翼の設計図

 002
友雅の妻となってから、あまり外を出歩く自由はなくなった。
それもそのはずで、屋敷にいるときは幾重にも重なる袿を身にまとっているために、そうそう自分の意志で歩き回ることは無理なことなのだ。
故に、この京で親しくなった数人の知人たちとも、しばらく顔を合わせていなかった。どうしているだろうか、と気になっていたところだったのだ。

「…………どうした?」
「え?いえ、相変わらず元気そうだな、って思って」
「特に問題ない。いつもと変わりない。」
淡々とした感情控えめの声で、泰明はあかねの顔をまっすぐ見つめながら答えた。
そよ風が吹くだけで軽く舞い上がる細い髪。長く絹糸のような髪を結い上げて、驚くほど表情を殺した美しい顔ではっきりと答える。八葉として共に過ごした頃と同じだ。

「今日は友雅さんとお約束でもしてました?まだお努めから戻っていないんですけど…」
「友雅に会いに来たのではない。私が今日ここに来たのは、お前に会うためだ」
「…私に?」
首を傾げて疑問符を投げかけてくるあかねに、泰明は澄んだ視線を投げかけたまま何かを見つめているように見えた。
だが、それはあかね自身というよりも、もっと奥深くにある何かを捕らえようとしているかのようだった。
そんな彼が、すっとあかねの目の前に手を出した。

「神子、手を貸せ」
「え?手……ですか?」
あかねは言われるとおりに手を差し出すと、泰明はそっとその手を取って視線を落とした。
「何か……あるんですか?」
不思議そうなあかねの問いに答えることもなく、ただじっと泰明はあかねの手をなぞりながら見つめていた。


■■■


その日昇殿した友雅は、帝の御前にて世間話を嗜んでいた。
「と言うわけでな、大納言殿も初孫だと言うわけで、大層可愛がっておられるようだよ。」
話題の中心となっているのは、先日孫姫が誕生したばかりの大納言のことだった。結婚してから三年近く経ってようやく授かった子供に、普段はいかめしい表情の彼も顔がほころんでいるとの話だ。
「見かけによらず、随分と子煩悩と名高い彼のことだからね。それが孫姫であるとなれば、さぞかし可愛くて仕方がないだろうな。」
「あの大納言殿がそばにおられるようでは、そう簡単に姫のところへ通うことは出来そうにありませんね」
そう答えながら友雅は笑った。
殿上人の雅やかないでたちにそぐわない、がっしりとした体格の大納言は武人としての方が風格ありそうに見える。

「そういう友雅の方は、いかがなものかね?」
「と、おっしゃいますと?」
御簾の房が風に揺れた。夏草の香りを乗せて風が舞い込む。
「奥方とは相当仲良くやっているとの噂、毎日のように耳にしておるよ。あちらこちらの女御たちが口を揃えて唱えるものだからね、私も気になるようになってしまった。」

昇殿の度に顔を合わせる女房たちは、そこはかとなく友雅の私生活を聞き出そうと声をかける。
だが、そんなことですんなりと自分をさらけ出す彼ではない。
甘い歌でごまかしながらその場を去るようにくぐり抜けてきたが、帝の御前ではそうもいかない。

「…やっと見つけた稀少な宝珠のようなものですからね。そう無闇な扱いは出来ませんよ」
やや揶揄的な答えを友雅は返したが、その言葉にどれほどの彼の想いが込められているのかを、おそらく帝は気付いたことだろう。
誰一人として心の奥底へ招き入れることのなかった友雅が、抱きかかえるようにして自分の心へと連れてきた、たった一人の少女。
おいそれと手甘な扱いが出来るわけがない。

「それで、友雅の方はどんな様子なのだ?若君や姫君の話を聞かせてもらえるまでは、もうしばらくかかりそうかね?」
少し立ち入った帝の問いに、友雅は一瞬どう答えようかと考えた。
逆に帝としては、友雅がどう答えるか楽しみではあった。
「……こればかりは、まさに神からの思し召しというもので。その時がやって参りましたら、帝の御前にてご報告させていただきます所存でおりますが。」
「うむ。それを楽しみにしているよ。なるべく早くその喜びを伝えに来てもらいたいものだね。内裏に咲く大輪の君と名高い友雅と、龍神に守護された奥方との子ならば、男でも女でもさぞかし利発で見目麗しい御子であるだろう。」
「さあ、そればかりはまだ何とも…。いつになることやら、私には全く見当の付かないことであります故。」
そう苦笑しながら友雅は言葉を濁した。



………子供。目の前にして、そんな言葉を投げかけられると戸惑いを覚える。

あかねを北の方に迎えてから、夫婦として生活を始めて数ヶ月が経つ。今すぐとは行かないまでも、おのずといつかは自分が父親となる時がやってくることは理解出来ていた。
だが、それは一体どんな気持ちなのだろう?
自分の身と、そして何よりも愛するあかねの身を合わせて生まれ出る命とは、どんなものなのだろう。
その命の存在を確認したとき、自分はどんな風に変化するのだろう………。

あかねとの出逢いの中で、知らずにいた熱い心をはじめて知ることになった友雅にとって、おそらく次にやってくる新しい感情の経験は…二人の間に命が芽生えた時になるのだろう。
楽しみなようで、どこか不安もある。

その時が訪れるのは、いつになるだろう………。

友雅は用意されていた牛車に乗り込み、屋敷への帰路についた。


■■■


屋敷を囲むように伸びる橘の葉は、季節を追う毎に一層緑の鮮やかさを増してきて、白い花のつぼみをあちこちに膨らませている。
あかねの目を楽しませるためにと、寝殿に見える庭の生け垣に新しく植えた姫百合の花も一斉に咲き誇り、目だけではなく香りでも四季の移り変わりを楽しませてくれていた。

屋敷へ上がろうとした時、あまり見覚えのない車が停まっていることに気付いた。
来客がいるらしいが、誰なのか検討もつかない。
異世界からやってきたあかねに、屋敷までやって来るほどの親しい付き合いをする知人がいるわけもない。
だからと言って、友雅にもそこまで親しい知人は殆どいない。

友雅の帰りに気付くと、侍女の霞が、根菖蒲重ねの裾を引きながらやって来た。
「誰か客人がいらしているようだけれど、どなたがおいでなのかな?」
「はい、実は安倍泰明殿がおいでになっております」
「泰明殿が?これはまた珍しい……」
とは言ったが、彼ならばこの屋敷に訪れても別段不思議な相手ではない。
八葉として、あかねを共に護るため戦った戦友のようなものだ。

「しかし突然だね。何かまた一騒動でもあったのかな?」
「はあ…何やら奥方様に急用がおありとのことで。お部屋にお通し致しまして、しばらくお話をされておりますが、よろしかったでございますか?」
「ああ、構わないよ。これでも泰明殿のことは信頼しているのでね。」
友雅は霞に来客分も含めた酒と膳の用意をするように伝えてから、あかねのいる部屋に続く透殿を渡った。

夕暮れが近い庭に流れる風が、ひんやりと頬をくすぐった。




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Megumi,Ka

suga