ふたつ星

 001
長雨に包まれた毎日が続いていたが、珍しく今日は一日天気が良さそうだ。
青い空には白い雲が流れている。
蔀をすべて開け放つと、庭先から吹き込む風が屋敷の中に通り抜けて心地よい。
夜勤の疲れのせいだろうか。
昼下がりになって廂に腰を下ろした友雅は、ゆっくりと身体を横たえるとすぐに寝息を立てた。

気付けば、左近衛府の大将となってしばらく経つ。
その為、何かと手の掛かることが多くなったことも加え、馬御監も例外なく兼任せざるを得ない。
昔のように気ままに職をこなせなくなり、慣れた今でも一日の勤めのあとに残る疲労は、身体に負担をかけることもある。
こういう暖かな日だまりを感じられる午後は、ぼんやりとゆっくり過ごしたい。

半分だけ意識を残したまま、友雅は眠りの中にいた。
どこかから元気な子供の声がする。
おそらく息子の文紀が、乳母の子供たちと蹴鞠でもしているのだろう。
もうすぐ四歳になる文紀は、年の割には聡明で利発だとなかなか評判も高い。
父親である友雅としても、そんな息子の噂を聞くのは結構悪い気がしないものだ。未来の姿を、夢の中で思い描くのも良いだろう。


おぼろげな意識が消えようとしていたとき。
「父様っ!」
ふわりと軽やかな身体が、友雅の上に乗りかかる。
頬に触れる長い髪に移る香が、萌える若草のように感じる。
「…どうしたんだい?」
友雅は千歳の背中に手を伸ばして、覗き込む娘の顔を見上げた。
「母様が、今日は父様はお帰りになってるって言っていたからやって来たの。だって最近、父様はお勤めでがお忙しくて、なかなか屋敷にお帰りにならないから」
小さな手のひらが、友雅の頬をくすぐる。
「寂しかった?」
「お忙しいのは承知しているけれど、一緒にいてくれる時間が少なくなったから…とっても寂しかったのよ」

はきはきと感情を口にする娘の千歳は、友雅に似た緩やかな波をたたえる髪を持つ。そのせいか、人は千歳を『父親似』と称することが多い。
だが、真っ直ぐな瞳の傾け方や甘やかな声は、母親であるあかねに似ていると友雅は思った。



「ねえ父様、けっこんきねんびってなあに?」

千歳は友雅に身を寄せて、一生懸命に語りかけてくる。
はっきり言って睡魔と疲労が溶け合っている友雅の身体は、すぐにでも眠りにつきそうな状態だったが、愛娘の話を無視することも出来ないし、むしろそういう気もない。
「結婚記念日っていうのは…父様と母様が婚儀を交わした日ということだよ。大切な日だから、忘れないように日付を覚えておいて、お祝いしようという…そういう日のことかな。」
父の言葉に、千歳は興味深く耳を傾けている。
「ふうん……?あのね、母様と祥穂が一緒にね、来月は父様のお友達も呼んで宴を開きましょうって言ってたの。どうして?って聞いたら、来月は結婚記念日だから、って」

頬をかすめる風の中に、どこかしら涼しさが漂うようになってきて…ふと気付いた。もうすぐ秋がやってくるのだ。
初春の頃にあかねと出会い、恋に落ちて……夏の暑さと同じくらいの熱情を抱いて、野山が紅色に染まり始めた頃、友雅はあかねを北の方に迎えた。
それからしばらくして…彼女は子を宿し、文紀と千歳という二人の子供を産んだ。
そんな二人も、もうすぐ四つになる。

日々が流れるごとに輝きを増していく、自分とあかねの命を分け与えた子供達。
彼らが成長していくにつれて、我が身が老いていくことを恐れたこともあったが、不思議とここ数年は身体も鈍らず、周囲からは老いが止まってしまったのでは?と言われることも多い。
それは友雅だけに限らず、あかねや他の八葉たちも同じ状況に陥っている。
これは龍神の力なのだろうか?

