翼の設計図

 003
「これは泰明殿、久しぶりに顔を見るような気がするね。それも我が屋敷で貴方に会うことになろうとは、思っても見なかったことだけれど。」
傾いた夕日が差し込む部屋に友雅が立つと、泰明の無垢な視線が彼の方へ向けられた。
「急な用が出来てこちらに参った。」
「……急な用事、ね。それは私に関する事かい?。それとも…そこにいる愛らしい桜姫に関する事なのかな?」
畳んだ扇ですっと差した方向には、肩より少し長く伸びた春色の髪をした少女がいる。この世でただ一人、友雅が心の全てを贈った最愛の娘だ。
「お、おかえりなさい…友雅さんっ」
慌ててあかねが手を付いて頭を垂れようとすると、近づいた友雅がそれを阻止して軽く身体を抱き寄せる。
「そういうしきたりを気にすることはないと、いつも言っているだろう?私とあかねとの間には、何一つ上下関係などないのだからね。」
「でも、あの……体面上ってものがあるじゃないですかっ…お客さんの目の前だしっ!」
「気の知れた客人の前では、いつも通りに振る舞っても差し障りはないよ」
「きゃっ…やめてくださいよぅ〜☆」
抱きかかえたあかねの頬に、軽く唇で触れる。
少し身をこわばらせて、ぶるんと震える小さな細い肩。友雅の妻としての生活が、もはや神子の頃の時間を超えようとしていると言うのに、未だに愛情表現に敏感に反応する姿が愛おしくてたまらない。


……例え二人が必要以上にじゃれ合っていたとしても、それを目の前にして動揺する泰明ではない。
黙って眉一つ変化させずに、彼はそこにただ座っていた。
「ああ、申し訳ない泰明殿。話を聞かねばならなかったのだね。」
「おまえたち二人に関する重要な事だ。一言も漏らさずに黙って聞け。」

そう言って泰明が話を切り出そうとしたとき、そっと伸ばした友雅の手にあかねの体温が伝わった。
「……どうしたんだい?少し、いつもより肌が暖かい気がするけれど…気のせいかな?」
「えっ?あ、あ……ど、どうしたんだろ?べ、別に何も…ないんですけど……」
あかねはそう言ったのだが、どことなくいつもと微妙に違いがある。
触れた手で感じた体温はやや高めで、どことなく瞳もとろんとしている気がする。
「熱でもあるかい?薬師を呼ぼうか?」
「あ、だ、大丈夫です!ちゃんともう……明日にでも呼んでもらえるように頼んであるから…大丈夫です!」
間違いではなかった。泰明が来る前に、侍女たちが早々に薬師の手配をしてくれ、明日にはおそらく屋敷にやって来るだろう。
しかし今の友雅にとって、あかねのわずかな表面上の変化にも敏感に反応せざるを得ない。どんなものにも代え難い存在である彼女にもしものことがあったとしたら……それに気付かないでいた自分を、責めきれるものではない。
そんな感情を気付いたのか、泰明が一言友雅に告げた。

「友雅、神子は病にかかっているわけではない。おまえが不必要に不安を抱く必要はない。」

病ではない、となると何があるのだろう。
「では、泰明殿は知っておられるということだね?あかねの容態が少しいつもと違う気がするのはどうしてなのかな?私に何か手を貸すことはないのだろうか?」
「落ち着け。おまえが気を乱す必要のないことだ。」
泰明はそう言って、友雅の腕の中にいるあかねを見た。
頬を紅色に染め、とろけるような瞳をしてこちらを見ている。


「友雅、神子は子を宿している」


起伏のない泰明の声がそう告げた瞬間、友雅の袂をあかねがぎゅっと掴んだ。
だが、それにも友雅は気づけないでいた。
友雅の心の動きは、泰明の言葉と同時に静寂を生んだ。


「先日、私は神子と似た気を感じた。しかしそれは…友雅、おまえの気とも似通っているものだった。一体その正体が何なのかと考えていたが、お師匠に言われてここにやってきて、直に神子に会って確信した。神子は間違いなく懐妊している。」
泰明はそっと腰を上げて、二人のそばに行き再び床に座った。
そして先程のようにあかねの手のひらを取り、指先で何かを探るようになぞった。
「ここに来る前に、お師匠に法を教えて頂いた。確かに子を宿している兆候が神子から感じられる。新しい気が、神子の体内に存在している。」
泰明が手を放すと、あかねは手を袿の裾へ引っ込めた。
必要以上に動悸が速く鳴り響き、全身から友雅の身体に伝わりそうな気配だ。

「時は翌年の弥生月頃になる。それまでは無茶をせぬよう養生するように心掛けることだ。出産の際には、お師匠も手を貸してくださると申されていた。友雅はいつものように努め、神子は身体を大事に。あとは薬師に従うことだ。」

最後にそう泰明は言い残して、その場からあっさりと去っていった。




夕闇が部屋一面を包み込み、おぼろげな空間を作り出す。
言葉も交わさないまま、あかねは友雅の腕に抱きしめられたまま時間の流れに身を委ねていた。
何を言えばいいのか思いつかないまま。
何を考えているのか見えないまま。----------言葉が出ない。

自分の中に命があることさえ、まだ実感がないのだ。
女であること、そして妻となり、愛する男に愛されたとき、いずれこの時が来るだろうとは分かっていたが、あまりにそれは突然すぎて。
母親になる…ことがどんなことか、これからどうすれば良いのかさえ分からないでいるのに。
やっと友雅の妻であることを、自分自身が認められるようになったというのに、今度は母親になることを認めなくてはならないなんて。

友雅はさっきから、何も言わない。
何か…言ってくれれば、何か…言って欲しい。
今の二人に与えられた現実の出来事を、彼がどう感じているのかがあかねには一番気になることだ。友雅の想い一つが、あかねの心を左右する。

「…………何と言えば良いんだろうねぇ………」

夕暮れの太陽の明かりと、夜空の月の明かりが混じり合う頃。
やっと友雅が口を開いた。
「しばらく考えたが、どうも上手く表現出来る言葉が見つからない。どうやって今の感情を形にすれば良いか、全く検討が着かないよ。」
ずっと考え続けていた。自分の心の表現方法を。幾千もの歌や言葉を羅列しながら組み合わせても、気の利いた台詞には縁遠くて。

「私……と、君との子供……か」

二人の結晶が、あかねの体の中に命として芽生えている。こうやって抱きしめている最中でも、その命はしっかりと呼吸をしているのだ。
目には見えないが、二人の身体の間に挟まれるようにして……存在している。それが不思議でならない。
それ以上に不思議なことは、こんなにも穏やかな波を寄せている自分の心の中だ。

「命とか人生とか、全くこれまで固執したことなどなかったのだけれど……君と出逢ってからはすべて覆されることばかりだよ。」

そう友雅が苦笑すると、あかねが腕の中で彼の顔をそっと見上げていることに気付いた。



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Megumi,Ka

suga