花ひとつ、春うらら

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年が明け、雪の降る日が若干減り始めた頃のことだ。
朝起きると、まず高欄を下りて庭に出る。
どんなに寒くても、あれを埋めた場所を確認しなくては気が済まない。
子どもたちにとって、それはすっかり日課となっていた。
「寒いから、僕が見てあげようか?」
「大丈夫よ!すぐそこだもの!」
雪の日が減ったとはいえ、一昨日はやや積もった。
当然庭にもまだ雪が残っているのだが、千歳はそんなこと気にしない。

鍋から立ち上る湯気のおかげで、部屋中が空気ごと暖まっている。
「殿、お先に失礼いたします」
「気にせずゆっくり味わうと良い。我が家の厨房の腕前は、大膳職にも匹敵するからね」
主より先に使用人が朝餉を摂るのも、この屋敷だからこそのこと。
家人のために働く彼らは、常に先に先にと行動せねばならない。
故に、食事も真っ先に摂らせる方が現実的に効率が良いのだ。
「はい、生姜湯です。皆さんの分も置いておきますね」
あかねから熱い生姜湯が手渡される。
すると友雅が、耳をすませながら言った。
「あと三つほど、追加した方が良さそうだよ」
複数の元気な足音が近付いて来る音。そして、がらりと開く戸と同時に目に入る子どもたちの顔。
「おはよう。朝から元気がみなぎっているねえ」
「父様父様!あっ、母様もお庭まで来て!」
おはようの返事も忘れて、千歳は父の手を引っ張りながら言う。
「お誘いを断るわけにはいかないな。あかねも、手を止めて一緒に行かないかい」
「そうですねえ」
子どもたちのテンションを見れば、何となくその理由が分かる。
あかねにとっても、あれが本当に"それ"なのか気にはなっていた。
これまでは雪に埋もれていて、何にも変わったところはなかったけれど……。

「ほら!木の実を植えたところから、青い芽が伸びて来たの!」
連れて来られたその場所を覗くと、確かに地面から小さな緑の新芽が。
「おや、本当だ。いよいよ春が近いということだね」
埋めた実の先端から飛び出したような芽が、土の色と雪の色の間をかき分けてちょこんと顔を出している。
「ねえ母様、これお花が咲くのかしら!?」
これは…もしかしてやっぱり。
でも、こんな時代にあの花があるわけがない。
そもそもあれは外来種だし、日本に自生するわけがないと思うのだけれど。
だがどう見てもこの育ち方は、あの花じゃないだろうか。
誰でも子どもの頃に一度は育てたことがあるほどに、生まれ育った世界では春を代表するポピュラーな花。
あかねの脳裏には、その花がしっかりと浮かび上がっている。
「うん、咲くかもしれないわね」
「本当?どんなお花が咲くの?」
「それは…父様が言っていたように、咲くまでお楽しみにしましょ」
これから更に暖かくなって、明るい日差しが空から降り注ぐようになれば、小さなこの緑の芽も伸びて葉を広げ、やがて蕾が出来る。
そうすれば、開花は目前。お楽しみの瞬間は、きっともうすぐ。
初めて見るその花を、彼や子どもたちはどう思うだろう?
みんなの反応を想像することが、あかねにとっては何よりも楽しみだ。



根雪も姿を消す頃になると、あちこちで花の便りが聞こえるようになった。
梅の花の爽やかな香り、鮮やかな色の桃の花の季節を経て、いよいよ京が桜色に染まり始める。
橘家の庭も、これからが一番良い季節。
万年桜は常に花を咲かせているが、他の桜も揃って美しく咲き誇る。
「永泉さまー、おやさいのあつものですわー」
「ああ、どうもありがとうございます、まゆき殿」
碗を受け取り礼を言うと、にこにこしてぺこりと小さな頭を下げる。
この家で一番幼い彼女だが、今では十分にお手伝いをこなす。
少し見ていないうちに、これくらいの年の子どもはぐっと成長する。
千歳や文紀だって、生まれた時のことがつい最近に思えるほど鮮明なのに、二人とも随分と愛らしく凛々しくなったものだ。

「それにしても、今年も美しく咲きましたね」
友雅に提を傾けられながら、鷹通が庭の桜を見てつぶやく。
毎年桜の時期には橘家に集まって、夜桜を愛でるのが定番行事となっている。
頼久、イノリ、泰明に永泉、そして鷹通。
どんなに忙しくとも皆それぞれに予定を調整し、たった一夜の賑やかな宴のためにここへ来る。
「友雅んとこに来ると、珍しいもの食えるから楽しみなんだよな!」
あかねの作る料理は京と現代を合わせた創作料理が多いので、イノリや頼久たちの舌にはいつも新鮮に感じる。
桜を始めとする美しい春の花と、とっておきの酒と手作りの料理。そして可愛い子どもたちの声。
主の言葉を借りて言うなら、春の橘家は桃源郷そのものだ。
「イノリ殿、今回はお料理だけじゃなく、もっと珍しいものがありますのよ!」
「珍しいもの?何か作ったのか?」
「ううん。でも、きっとみんな見たことないと思うの」
見たことがないものとは、一体何だろう。
子煩悩な帝に溺愛されている子らだから、異国からの貴重な珍品でも承ったのだろうか。
「父様、皆様をお連れしてもいいかしら」
「勿論だとも。是非見てもらうと良い。とても珍しくて綺麗なものだからね」
じゃあさっそく、と千歳たちはイノリや頼久の手を引いて立ち上がる。
あの無表情な泰明でさえ、まゆきに引っ張られると素直に応じるのが面白い。
子どもたちを先導に、夜風を感じる簀子の上を進んで行く。
いくつか角を曲がって、再び広い庭に面した小さい高欄までやって来ると、ようやく子どもたちの足が止まった。

「どうぞ、ご覧になって」
千歳が指差した庭の片隅には、輪を描くように小石がぐるりと並べられている。
その中に一輪、可憐な花が咲いていた。
「何だ、この植物は」
「え、これって花なのか?」
「不思議ですね…つぼみのような形をしていますね」
「確かに見たこともない、珍しい花ですね。野草の類いでしょうか」
「いえ、山や野でもこのようなものは、今までに見覚えがありませんが…」
誰一人として見たことのない、初めて目にするその花の名は。
「ちゅーりっぷって言うんですって」
「は?ちゅー…りっぷ?何だそりゃ、そんな花知らねえぞ」
見た目も名前も聞いたことがない。まったく馴染みのない言葉と形。
こんな花が何故、この場所に生えているのだろう?
「去年の秋に、千歳が庭でこの種を見つけたのだよ」
彼女の肩をそっと抱きながら、友雅が言う。
この庭のどこかで、彼女がたったひとつだけ見つけた"球根"という名前の種。
試しに土の中に植えてみたところ、こんな花が咲いたのだ。



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Megumi,Ka

suga