ふたつ星

 002
文紀の手には、弓が握られていた。
初めて彼にそれを手渡したのは、三歳の頃だ。
それからまだ一年と少ししか経っていないが、なかなか飲み込みが早く、随分と上達したらしい。
特別に連れ出された帝主催の宴の席では、その腕前を披露することになって一人前に緊張もしたらしいが、普段よりも優れた弓裁きに周囲を湧かせたものだ。
大人しそうに見えても、なかなか度胸は据わっている。
本番には強いようで、息子としては頼もしい限りだ。
「主上も随分と誉めておられたよ。私としても自慢の息子だよ文紀は。」
「でも、まだまだです…宇敦には全然かなわなくて、負けてばっかりで」

宇敦とは乳母の末息子である。
文紀よりも二つほど上だったか、まだ十にもなっていなかったように思う。
双子であり、常に妹という存在が近くにあるとは言えど、やはり同じ男同士の友達というのは貴重なもので、年令が近ければ更に交流を深めるきっかけが増える。
「文紀が宇敦と同じくらいになったら、彼の技量を超えるよ。だから心配などしなくても良い。」
年上の宇敦に張り合うくらいなのだから、充分才能はあるだろう。
しかし、そんな父の誉め言葉も、文紀にはすんなり納得行かないらしい。
「でも、今の年で宇敦に勝つことが出来たとしたら、僕がしばらくして今の宇敦と同じ年になったら、もっと強くなれるかもしれないでしょう?やっぱり負けるのは嫌だな…。」
自分の力の物足りなさに不服を覚えて、不満なような気を落としているような顔で負けず嫌いの性格を浮かび上がらせる。
そんなところが、彼女によく似ているなと思う。



「兄様は、よく母様に似ていると言われますでしょう?」
さっきからしげしげと文紀を眺めていた千歳が、突然そんなことを言い出した。
「…そうかな。たまに祥穂たちには言われるけれど、父様もそう思われますか?」
穏やかな瞳で上目遣いをして、文紀は父親の様子を伺う。
「文紀は…母様の面影が強いかな。千歳は……」
「やっぱり父様に似ているかしら?」
ゆるやかな波を描く緑黒色の髪と、友雅が教えて始めるようになった琵琶の音も、どことなく似ていると誰もが口にしたりするが、千歳も友雅もあまり自覚はない。
「そうだね…そりゃあ千歳は私の娘でもあるしね。だけど一番美しいところは、君の母様によく似ている。というよりも、文紀も千歳も、私が君たちの母様の一番好きなところがよく似ているんだよ。」
「え?どこが?」
口を揃えて二人が同時に身を乗り出す。
父からの答えを聞きたくて、目を輝かせてわくわくした心を抑えもしないで。

「瞳かな。目が良く似てるね。母様は真っ直ぐにものを見る目を持っている。どんなものに対しても凛とした立場でものを見ることが出来ている。それは素敵なことだね。」
あまりに真っ直ぐに見つめるから、目がそらせなくなる。
澄んだ瞳に映った心を、隠すことが出来なくなる。
隠そうとしても隠しきれない想いを、彼女の前ではさらけ出すしかなかった。
何よりも強い、かけがえのない力。
龍神の力ではなく、あかねが持っていた彼女自身の力。
友雅は、その力にかなわなかった。
惹かれずにいられなくて、熱くなる想いを冷やす事も出来なくて、未だにその熱は心の奥で燃え続けている。

「でもね、父様?乳母や祥穂や…それに、時々いらっしゃる父様のお友達にも、私は父様似で兄様は母様似だと言われることが多いのだけれど。」
文紀と自分を交互に指さして、千歳は尋ね返す。
それを諭すように、友雅は彼女の髪を撫でた。
「どちらにもちゃんと似ているよ。その割合がそれぞれに少しだけ違うから、どちらかに似ているように見えるだけだろう。」
そう友雅が言ったが、千歳の表情は腑に落ちない感じだ。
「父様に似ていても結構ですけれど、でも私は女ですから、殿方の父様に似ているよりは母様に似ている方が、正直嬉しいですわ」
その言葉に、友雅はこらえきれなくなって、つい声を上げて笑ってしまった。
「千歳は小さいのに、もう一人前の姫君のような言葉を吐くね。」
齢四つでも、彼女はすでにれっきとした女性。
土御門の藤姫に初めて出会った時は、確か十くらいの頃で、それでもしっかりしていて大人びた姫君だと思ったのだが、千歳はどうやらそれ以上のようだ。

それに続いて、今度はぽつりと文紀がこぼす。
「僕は…父様に似ているといいな。父様みたいに、主上に信頼して頂けるような人間になれたらいいなって思ってるけど。」
足をくずして肩の力を抜くと、一気に文紀の顔にもあどけなさが戻ってくる。
大人びた言葉を言ってみても、所詮はまだ四歳のこどもだ。
「そうだねえ。でも文紀は真面目だし頑張り屋だから、きっと私よりもずっと出世するだろうよ。」
「そう…かなぁ?」
「自慢は出来ないけれど、私は文紀ほど真面目とは言えなかったからねえ…。それだけ私より、文紀の方が将来有望っていうことだよ。」
まだふっくらとした丸みのある小さな手を取り、しっかりと握りしめる。
文紀の手がもっと広く、がっしりとした手に変わる頃には、友雅などよりも高い位を得ている可能性は高い。

