうもんなんですかー」
ぱんぱんに膨れた腹を支えながら、あかねは泰明の話に耳を傾けた。

二度目の懐妊を告げられたのは、去年の春。
再びこんな時が来るなんて、まだまだ先かと思っていたのに。
……それはまるで、自分たちの絆を確認させるかのように、新しい命の存在を教えてくれた。
永遠にそばにいたい人。
永遠にそばにいて欲しい人。
かけがえのない、ただ一人の愛する人は他にいないのだと………幸せは、二人寄り添って一緒にいられることこそだ、と。
あの時、改めてそんな風に感じあえたあと…それは正しいことなのだと、この子は教えてくれているようだった。
「早いものだな。順調にここまで育って、良かった。」
「そうですね。友雅さんや、あの子たちのおかげです。」
ああ、もちろん泰明さんや晴明様にも感謝していますよ、と言いかけたとき。

「母様、泰明殿、柚子湯をお持ち致しましたわ」
長い袿の裾を引きながら、碗を乗せた盆を手にして千歳がやって来た。
こぼさないようにゆっくりと、しとやかに近付いてきて二人の間に腰を下ろす。
むくむくと沸き上がる湯気には、爽やかな柚子の香り。
腹が重くて動きにくい母の手元へ、千歳は碗を持って差し出した。
「はい、母様。熱いので気を付けてお飲みになってね?」
「ありがと、千歳。うーん、良い香り。芯から暖まりそう。」
あかねが柚子湯を啜っている間、千歳はぴったりと隣に寄り添う。
時々手をかざしては、腹を優しく撫でたりしている。

「ねえ泰明殿、母様のお腹のやや子って、男か女か分かるの?」
柚子湯を飲み終えた泰明に、千歳が身を乗り出して尋ねてきた。
「宇敦がね、町で聞いた噂らしいの。"陰陽師の安倍晴明様は、生まれて来る男女を見分けられる"って。それって本当ですの?」
「…ああ。そのような事も、可能ではあるらしいがな。」
晴明の一番弟子である泰明だが、これに関してはかなり高度な術らしく、晴明もまだ伝授するつもりはないらしい。
こういうのは特に世継ぎなどが重要視される、一部の上級貴族が頼みにくることが多いようだ。

「千歳は、性別が知りたいのか」
「うーん…知りたいとも思いますしー、知らなくても良いとも思いますしー…」
どっちつかずで首を傾げ、千歳は答えに迷っている。
はじめて自分たちに、新しい家族が生まれるのだ。
それがいよいよ目の前に迫っているのだし、彼らにとってはワクワクする気持もあるのだろう。
しかしあかねは、そんな彼女の背中をそっと叩いた。
「性別なんて、どちらでも良いじゃない?母様は元気な子だったら、男の子でも女の子でも良いわよ。」
千歳のように元気で、文紀のように優しくて。
健やかな子であれば…何よりも、それが一番の母の願いなのだ。

「とっても元気な子だったら、千歳たちとも一緒に遊べるじゃない?」
「…うん、兄様と一緒に遊んであげたいわ。」
蹴鞠をしてやったり、琴や笛を聞かせてあげたり。
「兄様とお話を読んで聞かせてあげるのよ。母様から教えて頂いた、姫様と皇子様のお話とか。」
「ふふふ…。お話の読み聞かせは、二人のお仕事になりそうね。」
千歳たちが赤ん坊の時は、自分が寝物語に話を聞かせてやったものだ。
日本の民話はかりではなくて、京では絶対誰も知らないはずの、イソップ童話やグリム童話など。
それらをこの子たちが、今度は読み聞かせる立場になるなんてね…。
本当に、あっと言う間に大きくなっちゃったのねえ。
千歳の姿を見ながら、あかねはそんな風に感慨に耽った。



すうっと静かに部屋の戸が開くと、文紀がそっと顔を出した。
「失礼します。母上、泰明殿、父上のお支度が済んだそうです。」
あかねたちが視線を向け、泰明が後ろを振り返る。
すると文紀の後ろから、続いて友雅が姿を現した。
「これからすぐに出掛けるのか。」
「ああ、必要なものは揃えたから、いつでも出掛けられるよ。」
友雅は小さな文紀の手を取り、彼を連れて中に進むと、あかねの隣に二人揃って腰を下ろした。

「文紀、ほんの二日だけど…よろしく頼むよ。」
「はい。父上がお留守の間は、しっかり屋敷を御守りします。」
「うん…文紀がいてくれるなら、父様は全然心配はしていないけれどね。」
母に似たさらりとしなやかな髪を、友雅は優しく撫でて微笑みかける。
齢五つの少年でも、気持ちは誰よりも頼もしい、自慢の我が子だ。
「泰明殿も、二日間よろしく。特に、あかねに関してはくれぐれもね。」
「言われなくても分かっている。おまえが戻るまで、常に体調に気を掛けているから、安心しろ。」
小さな我が子と、信頼の置ける仲間の一人。
彼らにこの屋敷を任せて……友雅は二日間、家を留守にすることになった。
もうすぐあかねの出産が近いというのに、こんな時期に彼女と離れなくてはならないなんて。

しかし、どうしてもやらなくてはならないことがある。
…それは友雅にしか出来ない、何よりも重要な儀式だから。
父である彼が、生まれくる我が子のために。
そして、子を産み落とすという大仕事を前にした妻のために、彼が出来るほんの些細な手助け。
そのために、二日間だけ友雅は家を空けなくてはならない。

彼女の頬を両手で包み、眼差しを落として友雅は妻を見つめる。
「大切な時に君のそばを離れるのは、私も心苦しいんだけれど…。すまないね。」
「大丈夫ですよ。文紀もいるし、泰明さんもいてくれるし。」
それに、彼がどうして留守にするか、その意味も分かっているから。
「帰ってきたら、そのあとは…ずっと君のそばにいてあげるからね。」
二人の唇の距離が狭まると、悟ったように千歳と文紀は、父と母の背中に顔を押し付けた。

いつもより、少し長い口づけ。
ほんの二日間、離れてしまうのを惜しむかのように、目を閉じて相手の唇を求めあって。
「何かあったら、泰明殿に頼んで私を呼び戻すんだよ?」
「分かってますよ。でも、あまり心配しないで…友雅さんは、自分のことに集中してきてください。」
友雅の手を包むあかねの手は、いつもよりもずっと柔らかく暖かい。
彼女の持つぬくもりに、もう一人の小さなぬくもりが、そのまま伝わっているような…そんな気がする。
「じゃ、出掛けるよ。千歳も文紀も、あとは頼むよ。」
「ええ。父様もお気を付けてっ!」
見送りに行けないあかねの代わりに、千歳が友雅の腕にしがみつきながら、とととっと入口まで付き添ってゆく。

「相変わらず、何の心配もない睦まじさだな、おまえたちは」
泰明がちらりとこちらを見て、そう言う。
あかねはちょっと照れながらも、胸に溢れそうな幸せに微笑みを隠せなかった。



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Megumi,Ka

suga