翼の設計図

 001
風が頬をかすめていくと同時に、不可思議な気の流れが泰明に触れていった。
「………?」
瞳と精神を研ぎ澄まして、目に見えないものを捕らえようと自分の気を整える。
おぼろ月のように淡い黄金色のそれは、ゆるゆるとかすかに動いてはその場から離れようとしない。それに気を取られている泰明を、立ち止まった晴明が振り返って見た。
「どうした?何か怪しでも潜んでおったか?」
「…………………………誰だ」
晴明の声が耳に届いていたのか分からないが、泰明はその不可思議な気に向けて言葉と意識で尋ねたが、はっきりとした返事は返っては来ない。
ただそこにその存在はあり、泰明しか感じ取ることが出来ないらしい。



「では、お師匠には何も見えていなかったと?」
屋敷に戻ったあと、さっきの話を晴明に詳しく説明した泰明だったが、どうやらあの気を感じることが出来たのは泰明一人だったようだ。かの安倍晴明であっても、その姿を捕らえてはいなかった。
「おまえにしか見えないものか……ふむ、わしも落ちぶれたということかの?」
少し白髪の混ざる顎鬚を指先で弄びながら、晴明は冗談交じりにそう言って見せたが、彼の力はとめどなく溢れ続ける源泉のようなものであることは、泰明や兄弟弟子、果てはこの京の人間の誰もが知っている事実だ。
だが、そんな彼さえ捕らえられない気。

「あえて言うのなら………神子の気に似ていたような気がする。」
しばらく何か考えていた泰明が、ぽつりとそんなことを言った。
「神子の?そういえば彼の娘は確か……橘少将殿の北の方になられたと聞いたな。しばらく逢ってはおらぬが、元気なのだろう?」
「宮に上がった際、時折友雅と顔を会わせることがあるが、別段変わったことはないと思う。」



数ヶ月前、異世界から訪れた龍神の神子であるあかねは、泰明と同じ八葉である橘友雅左近衛府少将の北の方として、彼の屋敷へと招かれることになった。
鬼の一族との戦いの中で、お互いをかけがえのないものだと二人が気付いたのは、いつ頃のことなのかは分からない。
しかし最後の戦いの時、彼女の手を引き寄せたのは間違いなく彼であり、その手をしっかりと握りしめたのは彼女だった。
求め合う手が結ばれたとき、二人の中には八葉と神子の絆以上に強い絆が生まれたのだ。

それから間もなくして………彼らは夫婦となった。
宮城で希に見かける友雅は相変わらず飄々としながらも、左近衛府の努めをそれなりにこなしつつ昇殿することもあるようだが、今までのような華やかな話題はさっぱり聞かなくなった。


-----橘少将殿のお目に止まるのは、鮮やかに咲き誇る花の群れよりも一輪の可憐な花のようですね-----


内裏の御簾越しに女房達が囁くのは、そんな溜息混じりの言葉ばかり。かつては彼一人がそこにいるだけで、宴の如き華やかな世界を味わっていたというのに、今では月が雲に覆われてしまったかのようだとの声が聞こえる。
努めが終われば、足はそのまま屋敷へと向かう。彼の帰りを待ち望む少女のためだけに、今の彼の時間は存在する。


泰明はさっきの気に、もう一つ引っかかるところがあった。
「…確かに神子の気に似てはいる。だが…友雅の気に近いような…感もある。」
「少将殿の気か?龍神の気を持つ神子殿と、八葉である少将殿やおまえの気は別のものだぞ?」
分かっている。
だが、どうしてもあの気から友雅の面影が抜け出ない。
「分からぬ……神子の気と思えば、今度は友雅の気のような……何かの怪かしか?」
違う。あの気には…全く邪というものがなかった。
それは神子から感じた神気に似て、暖かで…そして浄化された清水のように澄んでいた。
まるで生まれたての命の輝きのように。