だが、それは子供たちの成長をゆっくりと眺めていられるということ。
そう思えばむしろ微笑ましく、嬉しく思えてくる。


「ねえ?父様は母様のどんなところがお好きなの?」
これくらいの年になると、娘の方がませた口を利くようになる。
文紀は口数が多くない方だが、千歳といえば、何かと疑問が浮かべば友雅に尋ねてくるのだ。
「お好きになったところがあったから、一緒になられたのでしょう?」
「そりゃあね。千歳だって嫌いな人と結婚などしたくないだろう?」
「うん、そうね。」
彼女が婚儀を交わすのには、もうしばらく時間がかかるだろうけれど。
それでもあと五年ほどしたら、文のひとつも送られてくるかもしれない。
そうしたら自分はどう対処するだろう?
そんなことをぼんやり考えていた友雅に、千歳は顔を寄せてこまっしゃくれた事を言う。

「母様がおっしゃってました。父様は若い頃、あちこちの女性からお声をかけられていて。しかも何人もの女性のお屋敷に通われたりしてらしたって。」
娘から言われた言葉に、友雅は思わず苦笑するしかない。
今更過去のことを誤魔化すつもりもないが、我が子からそんなことを尋ねられることになるとは思わなかった。
正直なところ、複雑な心境である。
「でも、結構です。それもまた殿方の甲斐性というものでしょう?母様とご結婚されてからは、一切そんなことはないとお聞きしてますから。」
大人びた事を答える千歳を、友雅は引き寄せて両腕で抱きかかえた。
指先がすくう長い黒髪に光が注ぎ込み、艶やかに輝きを増している。

「母様のどんなところが、そんなにお気に召したの?」
太陽の光を集めたように輝く瞳で、千歳はもう一度尋ねる。
しばらくぼんやりと色々なことを思い出しながら、友雅は答えを探した。
「真っ直ぐな瞳と、真っ直ぐな心かな。君の母様はね、どんなときも嘘や偽りなどを口にしない。真実だけで生きているような人だった。父様は正直いって、嘘を言っても楽にその場を切り抜けられれば良いと、そんなずるいことを思っていたんだけれど、母様は違った。」

どうせいつかは消えるだけの命。
それならばあれこれと立ち止まって悩むよりは、さらりとその場を誤魔化して通り過ぎれば良い。嘘であれ、その瞬間が楽しければ良いのだと。
その友雅の意識を全て塗りかえてしまった、まばゆいばかりの強い光。
彼女の無垢な瞳からこぼれる涙の雫が、友雅の心に立ちこめていた煤を洗い流した時……はじめて手放したくないものを見つけた。
そして、自分の心に嘘が付けなくなった。
彼女を愛していることを、誤魔化せなくなった自分は………その手の中に彼女を抱きしめていた。

「母様には嘘は言えないよ。そんなこと言ったら嫌われてしまうからね。それだけは困る。」
笑いながら友雅は想い出を語った。
「何人もの姫君に会ってきたけれど、君の母様ほど想った人はいないよ。私にとってはかけがえのない人だ。……千歳や、文紀と同じくらいにね。」
ふっくらとした彼女の頬に、軽く友雅は口づけをした。



「ねえ千歳、父上はお勤めでお疲れなんじゃないの?あまりうるさくしてはいけないよ」
高欄から姿を見せた文紀が、二人の方を覗き込むようにして声をかけると、千歳は更に友雅にしがみつく。
「だって、しばらくゆっくりお話も出来なかったんだもの。今日くらいは良いじゃない?」
「駄目だよ。こういう時間が取れたからこそ、ゆっくりお休みにならないと、父上のお身体に障ってしまうじゃないか」
生真面目な文紀の言葉に、不服そうな千歳はふくれっ面で対応する。
二人のそんな姿が、何とも愛おしくてたまらない。
「文紀、良いから君も上がりなさい。君ともゆっくり話もしている時間がなかったからね。こっちにおいで。」
友雅が手招きをすると、文紀は少し嬉しそうに表情を変えたが、すぐに複雑そうな顔に戻ってしまった。
「だけど父上がお疲れになっては……」
「そんなことは気にしなくていいから。せっかく少し暇が出来たんだから、今日は二人と一緒に夕餉まで過ごそう。」
二度目にそう父から言ってもらえた時、やっと文紀はホッとしたように高欄を上がった。



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Megumi,Ka

suga