内裏に上がることがあるとすれば、おそらく厳しい経験も少なからずするだろう。
橘家は貴族とは言っても、そう大層な地位がない。
鷹通の藤原家からなど、比べ物にもなりはしない。
時には、それが仇になるかもしれない。
だが、そんな中でも永遠に変わらないでいて欲しいのは、最愛の人によく似た瞳の輝き。
その輝きは文紀の心に繋がっているだろう。
その泉が淀むことなどないようにと、友雅は祈っている。
地位など些細なことだ。
そんなものより、かけがえのない美しいものを、汚さずに育っていってくれたら、と思う。





「あ、どうしたの?こんなところでみんな集まって」
萩重ねの小袿装束が、あかねの声と共に三人の目の前に現れた。
丁度庭で揺れている萩の枝に、良く似合う色彩だ。
「父様がこんな時間にお屋敷に戻っているの、久しぶりでしょう?だから、色々とお話してたの。」
千歳がそう答えると、あまり疲れさせないようにね、と穏やかにたしなめつつ、あかねは微笑んで子供達を見た。
いつのまにかその笑顔は、出会った頃より少しだけ大人びて見えて。
しかも文紀たちを見る目は、明らかに母親の表情だった。
「まあ、あかねもここにおいで。たまには一家揃ってのんびりするのも悪くはないだろう?」
微笑ましい三人のまどろみの風景を、あかねは瞳に映す。
着慣れた袿のすそが、ほのかに風になびいたあと、そっとあかねは友雅の隣に腰を下ろした。

「兄様、ちょっとちょっと」
いきなり千歳が、文紀の袖くぐりの緒をくいっと引っ張ったので、思わず身体がそちら側によろけた。
「どうしたの?二人とも急に慌てちゃって…何かあったの?」
あかねが友雅と共に、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
千歳は姿勢を正して文紀の腕をつかむと、そそくさと廊下の方へ歩いていく。
「あ、あのね!乳母やが香の組みを教えて下さるって、兄様が宇敦から言われてたんですって。だから私、ちょっと乳母やのところに参ります!」
なかば千歳に引きずられるようにして、文紀は彼女のあとを追いかけていく。
ふたつの日だまりが過ぎ去った部屋は、とたんに黄昏時のようにひっそりと薄暗くなったような気がした。


■■■



色づいた萩の枝が、秋の風に揺らいでいる。
池の水面には澄んだ空の色が移り、どこかから舞い落ちてきた木の葉が小舟のように揺れていた。
友雅はあかねの身体を引き寄せて、そっと両腕で抱きしめる。あかねはその広い胸に頬を寄せて、友雅の心音に耳を傾けた。
「さっき、千歳から聞いたよ。そろそろ結婚記念日の時期だね。」
「あ、うん…そうですよね。だからちょっとしたお祝いの宴でも開こうかって、そんなこと思ってたんですよ。」
「そうだね、さぞ賑やかで楽しいだろう…。」
「他の八葉のみんなも呼んで…出来たら藤姫も呼んであげたいな。」
京で出会った全ての人を呼んで、豪勢じゃなくても楽しく時を過ごせたら良い。広々とした池に浮かぶ月が、黄金に輝いて眩しく光る季節だ。
共に同じ時を過ごした人と、これからも同じように生きていきたい。
出会えた運命を、ずっとこれからも紡いでいきたいから。

「あかね」
「…はい?」
友雅の胸に抱きしめられたまま、自分の名を呼ぶ彼の顔を見上げる。
「…………今の君は、幸せかい?」
何度となく問いかけた言葉。
彼女が幸せでいるのかどうかが、いつもどこか気になっていて。
「文紀と千歳と、友雅さんと……こうして一緒に暮らしてて、毎日不満なんて全然ないですよ。」

共に生きていこうと誓い合ったとき、友雅は彼自身に誓ったもう一つの事がある。
彼女が---あかねが、どんな時でも『幸せだ』と言ってもらえるような世界を築いていくこと。
自分を見上げる瞳が、いつでも穏やかで暖かい色で輝いているように。
それは友雅が、これからもずっと誓っていかなければならないこと。

死が二人を分かつまで。

唇を重ねたあと、ゆっくり瞼を開いて見上げるその表情は、恋に落ちた少女のままで変わらない。
友雅の腕の中でだけ、恋した少女は永遠に生き続けている。



■■■



「どうしたんだよ千歳…いきなり。何かあった?」
慌てる文紀の手をしっかりと握ったかと思うと、今度はそそくさと外廊の方へ連れ出した。
「やあね兄様ってば。少しは父様と母様に気を利かせないといけないのよ、こういう時は。」
まだきょとんとして状況を飲み込めない文紀だが、こういう時は千歳の気の転換は素早い。一瞬でもその大きな瞳は、見逃さなかったのだ。
あかねが部屋に入ってきて友雅のそばに座ったとき、そっと友雅が彼女の手に触れて握りしめたこと。

「父様と母様は、とっても仲がおよろしいから…時々は二人だけにして差し上げないといけないものなのよ。」

こういう事はさっぱりまだ技量が備わっていない文紀とは正反対に、少しずつそんな甘い感情の変化を覚えようとしている千歳は、膨らみかけた桜の蕾のように可憐な愛らしさをこれからも増していくのだろう。

そしていつしか、父の目にも眩しいほどの華やかな大輪の花として、鮮やかに咲き誇るに違いない。





-----THE END-----




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