「ふむ…。ん?泰明、ちょっと待て。その気………………」
閃きが脳裏を横切ったとき、彼は決まって閉じた扇で脇息を軽く叩く。晴明が何かに気付いたようだ。
「もしかすると……それはもしかするかもしれんぞ?」
先が読めないでいる泰明を尻目に、晴明の表情はほころぶかのように穏やかだった。


■■■


「奥方様、もう粥はよろしいのですか?」
朝餉の席であかねに付き添っていた侍女の祥穂が、碗の半分ほど残ったままで箸を置いた彼女を不思議そうに覗き込んだ。
「うん……何だかあまり食べたくなくって……。あ、別にね、用意してくれたものが美味しくないとか、そういうわけじゃないんですよ!ただ、ちょっと食欲が…あんまり…」

祥穂たちが用意してくれる朝餉は、比較的あっさりした味付の軽めのものだった。暖かな粥、野の作物を煮たものなど…起きたばかりの身体には優しい食事で、自然に身体へと染みこんでくるために、ついつい食べ過ぎることもなきにしもあらずだった。
だが、いつもであればすべてを味わって終えるはずの量が、どうしても箸を進ませることができない。胃の中に大きなものが詰まっていて、流れてくる粥を圧迫するかのような感じがするのだ。



実は…今日はじめて、こんなことが起こったわけではなかった。
4日ほど前から、同じような症状が続いている。それは朝だけではなくて、一日中ずっとそんな調子だった。
身体はだるくなり、庭へ下りてみることさえおっくうになっていた。
「なんだろ……病気なのかなぁ…やだなぁ……」
あかねは憂鬱な深いためいきをつくと、祥穂も心配そうに腰を折る。
「薬師をお呼びいたしましょうか?お体に障りがあっては、殿が心配されますよ?」
「うーん……別にどこか痛いとかってわけじゃないんですよね…。何て言うか……だるいのね、身体が。気付くとぼーっとしてるっていうか。」
顔色を伺ってみるが、青ざめているとか発疹が出ているという感じはない。
ましてや傷があるわけでもなく、健康そうではあるのだが……本人の言うとおりに、どこか上の空という雰囲気がやや感じられる。
「やはり…一度お体の様子を見て頂いた方が良いと思われますよ?病いも早いうちに手を打っておけば、すぐにお元気になられるはずですから。」
祥穂だけではない。友雅が努めに出ている間、ずっとあかねの世話をしてくれている侍女たちも、揃って彼女を取り囲むようにしながら不安な目でこちらを見る。
「うん……じゃあ診てもらうことにします。何かあってからでは困るし。」
そう、それこそ友雅を心配させてしまうことになる。それだけは避けたい。

いつも、ずっと、何度でも耳元で囁いてくれる甘い声。

『常盤木の緑のように、いつも鮮やかに輝くあかねの笑顔が好きだよ』

抱きしめながら、口付けながら、そして共に眠りにつく枕元で……そう言ってくれる友雅の声が、今もふと頭の中に浮かんでくる。胸の奥が熱くなる。

……や、やだなー……ばっかみたい☆思い出し笑いしてるよワタシ☆

赤く染まった両頬を手で押さえて、愛しい男の囁きに一人浸ってみた。


そうしてしばらく時が過ぎたころ、侍女の一人が足早にあかねのいる部屋へと戻ってきた。
「奥方様、御客人がいらしておりますが、如何なされますか?」
「お客さん…?誰だろう?友雅さんはいないけど…私でも相手出来る人なのかな」
友雅の性格上、自分の屋敷に客を呼ぶことは殆どないと言って良い。と言うよりも、自宅に招くほど親しい人間関係を作ることはないのだ。
そんな友雅の屋敷へ訪れるものは、大概顔ぶれが決まっている。

今日、ここに訪れた彼も、象徴的な何かに引き寄せられて、同じ気を持った数人の中の一人だ。




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Megumi,Ka

suga